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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

正月はとっくに終わったが2016年にハマったものでも振り返る。(※ようやく「ユーリ!!! on ICE」の話)

前回、「正月で暇だし2016年にハマったものでも振り返る。」とかいって、ユーリの画像をこれ見よがしに出しておきつつ、

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

結局延々ハイローの話しかしなかった私だが、何というかねえ、ユーリについてはずっと書きたいと思っていたんですけど、書くべき事が多すぎてねえ、どうすればいいか…どっから書けばいいのか、分かんないんすよ…

 

あれだけオタク界で盛り上がっていたのだからと意気揚々とコミケカタログを開いたのに、全然スペースがなかったハイローとは異なり、

「この行列何だ!?」と思ったら、大体ユーリの法則、というのを目に見えて体感出来たくらいなので、既に大盛り上がり。

面白いのは皆知っているわけだし、今更なあという感はある。

なので、面白いのは皆知っているから、かなり個人的な、自分のフィギュアやBLに対する思いを中心に語りたいと思う。

 

ところで、2016年に大ハマリしたもののうち、「まさかハマるとは思っていなかった」のがハイローだとすれば、始まる前から「絶対にハマるに決まっている気がしていた」のが「ユーリ!!! on ICE」である。

 

というのは元々、スケオタまではいかないまでも、結構フィギュアスケート好きなんですよね。

しかも、フィギュアを好きになったきっかけというのが、かのプルシェンコなので、どう見てもプルシェンコに寄せてるっぽいロシア人のキャラクターがいるっていうのはかなりポイントが高かった。

更に、私の、「フィギュアスケートが好き」っていう思いには、後で説明するが、「見たいんだけど見たくない」と表現すべきような、色々アンビバレントな思いが入り混じっているのだが、

キャラ設定やPVを見た時点で、この「ユーリ!!! on ICE」というアニメは、私が抱いているフィギュアへの想いと、フィギュアを好きな理由、更に私が萌えるやおい的関係性のパターンをかなり汲み取ってくれているような作品なんじゃないかという気がしたのですよ。

 

www.youtube.com

 

結論から言うとその想像はある程度裏切られたわけだけれど、裏切った上で、目からウロコが落ちるような「男同士のラブのあり方」を示してくれたように思う。

というのは、後に詳しく記述するとして、先に、フィギュアに対する想いの話。

 

 

フィギュアという残酷スポーツと私が当初想像していた「ユーリ!!! on ICE」

 

冒頭に載せた記事の登坂広臣に関するくだりでも延々この言葉について語ったので、お前、どんだけ「残酷」って言葉好きやねんって感じではあるが、

私がフィギュアスケートや羽生くんを好きなのは、端的に言えば、それが美しいと同時に非常に残酷なスポーツだからである。

 

残酷さという言葉が意味するものは色々あるが、第一には、個人の才能や力の差とそれらの限界が、この上なく歴然と現れてしまう、という点にある。

頑張れば何とかなるとか、途中までは負けてても後で一点取り返せば勝ちとかそういう話ではない、「個人」の力と才能こそが一番物を言う世界。

 

考えてみれば、「勝生勇利って、GPFに出られるだけで相当すごいじゃないか」っていうの以前に、全日本に出るような選手というのでさえ、その地域では一番の、親や友人や地域の人に「すごいすごい」と褒められ存分に期待をされ、四六時中練習に打ち込み、人生の殆どをフィギュアに注ぎ込んだような人間のはずである。しかし、その殆どがTVでは無名扱いで放送されなかったりもする。

GPSに出るようなトップの選手でさえ、たとえば羽生くんとはトータルで100点くらい差があったりする。そしてたぶん、彼らは一生かかっても羽生くんには追いつけないのである。

もっと残酷なのは、ノービス時代やジュニア時代は、羽生くんと肩を並べていた、一緒に練習していた、ないしは一緒に表彰台に乗ることもあっただろう選手が、現在ではもう天と地ほどレベルがかけ離れてしまっている場合。

 

私は、羽生くんを見るとき、彼の裏に数多いるだろう、かつては彼と同じくらい可能性があったことを信じていた、或いはもう信じられないのにそれでも四六時中練習に打ち込まざるを得ない人たちのことをつい考えてしまう。

それで、羨望と同時に、もっと彼の、常人では決して到達できない才能を見てみたいという思いと同時に、よく知らないのに何となく胸がギュッと掴まれるような哀しさがよぎる。

論理的順合性のない非常に不可解な心理だが、「だから」私はフィギュアや羽生くんが好きなのだ。好きと言うのは正確ではないかもしれなくて、この「影の予感」によってどうしても胸がざわざわする感じが、彼を見ざるを得ない一つの大きな理由になっている。

 

ということで、初めにPVを見た時点で、っていうか一話の途中まで、私はこれ、てっきり「絶対王者であるヴィクトルと、彼に憧れる勇利が氷上で戦う話」だとばかり思っていたのだった。

であるならば、「ヴィクトルと一緒にGPFで金メダルを目指したいです」って台詞はちょっと変なのだから気が付けよって感じだけれど、これ「ライバルとして金メダルを目標に一緒に戦おう」ということだと捉えたのである。

 

だからこそ、最初のGPFでボロ負けした勇利が、ヴィクトルから、「記念写真、いいよ」と声を掛けられるシーンは物凄くゾクッとした。いいシーンだと思った。

同じ氷上で戦っていても、この時点では、ライバルとさえ認定されていなかった。GPFに出ること自体、勝生勇利にとっては「記念」に過ぎないものだと、ヴィクトル側は捉えている、二人のそもそものポテンシャルや才能が圧倒的に違うことを、天才的才能を持つ者の無邪気な傲慢を、そして、上記に書いたようなフィギュアスケートというスポーツが持つ残酷さを、一言で表現するような大変良い台詞。

 

なので、ここから描かれるべきは、圧倒的存在ヴィクトルに勇利がどうにかして追いつこうとし、

だからこその、「一緒に金メダルを目指す」つまり、来年はライバルとして認めてくれっつー展開かと思っていた。

そして、そこで更に描かれるものは、というより描かれるべきは、私にとっては、「憧れを超えてしまうことの喜びと哀しみ」であるはずなのだった。

 

 

憧れを超えてしまうことの喜びと哀しみ

 

フィギュアスケートというスポーツが持つ残酷なあと二つの点は、

「最高の瞬間が非常に短いこと」と、「天才への期待値はインフレ化する」ということだ、と思っている。

 

例えば、同じく個人の才能が物を言うであろうピアノみたいな芸術と違うのは、肉体的ピークが表現的ピークとだいたい重なるというあたりである。つまり、身体能力を極限まで酷使した上に生まれる「美しさ」ゆえに、その美しさを個人の持つ最高レベルに表現できる時期はごくごく短い。

そして、たぶんジャンプなんかは、物凄く細かいところで調整が上手くいった時に初めて成功するものであるため、肉体的なものや精神的なものに左右されやすく、私たちはいつでも彼らの最高の演技が見られるってわけでもない。

前回は良かったが今回は良くないかもしれない。でも前回よりも良いかもしれない。同じプログラムを滑っていても、フィギュアは一度だって同じ演技は有り得ないのである。

最高の瞬間は次かもしれないし、もし次に最高の瞬間が来れば、その次はもう下っていくばかりなのかもしれない。

 

なんていうか例えるならば、もし桜が一年中咲いていたらあなたは桜を見ますか、っていうことなんですが、

 これも、私の中にある非常にアンビバレントな感情かつ傍観者ゆえのエゴで、「だからこそ」、こうした「死の予感」こそが、私がフィギュアを見てしまうもうひとつの理由になっているのだが、

「だからこそ」もう一方では、羽生くんを見たくないのである。怖いからである。次の瞬間はもう最高を過ぎているかもしれないからである。

 

こうした面は、実際のユーリの本編でも示されていて、だから、「俺はこの容姿でいられる時間が短い」「僕たちの競技人生は短い」というくだりは、そうなんだよなあと思わず涙ぐんでしまったが、

本編が始まる前、こうしたフィギュアに対する、「見たいけど見たくない」という感情は、競技者でありながら、かつヴィクトルの大ファンでもある勝生勇利にとっての、「越えたいが越えたくない」という葛藤で表現されるのだと想像していた。

 

憧れを越えることは競技者としては喜びである一方で、哀しみでもあるはずなのだ。

彼を越えるということは彼が最高でなくなったということだからだ。

 

 しかし、これは他人のエゴイズムであり、天才側にとってみれば、悲惨な重圧である。

羽生くんが、先日のNHK杯で、「106点しかない」みたいなことを自分で言っていたのが記憶にある人はピンと来るだろうが、「天才への期待値はインフレ化する」。

彼が観客に呈示した「最高」の質や点が高ければ高いほど、「次はもっとすごいかもしれない」の「凄い」レベルがどんどん上がっていくわけである。そのインフレ化した「凄い」を自分で越えることが出来なければ、大衆は、「がっかり」する。駄目になったと決め付ける。

常に自分を越え続けなければならないそれは酷いプレッシャーであり、ゆえに圧倒的な天才は孤独である理由はそこにある。

戦うのは敵ではなく自己や他人の中にある「過去の自分」という記憶であり、言い換えれば敵は自分の中にしかないからである。向き合うものは自分しかいないからである。

 

だからこそ、天才側に視点を移せば、

「越えられることは悔しさであり、かつ喜びである」

ということだと思うのだ。

 

……って話かと思ってたんですよ。で個人的嗜好を言えば、こういう関係こそが、私が一番好きなやおいなんですよ。

っていうか、途中まで多分敢えてそういうミスリードをしていたわけじゃないですか。

「いつか勇利くんがヴィクトルと一緒に戦っているとこ見たい」みたいな台詞とか、勇利も、ユーリをTVで見てその才能に焦ったあと、

「絶対にいつかまた、ヴィクトルと同じ氷上で」って言ってるし。

だから、ハマるに違いないという確信があったのだった。

 

いやー違いましたねーーいやもしかしたらヴィクトルも競技に復帰することだし二期はそういう話になるかもですけど、まさかヴィクトルが勇利のコーチになる話だとはねーーなんかねーもっと純粋なラブストーリーでしたねー

いや勿論、ヴィクトルは上に書いたような天才の孤独と苦悩を持っていたわけだし、

少なくとも国内には一緒に戦う仲間がライバルがいなかったというかいなくなっていった勇利や(優子ちゃんについて「昔はスケートがうまかった」っていうシーンや、「失っていったもの」というモノローグで、かつては一緒にスケートをしていた優子ちゃんや西郡の姿が消えていくシーンでも、それは表されている。昔のリンクメイトを自分だけがどんどん越えて、一緒の次元で戦える相手が身近にいなくなっていく過程があるからこその、「一人で戦っている」っていう想いに繋がるわけよね)、同世代にはライバルがいなかったユーリ、それぞれが孤独だったっていう描写はあったけれども

そういう意味で半分はそういう話だったんだけど、でも半分は違ったわけである。

でも結果的にハマったんですよねー

 

ハマった理由はもちろん、腐女子歓喜のサービスシーンが一話に一度は挟まれるのでアドレナリン大放出っていうのもあるし、

 

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(一話に一回は挟まれるサービスシーン…)

 

ところどころで、上記に書いたような、私がフィギュアに抱いている思いみたいなのが要素として散りばめられていた(競技人生のピークが短いことや、全力を出して自己ベストを叩き出したとしても勝てない相手はいること、ヴィクトルの持つ天才の苦悩と孤独、そして、生徒としてヴィクトルに期待することと、ファンとしてヴィクトルに期待すること、競技者としてヴィクトルに期待することが、それぞれ相矛盾するがゆえの葛藤、など)

というのも大きいが、一番は、私みたいな素人がそうして「想像する物語」からの裏切り方が凄い、という点のような気がする。

 

「ユーリ!!! on ICE」はいつも、私を驚かせる天才だっt…ていうかね 、一視聴者が容易に考えつくような話をやってちゃあ駄目ってことなんですけどね普通に!!

 

 

「ユーリ!!! on ICE」のミスリード

 

「ユーリ!!! on ICE」のミスリードは、(少なくとも一期に於いては)「ヴィクトルと勇利がライバルとして戦う話」ではないという他にも何個かあって、大きいところを羅列すると、

 

■勇利のSP曲で描かれる物語―色男が町一番の美女に目を付け、美女は色男に溺れるが、男は最後街を去ってしまう―とその物語の「暗示」が、「ユーリ!!!」の本編の物語にトレース「されない」

 

■7話での、ミッキーとサーラの話―ミッキーの精神的依存先であるサーラが離れることで、ミッキーが良い演技ができた―が、同じく、一時的に離れる状況にあったヴィクトルと勇利の関係に適用「されない」

 

■あれだけ、基礎点の高いジャンプを飛ぶJJに勝つには~と、対・JJ戦を煽っといて、JJがラスボス「ではない」

 

劇中劇が本編を暗示するって、フィクションではよくある手法だと思うんですが、暗示してないんですよ「ユーリ!!! on ICE」は!!

で、その裏切りが「拍子抜け」ではなく、より効果的に演出として働いているのが凄いんですよね。

 

7話では、あの例の月9名シーンを生み出しましたし、GPFの魔物に飲まれたJJの不調とそこから立ち上がるシーンは劇中屈指の号泣ポイントだったと思う。

ライバルに勝つシーンは、そのライバルが強ければ強いほど燃えるわけなので、JJ対策をどうするかを、「JJがミス連発」にするっていうのは下手をすると拍子抜けになってしまうのに、それを単にJJが強い、よりもっと心に響く演出に持っていく力量。

ジャンプが抜けに抜けまくって、それでも、4回転に挑戦するあのシーンや、ボロボロの演技を終えたあと、それでも笑顔を作り、「イッツJJスタイル!」とポーズを決めるまでの流れ、自分が求めているJJのために、世界が求めているJJのために、立ち止まることは、挑戦しないことは、落胆することは許されないのだと、立ち上がらなければいけないのだという決意が伝わってきてもう号泣メンですよ、ってかあそこで一番泣きましたよ。

 

しかし、私が一番驚いたのは、勇利のSPで表現される物語がミスリードだったというあたりである。

ヴィクトルがまだ何を考えているのかよく分からなかった3話時点であれを見れば、誰でも、ああ、この勇利のSPで描かれる物語が本編でのヴィクトル―勇利 間の関係に適用されると思っちゃうわけじゃないですか。

色男は女を翻弄したあと街を去る、つまり、ヴィクトルと勇利の別れの予感ですよ。

しかしこれは本編にトレースされず、結局2人は離れずに傍にいたわけですよね。

かつ、構造上もう一つミスリードが含まれていて、10話のどんでん返しで、勇利は美女を翻弄する男側だったことが判明したという。

実は、先にヴィクトルに「Be My Coach」と誘い、誘っていながらそのことを完全に忘れており、近づこうとする(物理的に)ヴィクトルから遠ざかったり、絶対に僕から離れないでみたいな熱烈アプローチをしたり、お揃いの指輪をくれてその気にさせたかと思えば、次の日には「GPFで終わりにしよう」とか別れ話をする、

 

もうね、何、「いきなり現れた憧れの人に振り回されるヒロイン」ぶってんだよ勝生勇利!!!って感じですよ!!

お前がヴィクトルを翻弄しまくりじゃねえかよ!!!

しかも怒られると結構逆ギレするしな!!!

自分が勝手に放牧宣言したせいでヴィクトルが泣いてんのに、「ヴィクトルでも泣くんだー」って髪かき分けて顔をマジマジと見たり、自分が泣いて怒鳴ってヴィクトルをおろおろさせたことに対して、「僕が急に泣き出した時のヴィクトルの顔面白かったなー」とか笑ってんですよ、クソサイコ野郎ですよ!!

だがそれがいい

だがそれがいい

このね、勇利が全然、内向的で大人しくて純粋無垢のヒロイン・ポジションではなく、大人しそうなのは見かけだけで、トップアスリートかつ表現者ならではのエゴ全開の超自己中男というキャラ設定が、非常にこのアニメの魅力になっている。

 

 

勝生・サイコパス・勇利とユーリ・不憫・プリセツキーの話

 

通して見るとよく分かるのだが、このアニメ、世界の頂点で戦うトップアスリートかつ一人で氷上を舞い表現するフィギュアスケーターという性質もあってなのか、

「○○なのは(○○ができるのは)世界中で僕だけ」

という台詞がかなり頻出である。

そうした唯一無二性を至上とする価値観なので多分基本的には、俺が目立ちたい!人間ばかりで、そんな中にあって、なかなか自ら自己主張できず、自分への自信の無さから本番では上手くいかない勝生勇利という主人公が、ヴィクトルと練習や生活を共にすることで、「彼と一緒にいたい」「彼を驚かせたい」という思いをスケートに乗せ表現できるようになっていく…

 

みたいな話と見せかけて、いやそんな話なんだけどさ、半分は違うんだよ。

だってさ、これも通して見るとよく分かるけど、勇利って基本的に、自分とヴィクトル(厳密には、ヴィクトルと一緒にいたいという自分の気持ち)のことしか興味ない奴じゃないですか。

 

中四国大会の説明の際に、三姉妹に「あ、でも南健次郎くんが出るよ」みたいに教えてもらってるはずなのに、翌話ではそのことをすっかり忘れ、南くんに話しかけられたあと、「南健次郎選手」って名前が呼ばれても、全然ピンと来てないし。

 

で、まさしく、久保ミツロウ漫画の童貞主人公の系譜を受け継いでると思うのは、

「自分に自信がない」という状況が、こういう、基本的に自分にしか興味が無いことの裏返しとして現れているというあたりで、

勇利って、

「○○って思われたらどうしよう~」とか、「絶対○○って言われるよ~」(こんな写真出回ったら絶対遊んでるって思われるよ~とか)、みたいな台詞が非常に多い。結構何回も出てくる。

これは厳密な意味で他人そのものを気にしているんじゃなくて、「他人の鏡に映っている自分」を物凄く気にしちゃってるってことですよね。こう思われたらどうしようとか、ああ言われたらどうしようとか、「他人の鏡」を強く内面化しているので、だからこそ、なかなか自信が持てない。(自分に絶対的な自信がないから他人の鏡を過剰に気にするとも言えるが)

端的に言うと、自意識過剰型ってことで、こういう人って、自分が取るに足らない存在だと思っているから自分に自信が持てないんじゃなくて、自分に強く興味を持っている(自分への関心が強い)から、引っ込みがちになるんですよ。

ほんとに取るに足らない存在だと思ってたら、ああ言われたらどうしよう~とか気にしませんから。

 

で、そんな基本的に、自分とヴィクトルのことしか考えてない勝生勇利の一番の被害者だと思うのが、ユーリ・プリセツキーで、もう私は本当にユーリが不憫で不憫で…

 

だって、ユーリは最初っから、勇利のことをかなり気にしてますよね。

一話でのトイレのシーン、あれ多分わざわざ、勇利の姿を見かけたから追いかけってってるじゃないですかユーリは。

何故か、惹かれてしまった男。同世代では敵無しだったユーリが、多分、可能性みたいなのを感じてもしかしたらライバルになるのかもしれないと気になったんだろう。

それが、情けなく泣いていたから、俺のライバルになるかもしれない男がボロボロ泣いてんじゃねえよ、というがっかりした気持ちと、(ユーリなりに)発破をかけたかったからのあの台詞で、その後も、ユーリは勇利にライバル心全開なわけです。

見てろカツ丼とかどうだカツ丼俺の滑りはとか、いちいち勇利を意識して滑っているし、それでありながら、勇利が失敗しそうになると思わず応援しそうになり思い入れぶり、勇利が表彰台のぼれなかった時は、(何故か知っている)誕生日プレゼントとか称して、カツ丼ピロシキをあげて元気づけようとしてくれている。

 

なのに、この、ユーリの勇利に対する思い入れっぷりに対して、勇利、あんまユーリのこと気にしていないのである。

っていうか、正確な意味で、「ライバル」だとあまり思っていなさそうな節がある。

 

例えば、

ユーリが、ヤコフの元奥さんに教わっているらしいみたいな報告を優子ちゃんから受けても、「あーそうなんだ」ですよ! まるで興味無し!!

ユーリが滑りを終えて、どうだカツ丼俺の滑りは!って時にも、ヴィクトルといちゃいちゃしてるだけだし。子供の運動会に来た夫婦みたいに呑気に「ダバーイ」とか言ってるだけだし。

 

あと、ロシア大会でのシーン。勇利は、

「この間の中国大会と違って仲良い選手いないんだよな~」とか言っているが、つまりこの台詞、一応一定期間、寝食を共にして面識あるはずのユーリは、勇利にとって「仲良い」枠には全く入れられてなかったっつーことである。

 

その後の流れも大概アレで、エレベーターで一緒になったユーリに、勇利は、

「お互い頑張ろうね~」とかのほほんと声を掛け、

「あ? お前はここでボロ負けすんだよ」とか返されているわけだが、ここまで勇利はニコニコと微笑んでいるわけ。

ユーリにお前はボロ負けすんだよと言われた時には微笑んでいるのに、それが、

「お前は負けてヴィクトルはこのままロシアに残る」みたいな台詞で初めて、表情が曇る。

  

そうなのだ!!

繰り返しになるが、勇利は本当に「ヴィクトルと一緒にいられるか」しか気にしてないんである。

滑っている時のモノローグも、ユーリはあんなに勇利を意識してるのに、当の勇利は、ここで勝たないとヴィクトルと一緒にいられない~とか、ヴィクトルを驚かせたい~とかヴィクトルの想像を越えられる~とかヴィクトルばっかである。

もちろん、ユーリに対して、焦燥とか敵対心みたいな感情を抱くことはあったけれど、その根底になっているのは、「ユーリに負けたらヴィクトルが自分の元から離れることになるから」なのであって、厳密な意味で、「ユーリ自身に負けたくない」からじゃあなかった。

 

っていうか、それは対・ユーリだけではなくて、本編を通してほぼずっとっていうか、負けず嫌いと言いつつ、それはむしろ、「誰よりも自分が美しいと見せつけたい」みたいな表現欲であって、「特定の誰かに勝ちたい」みたいな闘争心とか「特定の誰か」を絶対に勝ちたいライバルとして分析し目に焼き付け執着したりとか、あんまりそういうシーンがない。

スケートを続けたいのは、より良い表現ができるための根底にあるのは、ヴィクトルと一緒にいたいとかヴィクトルを驚かせたいとか、そういう気持ちのが強い。

 

で、このことはおそらく非常に重要なポイントだと思っていて、

だからこそ、あのラストに意味と感動があるのだ。

 

ヴィクトルは、勇利の、スケートを続けたいとか表現したいという欲望の強い原動になっていたわけだけれど、スポーツにもう一つ重要な「勝ちたい」という闘争心の部分に火を付けることができたのは、ユーリの方だった。

あそこで初めて勇利は、ユーリに振り向いたんですよ。

勇利が、本当の意味で誰かに「勝ちたい」と思った瞬間ですよ。

 

思えば、実は2話でもその片鱗は出ていて、ヴィクトルに、

「勇利はどうしたい?」と聞かれた時に、「ヴィクトルと一緒にカツ丼食べたい」って答えるシーンがある。

初めて見たときよく分からなかったけど、

つまり、カツ丼=勝たないと食べられない食べ物

という前提を踏まえた台詞であって、だからあれは、勇利が

「勝ちたい」と声に出すことが出来たってことなのだな。

 

それまで、シニアデビュー初年なのに、金メダル獲るとかガンガン宣言し勝利に対する欲望を隠さないユーリに気圧されていた勇利が、ちゃんと自分も、

「勝ちたい」と声に出して宣言出来るようになったシーンなわけである。

 

この、

スケートへの愛情や表現欲=ヴィクトル 闘争心=ユーリ という人物配置は、表現の美しさと肉体的限界ギリギリの大技成功両方がポイントとなる、芸術とスポーツ、二つの側面がある「フィギュアスケート」という競技でこそ生きてくる配置なのであって、だからあのラストは、ユリオ報われてよかったねええという感動と同時に、フィギュアスケートアニメであるという意味を生かした良く出来た構造だなあと思った

 

 

 で、この主要三人の構造について更に気が付いたんですが、これ怒らないで聞いて欲しいんですけど、「ユーリ!!! on ICE」=ハイロー説。

というのは、このアニメに於いて、

ヴィクトル=伝説 であり、ユーリ=希望 として象徴されているように思うのだ。

ユーリのGPFの演技を見て、ヤコフがジュニア時代のヴィクトルの影を見たように、ユーリは、未来であり、これからまだ沢山の可能性がある希望なのである。

そして、伝説に影響を受け、希望に闘志を与えたのが中間の世代にいる勇利、という構造。

まさに「Hope&Legacy」の物語、すなわち、ハイローじゃないか!!

 

っつーのは冗談として、そういう風に、2人のユーリである、勝生勇利とユーリ・プリセツキーの関係、或いは、クリスとヴィクトルの関係なんかが、羨望と対抗心、嫉妬や友情など様々な感情から成る非常に「やおい」的である一方で、物語の軸となるヴィクトルと勇利の関係は、私が当初思っていたより、もうずっとずっとラブストーリー的ですよね。

「憎」や「妬」がないわけ。

 

ヴィクトルと勇利について、「BANANA FISH」の英二とアッシュを彷彿とさせるみたいなことを書いていた人がいたが、天才的な外国人と朴訥とした日本人みたいな表面上のスペック以上に、理由として大きいのはそこだと思う。

BANANA FISH」は、アッシュと英二以外にも色々、男同士の深い関係性みたいなのが出てくるんだが、それは殆どが、男同士の「愛憎」劇なわけである。

アッシュを執拗に追う、コルシカ・マフィアのボス、ディノ、チャイニーズ・マフィアを支配する李家の末弟である月龍、チャイニーズの不良少年グループのボスであるシン、など、アッシュに執着するないしは敵対する男たちは皆、基本的に、彼のことを、強く憎んでいる。自分には到底持ち得ない物を持っていることの憎しみ。絶対に自分のモノにはならないことからなる憎しみ。すなわち、憎んでいるという言葉が同時に、<愛している>という意味にもなる、羨望と憧憬の裏返しとしての執着であり嫉妬心であり憎悪なのである。
しかし、そんな、アッシュを軸とする複数の「ブロマンス」の交錯の中にあって、「ラブロマンス」が一つだけ描かれている。
それが、もう一人の主人公、日本人の青年、英二との関係である。

 

この、アッシュと英二の間にある絆だけは、非常に、<ラブロマンス>的で、互いが、一緒にいたいから一緒にいたい、関係のための関係、というような間柄として描かれている。

 

「ユーリ!!! on ICE」が新しいのは、一つには、スポーツ物やバディ物で、男同士の深い関係性を「やおい」的に描く物語っていうのは今までも沢山あってその関係性を腐女子は、恋愛に読み替えて同人誌を作ったりしてきたわけだけど、「ユーリ!!!」はね、スポーツ物かつ純粋な(広義の)「ラブストーリー」をやってんですよ。

それも、「戦う男が、頂点を目指す男が彼を応援してくれる女の子に恋をする物語」サブストーリーではなく、彼の、彼に対する想いこそがメインという形で。

 

「弟の夫」という漫画に、男同士の夫婦について、姪っ子に「どっちが奥さんなの?」と聞かれ、それについて、

「どっちもhusbandだよ」と答えるシーンがあるんですが、私はこの「どっちもhusbandだ」という台詞を思い出した。

 

ヴィクトルも、当初は、自分のライバルを作りたいとか、何より「自分ができること」に自分でも飽きてしまったような状況にあって、本当は自分が一番何かに驚きたかったのだろう中にあって、何か自分を驚かせてくれるものをみたいな気持ちとか、要するに自分のためみたいなところはあっただろうけど、どんどん、勇利に惹かれて勇利とこのまま一緒にいたいみたいな気持ちの方が強くなっていってしまう。

自分が一番だった男が、競技者たる自分の可能性を殺してまでも、コーチとして勇利の傍にいたいというところまでいくわけですよ。

 

 

あ、スポーツ物で、かつラブストーリーって、出来るのか! やってもいいんだ!

っていうのが一つ大きな発見である。

しかも巧いのが、関係が深くなっていっているのとか時間経過を、勇利の口調の変化(途中からタメ口になっている)や、態度の変化(自分からヴィクトルにグイグイいったり、なんか対応が杜撰になっていっている)で表現してるとこ、

5話でいきなりヴィクトルへの態度が杜撰になっているのは多分時間経過だとして、中国大会の時にはシングルずつだったはずの部屋が、ロシアでは当然のようにツインになっているのは、間に何かあったと踏んでるんだけど…

 

という腐女子的邪推はともかく、更にもう一つ凄いのは、劇中でそうした男同士の恋愛めいた関係性を「突っ込んで」ないところですよね。「違和感のあるもの」として表現されていないと言ってもいい。

 

当事者たるヴィクトルも勇利も、そもそも、「男同士なのに…」「男なのにキモいって思われないかな」みたいなことを一切考えないのはおろか、

ヴィクトルと勇利が、お揃いの指輪をしているのを見て、ピチットくんが、

「皆ー僕の親友が結婚しましたー!」

と即座に祝福していたりする。

これも何気に良いと思ったのは、その後登場するJJまでも、

「残念ながら金メダルを取って結婚するのはこの俺だ」

って言っているところ。

つまり、自分(JJ)とフィアンセ(女性)の婚約・結婚と、ヴィクトルと勇利の婚約・結婚ちゃんと「同列」に、「同じ次元の話」として扱ってるんですよ。

 

これって凄いことで、

今までこういうのって、何となく「劇中で突っ込みを入れなければいけない」みたいな不文律があったわけじゃないですか。

キモいとかお前らそっちなの?みたいな「茶化し」とか「デキてるんかい!」みたいに「笑い」に変えたり、それは流石にしないまでも、

商業BL漫画であってさえしても、これまでゲイを公言していなかった男同士が何の葛藤もなく普通にお揃いの指輪つけてたら「それは、どうなんでしょう、やっぱり人の目が気になるでしょうし他人も、え?って思うのでは」みたいなツッコミが多分編集から入るし、

「俺達…男同士なのに…」みたいな葛藤とか、「ゲイじゃなかったはずなのに…何でこいつに惹かれるんだろう」という思索とかを描くことが、むしろ、「深いBLの物語」みたいになっていたわけじゃないですか。

そうでなければ、「俺はゲイで」みたいな「理由付け」が必要必至だったわけじゃないですか。

っていうか、ユーリファンでさえ、

「この作品はただのホモじゃなくて、もっとこう壮大な師弟愛とか…」

みたいに言うじゃないですか。そういう言い方って非常に差別的じゃないかとは思うけども、差別心の他にも、そもそもの、なんかさあ、性愛的関係が、師弟愛とか家族愛とか友情よりも下、みたいなさあ。そういうさあ。

 

 でも、そういう気持ちは私にもあったのである。

恋愛を下に見る気持ちとか、男同士の葛藤が描かれているものこそ深い物語だ、みたいな考え方。

私は「ユーリ!!!」を見て、考え直した

むしろ、現実もこういう世界であるべきだと。

 何で、男同士なら、茶化したり或いは葛藤しないといけないのか?

「理由」がいるのか?

悩むべきものでも突っ込むべきものでも特別な理由が必要なものでも珍しいものでもはたまた素晴らしいものでもなく、JJとフィアンセの結婚と自然と「同列」に扱われる世界、これって物凄くポリコレ的に正しいっていうか、ああ、それでいいんだ! と目からウロコ。

という意味で、自分のBL観がガラリと変わった作品でもあるのであった。

 

 

…でもやっぱ、ライバル萌えクラスタとしては、ヴィクトルと勇利がバチバチに戦ってるとこも見たいや。

 

正月で暇だし2016年にハマったものでも振り返る。(※今回はハイローの話しかしません)

私の2016年を構成したもの。

 

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 以上。

(ところで私は2016年の前半、何を楽しみに生きていたんだろう…火アリかな…あれも工と窪田正孝が出ていた…)

 

 

申年ということで年女でもあった2016年は私にとってはかなり変化の年で、新卒で入った(ブラック)会社と激モメして無職になったりそれまでに2度話し合いの場を設けられたり向こうが社労士なんかを出してきたりこっちも労働基準監督署や法テラスに駆け込む事態となったりしたのだが、所詮、20代前半程度の小娘如きがいくら、労働基準法を遵守しろ労働者の権利を守れなんて騒ぎ立てたところで世界は動くわけもなく逆に「会社なんて理不尽なことがあるのが当たり前だよ」なんて説教されたりなんかして、結局のところ、東大で美人でユーモアもあって電通でそして死ななきゃダメだったのだった。革命にはジャンヌ・ダルクが必要なのだった。死んだ後に世界が変わったって自分はそれを見られないんだから何の意味もねえ。糞喰らえだ。

2016年前半にジャンヌ・ダルクにならなくて良かった(なれないだろうが)と思ったのは、死んでたらユーリが見られなかったとかそういうことでもなくて(そういうことでもあるが)、2016年前半で自己の歴史をシャットダウンしていたら、きっと出会えなかったであろう自己に出会えたからだ。

去年時点の自分は、まさか一年後、今の会社で今の職についていることを想定もしていなかっただろうし、マイルドヤンキーについての卒論を書き散々EXILE的な文化をdisりまくった自分が↓

 

blog.livedoor.jp

 

よもやその約1年半後、登坂くーん!!!!とかきゃあきゃあ言って、カラオケで三代目JSBの歌をノリノリで歌うような人間になるとは思っていなかった。人生は分からない。

 

いきなり話が矮小になった。

 

 

ハイローの話。

 

ところで、矮小な話は続きますが、2016年年末、意気揚々と冬コミのカタログを開いた私は愕然としました。

 

「どうなってるんすか琥珀さん! オタク界でハイロー盛り上がったんじゃないんですか琥珀さん!! 全然スペースないじゃないですか琥珀さん!!!!!」

 

「ユーリなんて、どうせ銀盤もあるし通販で出るし後でもいいんだよ!! 雨宮兄弟や●代目やハ●羽●がなくて何が冬コミじゃ!!!!!!」

(※ユーリ本10冊以上買ってる奴が言うことではない)

 

これは結局のところ、支持層の問題で、アニメオタクよりもジャニーズファンの方が数は多いかもしれないが(わからんが)、絵心ある人は、とうらぶだの松だのユーリだのに密集しがちのため、同人のクオリティは前者の方が格段に高いみたいなそういうことなのかもしれない。

でも私は絵心ある人にもハイローにハマって欲しいので、これまで散々、腐女子的に何故ハイローが素晴らしいかをプレゼンしてきたわけだが、

 

 

①ハイロームービーの応援上映にいき、「今は亡きタツヤさんの影が離れない琥珀さんに、愛は自分の方に向いていないと分かっていながらも、それでも彼のためになれればと黙って寄り添い続けた九十九さんが、最終的には、何とか琥珀さんを自分の方へ必死で振り向かせようとするトライアングル・ラブストーリー」という構造に心を打たれる話↓

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

 

②雨宮兄弟が三兄弟という設定にしたことが、如何に物語に深みを与えているかと、登坂広臣のアイドル映画としては1億点ということを語っている話。私は確実にここで、クールでマイペースでツンデレっぽいのに根は甘え上手っぽい可愛さを併せ持つ登坂にオチた↓

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

 

③延々、雨宮広斗のことしか考えられなくなった結果の補完妄想

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

2017年もしつこくハイローの話をしたい(決意表明)。

もちろん、相変わらず「ハイロー?なんかEXILEが出てるやつでしょ笑」と一笑に付す周りの奴らに布教するための、映画版円盤の予約もバッチリである。

なにせ、ドラマ版は20話もあるし、後半なんか、ファンでさえ、「これ、いる???」ってくらい回想回想しつこい回想ばっかでダルくなってきたりもするので、順番としては、

 

2時間ダイジェストで何となく世界観を把握できる映画を観る→各々の掘り下げがあったり、ムゲンの過去がわかるドラマを観る→ここに至るまでの流れを把握した上で映画を観る→詳細やストーリーを理解した上で、細かいやり取りや設定に目を向けたり萌えたりするためにドラマを観る→その上で出た疑問を解消するために映画を→以下ムゲンループ

 

ということで、元旦からhuluにて、ドラマ版ハイローをもう一巡してみたわけだけれど、そこでようやく気付いたこと、そして③を書いた時点から現在までに生まれた、もう少し語っておきたいことなどを書いていきたい。

どれも、 私が如何に、ハイローを真面目に見てなかったかよく分かる話だが…

 

 

ようやく気付いたこと ①コブラの職業

 

これほんと、 お前、今更かよ!?って感じ満載だが、あの、コブラって、ガソリンスタンド屋だったんですね…

山王連合会は、主に商店街の息子を中心とする構成で、ヤマトはバイクの整備屋、テッツは銭湯、ダンはコンビニ?みたいな商店、とかそれぞれ職があったけれど、総長であるコブラは何してんだろとか思っちゃってたわけですよ。まさか総長が無職じゃカッコつかんし。

と思ったら、全然映ってましたね。コブラが一人黄昏ていることの多いあの場所、家なんすね、ガソリンスタンド屋なんですね…

 

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1話で、山王連合会の奴らがたむろっていた(そしてそのすぐ後に割られた)あの車、コブラんちのやつなんですね…理解理解(遅い)

 

しかし、ようやくコブラの職業を理解した故に、私の中では新たな疑問とそこから導き出される邪推が生まれることとなった。

 

疑問というのは、幼少時コブラの「俺んちも、夜まで仕事なんだ」という台詞。

いやまあおかしくはないのだけれど、仮に、コブラの親もガソスタ屋だったとすれば、あんな職住近接型なら、一応、家に帰っても親の顔くらいは見れそうなもんである。

ITOKANに見られるように、さほど公私がきっちりと分かれていないところが、山王商店街のカラーではあるのだから、親が商売をしているすぐ近くで、子供が遊んでいるみたいなことがあってもおかしくはない。だからヤマトの場合は、「母ちゃんパチンコ」というアリバイをわざわざ持たせているわけじゃないか?

しかし、コブラの口ぶりだと、「家帰っても親は仕事だから誰もいない」みたいな感じ。更によく考えると、コブラの両親は劇中に登場していない。

過去軸だけでなく、現在軸でも。

 

そしてこれは前から不思議に思っていたことだが、コブラにまつわるもう一つの大きな疑問は、山王時代とムゲン時代での大きなキャラ変である。

してみるとこれは、「EXILE紀年」(なんだそれ)とは、時間軸が逆である気がする。

というのは、コブラを演じている岩ちゃん(岩田剛典)という人は、元々、色黒でゴツいゴリラみたいな風貌だったのを、HIROさんに、「岩ちゃんは笑ってた方がいいよ」と言われたのや、世間の需要に合わせて、キラキラ爽やかでワンコのような愛くるしい笑顔が魅力的な王子さまキャラに変更した結果バカ売れした人間である。らしい。

あまりにもパスポートの写真と人相が変わりすぎていて、登坂と一緒にロス旅行に行った時に、出国審査や入国審査といった審査の度に止められたみたいな話をしていた。

 

しかし、ハイロー世界では、

過去であるところのムゲン時代は、如何にも明るくて無邪気なカワイイ後輩ワンコ系、自分のサインを書いちゃうようなお茶目な一面を持っているキャラクターであった。

 

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しかし、山王連合会時代になると、皆が騒いでいるのを黙って聞いているような、たまーに喋る時も眼光鋭くドスのききまくった低い声であるような、クール系のキャラと変貌する。

私もHIROさんと同じく、「岩ちゃんは笑ってた方がいいよ」派なので、ムゲン時代のコブラカムバーーーックって感じではあるのだけれど、

(しかし岩ちゃん自身の魅力は、ずっと陽のあたる勝ち組人生を歩んできた者ゆえの常にどこか余裕綽綽の感じと、一方で、俺は本来たかがJSBパフォーマー如きで終わる男じゃないという闘志というか野望というか選民意識というか生来の負けず嫌いさが言動ににじみ出ているのを隠しきれていないところにある。と思っている。)

 

とはいえ、このキャラ変には何か意味があるはずで、そのうちスピンオフで描かれることに期待したい。そして、この空白に、「岩田がコブラをやっている意味」と「家に誰もいない(家族が描かれない)謎」が生きてくるのではないか。

 

岩田がコブラをやっているという意味というのは勿論、

世間の需要に合わせてキャラ変(ついでに人相もかなり変わった)した岩田というEXILE紀元での物語が、おそらくは、「山王や街を守るために、自らに“総長”というキャラクターを付していった」コブラの物語にトレースされるのだろうし、

その“きっかけ”は、多分、実の家族絡みの気がする。

 

いやーでもなー家族絡みは雨宮兄弟でやったからなーネタ被りするからどうだろうなー

と思ったけど、チハル裏切りや美保ダウトで働くの理由も、両方「父親の借金」でネタ被りさせたハイローだから分からん。

何なら、雨宮兄弟だって言ってしまえば「親の借金」ネタだし。

困ったときのクルマ突っ込みと親の借金。

 

このように、ハイローの大きな魅力の一つは、描かれないことが多いゆえに意味と空白を考察する楽しみがあるのだが、しかし、適当にその場のノリで作っているように見えて、この正月のドラマ一巡で、実は設定や配役には結構ちゃんと意味と必然性があることに今更気が付いた。

 

 

ようやく気付いたこと ②配役の意味

 

先程、「コブラを岩田がやっている意味」と書いた。

最初見た時はLDH所属のアーティストに全然詳しくないからよく分からなかったのだが、っていうかこれまでに何百人も指摘しているだろうけど、ここにきて、配役の意味に気が付いて感銘した。これも、今更?って話。

 

なるほど、琥珀さんはAKIRAでなければいけないしコブラは岩ちゃんでなければいけないし、「RED RAIN」で、雨宮雅貴が大事なUSBを託したのが、琥珀さんである理由もすんなり呑み込める。あれは、ハイローの「物語」として理解しようとするから「???」なのであって、EXILE紀年の物語として捉えれば、絶対にああでなければならないのがわかる。

いや配役といったが正確には配役ではなかった。「役」があって「役を演じる人物」が割り当てられるのではなく、はじめに「人物」がいて、それから「役」が作られたはずだ。

 

琥珀(AKIRA)とタツヤが二人で始めた「ムゲン」というグループは、いつしか巨大・強大化する中で、統率が取れなくなっていく。ヤマトなどムゲンの古参メンバーからも「昔はこんなんじゃなかった」「知らない奴が増えた」などという不満が出るようになる一方で、ムゲンを創設したタツヤや最初に仲間になった太田などが、それぞれ自分の生きる道を見つけ、大人になっていき、取り残された琥珀だけが楽しかった頃の「ムゲン」という居場所に執着していく。

家村会によるタツヤの死や九十九の昏睡をきっかけに、ムゲンは解散し、そのメンバーとスピリットを継ぐのが、コブラ(岩田)率いる山王連合会である。

 

なるほど!!!EXILEじゃん!!!

「昔はこんなんじゃなかった」「知らない奴が増えた」そして、古参メンバーはどんどん去っていく。

でもな、生き残るためには、変わっていかなければいけないんだぜ!変わることと仲間を捨てることは全然違う!というのがHIROさんが突きつけるアンサーか

そもそも、三代目のオフィシャルサイトのTOPも、

EXILEの想い・信念を受け継ぐ伝説的ダンス&ヴォーカルグループ」

って、結局単純にあれっすね、「伝説的」とか「受け継ぐ」とかが好きなんすね

 

というのはさておき、そう考えると、

ムゲンの総長が、EXILEパフォーマーで最も知名度が高いだろうAKIRAで、その後を継ぐコブラが、三代目JSBのパフォマー1の人気者、岩ちゃんだっていうのも納得がいく。

 

ムゲンと因縁の深い雨宮兄弟が、TAKAHIROと登坂広臣なのも同じ理由か。EXILEのボーカルと三代目JSBのボーカルってことか!!なるほどね!!(遅い)

更に、この理屈でいけば、ムゲンと雨宮兄弟に因縁が深く、最後は、AKIRAとTAKAHIROがタイマンで戦っているのも、レッレで雨宮雅貴(TAKAHIRO)が琥珀さん(AKIRA)にUSBを渡しているのも必然性がある。

EXILEの、パフォーマーの要と、ボーカルの要、この二人が力を合わせて、迫り来る苦難や脅威(文春砲とか)と戦う、これ以上ベストな布陣があるか!?

 

更に更に、この「ハイローを、ハイローの物語ではなくEXILE TRIBEの話として捉える」手法を当てはめていくと、私があれだけ萌え萌えしていた、映画での

「広斗×スモーキー」にも、大きな意味と必然があったことが分かった。

っていうかそもそも、これも初めて気がついたのだが、私の見逃しだったら恐縮だが、あれ、「ドラマ時点」では、雨宮兄弟がSWORDを再来したのは、「いなくなった長男を探していたから」だと、まだ説明されていなかったのか!

あいつらは長男を探している、という先入観が強すぎて気が付かなかった。

 

ということで、「THE MOVIE」で初めて、雨宮次男と三男は、長男を探すためにSWORDをウロウロしていたことが分かった、ということが分かったのだが、雨宮兄弟の末っ子である広斗は、長男がどうやら無名街に顔を出していたらしいという情報を掴み、ルードボーイズのリーダーであるスモーキーに会いに行く。

そんな中で、ダウト等との抗争に巻き込まれたりなんやりしているうちに、広斗とスモーキーの交流が深まっていくわけで、それが大変萌えるのだが、ハイローの「シナリオ」的には実はこの交流、「萌える」という以外にそんなに意味がなかった。(勿論萌えるというのは大きな意味だが)

というのは、スモーキーの妹であるララを助けることを引換に、広斗はスモーキーから兄に対する情報を得ようとするのだが、結局、一年前?くらいに顔を出していたらしいみたいなあやふや情報以外は特に有力なことを聞けず、「RED RAIN」でその情報が生きたかっつーと別にそんなにだったはずだ。

 

じゃあ、あれは何だったんだよ??

という疑問が出てくるのだが、エグザイルトライブ的にはちゃんと意味があったのだ。

 

というのはですね、ドラマで、コブラはね、確かスモーキーだけ攻略してないんですよ!!! 乙女ゲー的な意味で!!!!

 

これも、私はそんなにハイローを真面目に見てなかったことがよくわかったので見逃しだったら申し訳ないが、確かそうだったはずである。

考えてみれば、鬼邪高校の頭である村山さんは、割と最初からコブラちゃん大好きであった。

最初ITOKANにやってきた時も、「コブラちゃんいないなら意味ねえ」とかいって帰っちゃってるし、そんな楽しみにしていたコブラちゃんが遂に高校にやって来てくれた時には、テンションブチ上がりで手叩いていたし、喧嘩後も、コブラちゃんの顔が思い浮かんだり、遂には会いに行っちゃったり、「またやろうぜ」とラブ・アプローチをしちゃっていたりする。

村山さんはコブラちゃん大好きなので、これは攻略済み。(乙女ゲー的な意味で)

 

ホワイトラスカルズのロッキーについても、ダウトから逃げた美保を匿ってもらったり何やりで、交流が生まれている。

あいつらそんな仲だったっけ? 男は拳で語り合うんだよ! ということで、ロッキーも攻略済みと言ってよかろう。

 

また、達磨一家の日向についても、一期のラストで熱いタイマンを張り、SWORD同士の狭い縄張り争い如きに自分らの力を消耗しあう不毛について説くコブラに、日向も一目置いたというか、日向が、自分のこれからを考え直すきっかけになったようである。

 

しかし、ルードボーイズのリーダーであるスモーキーだけが、コブラに攻略されていない。(確か。されてたらごめん。)

まあ窪田正孝のスケジュールの都合なのかもしれないが(ルードの登場シーンはやたら使い回しや回想が多かったり出てきてもスモーキーは病による不在だったりするのも)、それでも、無名街でスモーキーと直接対面を果たした時、山王側から出てきたのは、ヤマト・ダン・テッツであって、コブラは不在だった。

それも、スモーキーが途中で血吐いたりなんやりで曖昧になるし、この過程で、実は裏で糸を引いているのは家村会だというのが判明し、「SWORD同士で争ったらあいつらの思う壺だ!」ということになり、結局、直接対決にはならなかったはずだ。

 

コブラによる、SWORD各チーム攻略を、

LDHによる、スター●ストやワタ●ベエンターテインメントその他という他事務所を掌中に収めていくというのは言いすぎだが手を組んで(芸能界に於いて)勢力を拡大していく、打倒ジャ●ーズ!打倒バー●ング!

決意表明として見ると(論理の飛躍)

やっぱりここは、窪田正孝も攻略しておきたいところである。(論理の飛躍)

EXILE TRIBE的には、EXILE TRIBE側の誰かによって、というか厳密には、LDHの将来を担うスターグループたる三代目JSBの誰かによって、窪田正孝は攻略されねばならないのである。(論理の飛躍)

 

しかし、「THE MOVIE」のコブラには、琥珀さん説得という何よりの大きな役割と見せ場があるのであって、同じ映画の中で、琥珀さんも攻略し、窪田正孝までも攻略してしまっては、流石の岩ちゃんも持って行きすぎっていうか、話がとっちらかってしまう。いやまあ最初からとっちらかってるんだけど。

ってことで、白羽の矢が立ったのが、岩ちゃんと同じく、三代目のスターである登坂広臣だった、に違いない。(論理の飛躍)

あれは、これまでちょっとしか出てこなかった登坂広臣の見せ場を作るというのと同時に、「EXILE TRIBEによる窪田正孝攻略」という大役、という意味と必然があったのだ! たぶん!!

 

このように、ハイローという物語のシナリオ的には、一見不可解に思える展開も、「EXILE TRIBE」の話、として見ると途端に理解が明快になる。

 ただ、コブラ窪田正孝を攻略しなかったかについては、あんまり自信がないので円盤で確認したい…なんか、レッドラムの時は世話になったし云々みたいなこと言ってた気もする…(でもコブラいなかったよねあれ)

 

 

ようやく気付いたこと ③時間軸の崩壊

 

 ところで、これもようやく分かったんですけど、ムゲンが日向会をボコった頃って、コブラとかヤマトって高校生だったんですね…

というのは、ダン高校野球試合を観に行っている時や、ノボルと「もうすぐ高校卒業だなー」なんて話をしている時、コブラやヤマトが着用しているのは、Gジャンの次に、ムゲンが巨大化して以降着用されることになった革ジャンユニフォームだからだけど、これについて一点、不可解なことがある。

 

時系列を整理すると、

 

①タツヤと弟分だった、コブラとヤマトの加入 というシーンがあり、当初はタツヤと琥珀の二人だけだったムゲンが、7人体制になったことが語られる。

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②その、楽しかった7人時代から、話は「3年後」に飛び、

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③タツヤが、洋食屋をやりたいという話をし始め、ITOKAN創設のシーンとなる。この時点ではまだ、ムゲンのユニフォームはGジャンなのだが、

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 ④コブラやヤマトが、ノボルと「もうすぐ高校卒業だな~」と話している時点では、革ジャンになっていることが分かる。

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つまり、④の情報と、①~③の情報が噛み合わないのである。

18歳(高校三年生)時点では革ジャンとなっており、この一年の間に、Gジャン→革ジャンへの以降があったとしても、その「三年前」というのは、

中学三年生(15歳)なのでは…? バイクの免許取れないよね…?

まさか、こいつら、チハルをdisっといて自分たちは高校ダブってます…?

 

 

登坂広臣について。

 

と、やっぱり結構適当にその場で設定作ってるのでは…?

疑惑が出たところで、登坂広臣の話をさせてほしい。(藪から棒)

まるで繋がりがあるように書いたが、前項とは全く関係がない。登坂広臣の話をさせて欲しい。

 

実を言えば、登坂広臣という男に出逢ってしまったのは、ハイローが初めてではない。

というのは、2年くらい前、能年ちゃん主演の「ホットロード」という映画が公開される時、ふとした興味で予告編を見たことがあった。

その時、能年ちゃんの相手役・春山を演じていた男性を見て、衝撃を受けたのであった。

 

www.youtube.com

 

誰…? この人誰…? 超雰囲気あるじゃん!!! すげえ新人だ!!!!

 

ということで即座に名前をググった。

しかし、調べてみると、若者に人気絶頂のグループ、三代目JSBとやらのメンバーだということが判明したのである。つまり、ゆらゆら帝国やミッシェル、嘘つきバービーや八十八ヶ所巡礼などを愛する、サブカル・トンガリキッズ(古い)であるところの私が、絶対に、絶対に一番ハマってはいけない相手である。

ということで当時の私は、「俺はサブカル好き俺はサブカル好き俺はサブカル好きEXILEは糞EXILEは糞」という後天的理性と知識によって、「春山…イイ男…」という本能を封印することにした。なのでホットロードも観なかった。馬鹿。

 

ホットロード自体は、最近になって観たが、凄まじく壮絶につまんなかったので(30分で観るのをやめたのでどうなったのか不明)観なくてよかったとは言えるのだが、もう、くだらぬプライドで本能に抗った当時の自分をタコ殴りしたい。

俺は間違っていなかった、イイ男だよ!!!!!!!!

 

まず、何より作画がいい。顔かよ!って感じだが、顔だよ!!!

いや、厳密には顔だけではなくて、立っているだけで、あ、これは常人とは違うなという、雰囲気や立ち振る舞いを含めた、容姿なのだが、とにもかくにも、スターにはそういう、「只者でない存在感」が必要不可欠である。観客の目を自分の方に惹きつけねばならないからだ。この人を見ていたいと思わせる力。

これはたぶん顔の造りの精巧さとか演技力とかそういう小手先の次元ではない、持って生まれた天性のもの。後で詳細を述べるが、私は、そういう、存在に圧倒的な力がある天性のものを持った人にすこぶる弱い。

 

ホットロード」がクソ作だったのは、(その後、「この世界の片隅に」までこれといった良い作品に恵まれなかった)能年玲奈にとってもかなり惜しいことではあるが、更に惜しむらくは、もし、「ホットロード」が、30分で観るのを断念するような壮絶クソ映画ではなく、傑作でありさえすれば、たぶん、世間に多大なる爪痕を残す、「登坂広臣発見映画」になり得たはずだということだ。いや、その頃既に三代目人気あっただろ? ってのは置いといてだな。

 

たとえば、

ヒミズ」での染谷将太、「共喰い」での菅田将暉、「ふがいない僕は空を見た」の窪田正孝、「渇き。」での小松菜奈 をはじめて見た時の衝撃。

誰なんだ、この人は!? という衝撃。びっくりしていたら、あれよと言う間にスターダムにのし上がっていった。俳優には、そういう衝撃的出世作もやっぱり必要だ。どんなにイケメンであっても、三流作品の量産型イケメン役で使い古されては、やっぱり三流俳優の域を出られないのである。

 

と御託を述べたが、まあ要は顔が良いって話です。この顔が良いっていうのは、単純にイケメンってことではなくて、まあイケメンなんだけど、上記に書いた諸々込みでの、「顔が良い」。

顔ファン過ぎて、紅白でもテレビの前で「光はいいから登坂を映せよ!!!!」とずっと叫んでいたくらいである。ほんとうに嫌な大人になったものだ。

目の下にホクロがあるのもセクシーでよいし、結構ガタイがいいくせに萌え袖率(あと肩から服が落ちてる率)が異様に高いのもポイント。

 

そんな作画のクオリティでいえば、三代目JSBのMVの中で一推しなのが、

「Eeny, meeny, miny, moe!」

www.youtube.com

 

これは、曲もアップテンポかつスタイリッシュで一番好きなのだけれど、全員、顔が綺麗でうっとりする。

更にポイントは、横並びになって、登坂くんや今市くんも割と踊っているところ(いや他でも踊ってんだろうけど)

パフォーマーとボーカルに役割がわかれていることの多いEXILE TRIBEの中で、三代目はボーカルも割と踊っている気がする。

これが、全員が歌って踊るジャニーズのようなグループとは違う効果を観る人に対し生んでいて、本来、ダンスが専門ではないゆえに、「登坂くんが…踊ってる…」という謎の感動と、トップアーティストに対して言い方はめちゃくちゃ悪いが、我が子の学芸会を見守るが如き母性本能を呼び起こすのである。端的に言うと、きゅんとする。貴重ゆえに、「絶対に目に焼き付けねば!」と注視する羽目になる。

 

踊っているのにきゅんとする度で言えば、「J.S.B.DREAM」も捨てがたいが、この曲は腐女子的にもズキュンポイントがありまして、

 

www.youtube.com

 

これ!!!! ここ!!!!

全員が踊りながら前に出てくるところ、岩ちゃん(だよね?←サングラスかけてるから顔の見分けに不安が残っている)の肩を、グッと抱き寄せるところから、

 

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フレーズの終わりに合わせて腕を組むまでの流れ!

すげえ、いい!! ちくしょう語彙力がない!!

 

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で、一億三千万分の一億二千九百九十九万九千九百九十九人にとってはどうでもいい情報だが、私の好きな男は大まかにいって、

「寝起きが悪そうな男」と「圧倒的な力や陽のあたる人生を歩み続けてきたゆえに自分に絶対的な自信がある男」の二種類に分かれる。

松田龍平染谷将太なんかは前者だが、羽生くんや、セクゾンの中島健人くんなんかは後者である。

登坂くんが醸し出す雰囲気からは、何故か、めっちゃ寝起きが悪そうかつ、陽のあたる人生を歩み続けてきた感がある。

 

雨宮広斗とまではいかないまでも、おそらく本人も結構、そんなにベラベラ喋るタイプではなくて、クールでマイペース寄りなんだろうけれど、一方で、「モテ期は幼稚園から中学までだった、幼稚園の頃はバレンタインチョコを下駄箱から溢れるほど貰った」とかアパレル店員時代も「売れない服でも登坂が着れば売れた」という陽のあたりっぷり、ずっとモテモテで生きてきたことに(つまり自分は他人から拒絶されないだろうという自信に)裏打ちされた愛嬌というか、甘え上手の感じがあるのが凄くよい!

 

番組の、ゲームとかに失敗すると、何故かすぐ人の肩を抱きにいくのとか!!

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めちゃくちゃ可愛かったのはっていうか今のところ俺的ベストオブ登坂広臣は、「メンバーの中で甘えん坊なのは誰?」みたいな話になった時に、登坂くんが真っ先に、「岩ちゃん」と(何故か)抱きつきにいくのだけれど、他メンバー全員に口々に、

「いや臣でしょ」「臣ちゃん」と言われ、「え、俺?」となっていたところ。

でも何故か岩ちゃんから身体を離さない。なるほど甘えん坊である。

 

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なので、肩が当たったとかバイクを蹴られたくらいで人を再起不能なほどボコボコにしても、お兄ちゃんの話を全く聞かなくても、チッうるせえなとか言ってても、どっか弟的可愛さが残る、雨宮広斗というキャラクターは、こういう、登坂広臣という人間ありきなんですよね!

ゆえに、「RED RAIN」は、登坂広臣のポテンシャルと魅力を存分に引き出した、アイドル映画としては一億点ってことなんですよ!

その意味で、外からもたらされた、既存の役柄に人を当てはめるのではなく、まず人があって、それから役が生み出される、自分達で映画作ればいいじゃん的HIROさんの発想は、プロデュース的には非常に正しいわけですよね!! 私も一億円あったら絶対やりたい!!!

一億円じゃ足りないか!レコード大賞くらいしか取れないか!!!

 

 

三代目とマイルドヤンキーの話。

 

 ところで、三代目の中でもう一人、圧倒的陽のあたる人生を歩んできた感のある人物といえば、我らが(我らが?)岩ちゃんである。

面白いのは、というか、「三代目 J Soul Brothers」というグループの面白さだと思うのは、岩ちゃんの陽のあたりっぷりは他とレベルが違う。

一つには学歴による分断というのもあって、この言葉は、後でひっくり返すのを予め宣言しておくので許して欲しいが、いくらモテたって所詮、EXILE TRIBEという場がなければ、中学の時モテてていたカッコいいヤンキーの先輩の人生、郊外のマイルドヤンキー的人生テンプレの域を出なかったであろう登坂くんや他と違って、岩ちゃんは普通に生きていてもこの日本社会の上層エリートだったような人だ。

実家は社長、地方出身なのに中等部から慶應に行くような(行かせるような)教育・文化的資本と金銭もあり、単に学歴エリートというだけでなく、慶應でも有名なダンスサークルを仕切ったり、ミスターコンテストに出たり、素人時代から、小林直己なんかと知り合える場所にいたくらいなのだから、そういう芸能関係とも人脈が築けた位置にいる、所謂、大企業の内定がバンバン出るタイプのリア充。なろうと思えば、彼らを使うテレビ局側にもなれた。

(っていうか今でも、後々はHIROさん側になりたいんだろうなって野望が言動に見え隠れしているのがとても良い)

 

というわけで、

フリーターや肉体労働者あがりのメンバーにとっては、EXILEオーディションというのは、自分が成り上がるためのほぼ唯一といっていい「希望」であり「夢」だが、岩ちゃんにとってのみは、その時点ではむしろ、「転落」ないしは「これまでの努力と人生が無駄になる」可能性の方が高かったわけである。

 

っていう「EXILE TRIBE」という場がなければ、かなり違う人生を歩む可能性のあった、日本社会では通常、階層が分断されている人たちが、同じグループに集っているというのは、「物語的」な面白さもあって、

これは櫻井くんのいる嵐なんかも近いような気がするが、ジャニーズは、言っても10代半ばくらいから芸能界で活動しているので、やはり、20代もう人生が決まりかけている時にスターになった三代目とは違う。

 

こうしたバックボーンを背負っていることは一見、「夢」のある話のように思えるが、でもなあ、まあ考えてみれば当たり前の話ではあるのだが、やっぱりその辺のマイルドヤンキー共とは違うんだよ。彼らはやはり選ばれし者なんだよ。

それは無論、「自分の人生を変えたい」とある日決意し実現のため努力するというマインドの問題でもあるし、ボーカル二人で言えば、三万人の中の2人に選ばれるためのカリスマ性とかイケメン力とかそういうことでもある(※昔数えてみたことがあるが、東大に入れるのは同年代の中の0.2%だし旧帝~慶應レベルまでいけば2%くらいなので、確率でいえば東大に入るより希少なことにはなる。毎年試験やってるわけじゃあないしな)、

そういうことでもあるので、「天性の存在感という圧倒的な力」が持つある種の、こちら側が突き放されるような「残酷さ」に弱い私としては、たまらんのである。(この話は、ユーリのくだりでもしたい。)

私はそういう、「残酷さ」をどうしても突きつけられざるを得ないところが、三代目のっていうか、登坂くんの魅力であるよなあと思っている。大仰な物言いをすれば、それこそが、美しい者が持つ魔力。

強い光は影を生み出しその光が強ければ強いほど影が濃くなる…(なんかそんなナレーションあったよな) というのは結構その通りで、概念的な言い方だが、私は、強い光という存在は、その裏にある暗い影の予感を示唆する故に、惹かれてしまうのだ。

 

でなかなか大仰でポエミーな話になってきましたが、種類は違えど、「マイルドヤンキーに親和性が高いように見えて、実はギリギリのところで突き放している」残酷さっていうのは、たぶん、ハイローの世界も持ち合わせていて、結局のところあれは、マインドとしては、

 

「Change or die」

 

なんですよね。

ハイロー世界は、そもそも借金だの人さらいだの殴り合いだの治安が超絶に悪いっていうほかに、社会学の場なんかで語られる「下層社会」の特徴っていうのが割と表現されていて、だから、そういう価値観をベースにした社会に生きていない人にとっては最初、非常に馴染みにくいのだと思う。

例えば、「サラリーマンが殆ど(つうか全く?)出てこない、手に職的自営業主義」「親世代の生き方や職業のトレースという再生産」「血縁・知人間の絆は強固だがそれ以外は過剰に敵対視する身内の絆至上主義」「法や司法に頼らず争いの制裁や報復を自分たちで行う自治・私刑主義」

言い方は悪いが、どれも、いかにも、ザ・下層社会の特徴って感じだ。

 

その上で、でも、根幹を成すのは、「変革さもなければ死」なのである。

ムゲンや琥珀にまつわる描写では、学生時代の幼馴染的友人たちといつまでも終わらない日常をダラダラと楽しく過ごす世界は有り得ないと突きつけている。ヤンキーたちはいつかネバーランドから卒業し、自分の道を見つけなければならない。劇中で一番、マイルドヤンキー的世界に近い山王連合会のコブラでさえ、「そうして、いつか下の世代に受け継がねばならない」と言っている。

 

 

生き残るためには変わらなければならない。

私は今年、自らの嗜好を決定するのに、業界内や支持層みからの評価や立ち位置みたいな指針から逃れられない糞サブカル的自己を若干、若干捨て、登坂くんーーー素敵ーー!!と言えるようになった自分になれてよかったと思う。

 

いきなり話が矮小になった。

 

 

(本当はユーリの話もしたかったのだが予想以上に長くなったのでまた今度)

 

腐女子たる自分とフェミストの私のアンビバレント―映画「アズミ・ハルコは行方不明」感想

 

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大学時代とかに読んでいた本や漫画原作の映画が、今年になってようやく公開されることが多かったおかげで、今年の私は、映画感想の結論に、

「これ、原作読んでない人分かるの?」

ってフレーズを何度も使ってしまったような気がするのだけれど、敢えて言おう。

 

これ、原作読んでない人分かるの…!?

 

というのは、私は既に原作を読んでしまっていて「原作未読のまま私がこの映画を観た時の理解度(や感想)」という世界線はやって来ないから、永久に体感できない感覚なのでもう仕方ないが、微妙に分かりにくい理由ポイントとして3つ挙げるとするならば、

 

・時系列複雑怪奇問題

バンクシーの使用権得られなかった問題

・安曇春子、謎のキャラ崩壊問題

 

だろうか…

 

 

時系列複雑怪奇問題

 

「アズミ・ハルコは行方不明」はタイトル通り、アズミハルコさんが行方不明になる話である。

ただこれは、朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」のように、「桐島(アズミハルコ)無き後、失踪した不在の中心について周囲が語るもしくは周囲が変化していく物語」ではなく、蒼井優が主演ってことからも分かる通り、ちゃんと、「アズミハルコさんは何故いなくなったかパート」にも尺が割かれてる。

それで、原作は、「アズミハルコさんは何故いなくなったか(失踪以前)」パート=安曇春子の物語 と、

「アズミハルコさんがいなくなったあと、アズミハルコの写真をグラフティのモチーフにしてアートもどき活動をする若者の話(アズミハルコ失踪後)」=高畑充希や太賀演じる20歳の若者達の物語

が各々独立した章として語られる。

 

 なので、比較的、登場人物達の抱える状況や鬱屈、物語展開がすっと頭に入ってきやすいのだけれど、映画だと、おそらくは何らかの効果を狙って意図的に、

「失踪前の話」と「失踪後の話」をかなりバラバラにシャッフルした上に、「同じ人物の物語」の時系列さえも結構入れ替えていたり(例えば、高畑充希演じるアイナらが安曇春子の写真で街にグラフティをするのは、成人式での再会や、ユキオや学が二人で別の落書きを模索していった後の話だが、最初にそういうグラフティシーンを観せたりしている)

 

してしまってかなり複雑なことになっているので、原作を読んでいない人は初見だと、

 

あ、これ、高畑充希たちの話は蒼井優が失踪した後の話なんだ

(逆に言うと、蒼井優の話は高畑充希たちの話の全然前の物語)

 

ってのが、スッと入ってこないかもしれない、かもしれない。

かもしれないかもしれない、というのは、私が観客の理解力を舐めているだけで別に分かる(前も言ったように、私はもう読んでいるので、読んでいなかった時の鑑賞感想というのは永久に理解できないから。)のかも、といういわば遠慮なのだけれど、

この前、12月8日に行った団地団

団地団夜 映画『アズミ・ハルコは行方不明』公開記念!! – LOFT PROJECT SCHEDULE

イベントに行ってみたら、原作者の山内マリコまで、

 

「最初の2、30分は、傑作誕生だ!って思ったけど、時系列複雑すぎて私も後半よく分からなかった」

 

みたいなことを言っていたので、安心(?)した。原作書いた人でさえ分かんないんだからやっぱ分かんないんだよ。

(因みに、山内マリコが脚本読んで直し入れる前は、もっと複雑だったらしい)

 

 それで、この複雑怪奇な入れ替えが、単に、「アイナたちの物語(アズミハルコ失踪後の物語)」→「アズミハルコの物語(アズミハルコはなにゆえ失踪したか?)」→「再び、アイナたちの物語」→アイナとアズミハルコの邂逅

より、効果的か? っていうと、どうなんだろうなあ感はある。

なんでかっていうと、「これ、どういうこと?」と物語の筋を観客が頑張って繋げる、理解するのに脳の容量が取られちゃって、個々の演出とか演技や登場人物の心理みたいなのを味わう余裕が無くなっちゃうかもだからだ。そうなると、つまり、演出や演技や心理を見てもらえないと、映画全体としての評価も下がる。

原作自体は別に全然分かりにくい話ではないのに、入れ替え演出で敢えて分かりにくいものにすることで、観客の脳の容量のほとんどを「話の筋を理解する」に振ってしまう必要性って、別に無いんじゃないかなあとか思うわけである。

 

 

バンクシーの映画使用権得られなかった問題

 

これは、私が非常にどうなるかってワクワクしていただけっていう個人的な話なので、別に読み飛ばしてくれていいが、 

映画の中で、太賀演じるユキオが、高畑充希演じるアイナに、「えー五千円もするじゃん!」って文句を言われながらも買ってもらうあの映画、

ユキオが、学にお前も見ろよ、と、お勧めして、学も「ちょーやべーー!!!」ってなるあの映画、

ユキオと学がバリバリに影響されて街に落書きを始めるきっかけとなるあの映画、

 

あれ何かっていうと、かの有名な覆面アーティスト、バンクシーが初めて映画監督を務めたというドキュメンタリー(もしかしたらフェイクドキュメンタリー映画かもしれんが)映画、

「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 」

である。

 

なので、あんまり、映画のああいう典型的地方DQN(あの、太賀くんの地方DQN感は超よかったっすよね~ゆとりですがでゆとり役を好演していただけある)の、ユキオが知っているような映画ではない気がするのだが、原作だと、名古屋にいたときに知り合ったヒップホップやってる先輩に勧められたということになっている。

(原作は、ユキオは別にあそこまで地方DQNって感じでもなく、一応、名古屋工業大に通っているくらいには頭が良くて、地方マイルドヤンキーのことも冷めた目で見てるような人なのだが、まああの方が分かりやすくていいのかもしらん)

 

これは本当にめっちゃくちゃ面白いので、本当にめちゃくちゃ面白いので是非観て欲しいのだけれど、なので、私は、あのバンクシー映画の使用権得られたのかな?

っていうのを一つ楽しみにアズミハルコを観に行ったってのはあるのだけれど、まあ、やっぱり、得られなかったみたいですね笑

そりゃあそうか。

 

そりゃあそうか、なのだけど、これ、割と、ユキオや学パートのキーになっている映画なので、もう少し、どんなんなのか説明くらいしてもよかったんじゃないかなあとは思う。

思うので代わりに説明すると、これは非常に巧みなかつ、めちゃくちゃ意地悪なドキュメンタリー(或いはもしかするとフェイクドキュメンタリー)映画である。

 

映画は、

妄執的といってもいいほどビデオの撮影が趣味の男・ティエリーが、自身が撮影するための興味の対象として、グラフティ・アーティスト達に出会うところから始まる。夜の街を縦横無尽に駆け巡り、警察の目をぬって、危険でしかし刺激的な路上アートをのこしていくアーティスト達の活動を、密着撮影し、時には自分も手伝ったりする中で、ティエリーは、ある存在にどうしても出会いたいと思うようになる。

路上アート界ではおそらく最も有名なアーティスト、しかしその正体は謎に包まれている(最近、マッシヴ・アタックの3Dじゃないって記事が出てましたけどね)、バンクシーである。

で諸々の過程を経て、ティエリーはバンクシーの活動にも密着するようになっていくのだが、そんな中で、バンクシーは、「せっかくそんなに撮影しているんだから、ここは一つ、その素材を使ってドキュメンタリー映画を作っては?」と提案する。

提案するのだが、いざ、ティエリーが作ってきた映画を見ると、バンクシーは愕然とするのである。テレビのザッピングのように次々に落ち着き無く映像が移り変わるだけのシロモノ、とても観れたもんじゃない。

ので、今度は、まあ、ここは映画のことは忘れて、一つ、自分もアートやってみれば、と気まぐれに(本当に気まぐれなのかは知らん)、とバンクシーは言ってしまうのだが、これを、絵心もアートの知識も無いティエリーは、本当にやってしまうのである。

 

そして、これが驚くことに何故か大成功する。

 

他のグラフティアーティストのパクリのような作風、絵がかけなくてもできるような、写真を使ったステンシルアート、自分は監督的立場で、細かい作業は他の絵心あるスタッフ達に任せていく、

そして、有名アーティストたるバンクシーなどが個展にコメントを寄せたということもあり、あらゆるメディアに取り上げられ、またその話題が話題を呼び、

ただのビデオ撮影マニアだった男は、あっという間に、Mr. Brain Washというポップアーティストに成り上がるのだ。

 

勿論これを、必死で確立した自己の作風を模倣された他のアーティストや、そしてバンクシー自身も、面白くは思ってない。何だよ、アーティストぶりやがって。俺の名前使ってビジネスに走りやがって。

観客も、そんな、「○○がコメント寄せてるからすごいんだろう」「メディアに取り上げられたからすごいんだろう」みたいな思い込みで、これはアートだ!ってよく分かってもないくせに絶賛しやがって!

パクリじゃねえか!!

 

というバンクシーの視線が、まあ直接言葉にしているわけではないが、映画の後半には映像の撮り方や切り取り方としてかなり身も蓋もなく現れている。まあ要するに馬鹿にしているのである。

 

ってことで、本来は、「撮る者」「撮られる者」が入れ替わっていく非常に巧みな構成のドキュメンタリーかつ、アートとは何ぞやというテーマが、そこまで政治的にならずあくまでも間接的に、皮肉的・揶揄的な視線を通じて物語られる(こういう作風が非常にバンクシーらしい)、かなり意地悪な映画なので、

 

本当は全然、すげーー!!!やべーーー!!俺も大きなことしてーーー!!!

 

って影響されちゃう映画ではない。

ないのだが、まあ、何かすげえことしたいな、とかこのままじゃ自分はダメだ、みたいな燻っている鬱屈を延々抱えていたユキオや学は、

バンクシーのメッセージや揶揄を読み取れなかったのか(?)、影響されて、映画で取り上げられた路上アーティストのように、「キルロイ」というチームとして、グラフティを始めて行くわけですね。

そんな中で、失踪したアズミハルコの写真に出会い、その写真を使って、ステンシルアートをやっていく。するとそれがSNSなんかで話題になり、遂には、ちょっとした著名人の目にも留まり、地方おこしイベント的なものの、メインアートとしてどうか、みたいなところまでいくんです。

 

いくんですが、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」の、Mr. Brain Washと違って、まあ学やユキオが指揮をとったイベントは大した話題にもならず終わる。

終わるので、「思ってたのと全っ然違えええ!!!」

という太賀(ユキオ)くんの叫びになるのだが(何故ならば彼は、絵もかけないくせに素材の取り扱い方やプロデュース力、集客力みたいなとこの話題作りでサクセスしたMr. Brain Washを想定していたのだから)

 

これ、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」がどういう映画か知らないと、よく分かんないよね。

なんで、地方DQNのユキオと、成人式にも出席できないような内向的非リアの学くんが急に仲良くなったかってのも映画だと飛ばされてるから、???だし。

何より、閉塞した地方の中で、真っ当な道からは外れかけ、でも「何かやりたい(けどその何かが何なのかはよく分からない)」みたいな気持ちを持っていた二人の鬱屈とかがいまいち伝わって来ないんじゃないだろうか、あれ。

単に落書きしてはしゃいでる暇なDQNに見えるぞ。

 

 

安曇春子、謎のキャラ崩壊問題

 

 とは言っても、別に私、この映画自体はそんなに悪くはないと思っているのだけれど、 唯一、これは作品の根幹に関わるくらい、めちゃくちゃ解釈違いなのでは? むしろあれを入れてしまったことによって映画のテーマを完全に殺してしまったのでは? と強い違和感を抱いたのが、「安曇春子は何故失踪したか?」直前のシーンである。

 

あれだとさあ、あれだとさあ、

単に、男にこっぴどく振られたからセンチメンタルジャーニーしたみたいじゃん!?!?

 

それまで、どこか冷めているような自分を取り巻く全てにうんざりしているような、安曇春子が、突然、セフレ?のような関係だった男に捨てられそうなり、

 

いやだ~~~捨てないで~~~あなたが好きなの~~~結婚みたいな重いこと言わないし~~~~

 

と謎のキャラ変と衝撃の告白(え?安曇春子別に曽我氏のことそんな好きちゃうでしょ!?)を遂げるシーン、

あれは、映画で付け足されたオリジナル場面である。なので、そこだけ、え??と、めちゃくちゃ違和感ある。

 

いや別に単なるキャラ変による違和感ってだけならいいんだけど(よくはないが)、より大きな問題になると思うのは、

このシーンを入れてしまったことで、つまり、多くの人が、「好きな男にこっぴどく振られたから安曇春子は傷心の末、失踪した」と受け取りかねない場面にしてしまったことで、更に、何故か、結婚だの家庭だののワードを入れて、「いい年してもまだ結婚できなかったかわいそうな女、安曇春子は、そんな可哀想な自分が嫌になった」的イメージにもなりかねない場面にしてしまうことで、

作者がこの作品に込めた思いを、ズタズタに殺してしまっている気がするのだ。

 

地方作家(地方を描く小説家という意味で)、みたいなイメージが強い山内マリコだけれど、彼女って同時に、かなりフェミニスト作家でもある。

たとえば、映画に出てくる正体不明の、「女子高生ギャング団」、彼女らの詳細は最後まで語られないけれど、語られない訳のわからなさこそ重要で、現実の世の女性たちは、わけも分からず、ただ女という理由で、見知らぬ男に犯されたり襲われたり殴られたり暴行されたり拉致されたりする。

なのであれは、それを逆転させただけなのである。彼らは男だからという理由で、突然見知らぬ女たちに襲われる、「男性のひとり歩きは気をつけましょう」

ほら、被害者が男性だと、強烈に違和感があるでしょう、なんで彼らは襲われないといけないのか? って思うでしょう、女性だったら、ふーんって、理由も考えもせず、「女性のひとり歩きは気をつけましょう」で終わるのにね。

 

そして、この、わけの分からない暴行というモチーフと、「安曇春子の失踪後」の物語はテーマとしてリンクしていく。

安曇春子が失踪後、実は、女友達と平和に幸せに暮らしていたことは、小説だとアイナの、そしておそらくは作者の祈りなのだ。以下、小説のラスト。

 

「愛菜はあの旗に使われていた行方不明の女の子たちが、本当はみんな、ムカつく現実から逃げただけで、誰に殺されたわけでもなく、変質者に監禁されているわけでもなく、みんなどこかで元気に楽しく、へらへら笑いながら生きていることを祈った。

 祈り、そして確信する。

 そうでなくちゃ。

 絶対にそうでなくちゃ。

 だってそうでなきゃ、悲しすぎるでしょ?」

 

「アズミ・ハルコは行方不明」は、

男達が男達の理屈で男達が牛耳る世界で、除け者として周縁におかれてしまった力を持たない女たちが、「男の理屈」ではないところで、自らの幸せな世界を作っていくことを希望とする話だと思う。

優雅な生活を送ることが最高の復讐である、君(男)がいなくたって、あたしたちは幸せにやっていけるんだよって。

 

一見同じように見えるけれど、というより、このニュアンスを私の少ない語彙力では伝えきれないのが非常に、本当に本当に歯がゆくて仕方ないんだけれど、

「男たちの世界で、除け者として周縁におかれた女たちが、そんなクソ現実から逃げる物語」と、

「好きな男に捨てられた女が失恋の傷心のあまり“負け犬として”逃げる物語」

では全然違う。全然違う。

 

何故ならば、そこでは、この物語では、

「好きな男にずたずたに捨てられるのは可哀想であり女にとって失踪するほど傷付くことだ」

「結婚できないのは可哀相で、女にとっては、みっともなく男に縋り続けるほど深刻な問題だ」

という従来の価値観は、否定しなければならない、否定されるべきものだからだ。

なのに、あれでは、そういう価値観を、そうした価値観の存在を逆に「肯定」する話になってしまう。肯定する話になってしまう、というのは言いすぎでも、見ようによってはそう受け取られる可能性が出てくる。

 

 

腐女子たる自分とフェミストの私のアンビバレント

 

 ってのが以上、「この映画がわかりにくくなってしまった理由」だとして、しかし、私が個人的に語りたいのは別にそんなとこじゃないんですよ。7000字近く書いてなんですけど、私が、「この映画やべえな」って思ったのは、そんなとこじゃなかったんですよ。

というのが記事タイトルなんですけど、いやあ、私にとっては、「アズミ・ハルコは行方不明」って、自分の在り方みたいなのを(勝手に)突きつけられる非常に辛い映画であったのだ。作者は全然そんなつもりで作ってないと思うから、以下、私が勝手に受け取った話なのだけど(なので読み飛ばしていい)

 

というのは、この作品自体が、上記のように、「男達の世界で除け者にされ周縁化した女たちの物語」であることも、そこに作者が込めたメッセージも、物凄くわかるし理解出来る一方で、

けど、けど、けど!!!!!

ユキオと学くん、萌えるんだよな~~~~~

 

スクールカースト高いオラオラ系なとこがあるユキオくんと、内向的で非リア出身の学くんが、微妙にこの地方じゃ居場所が無い感とか、何かやらなきゃなって鬱屈で繋がって仲良くなっていく過程とか、

ユキオが、完全に、カワイイ高畑充希ちゃんを放っておいて、学と遊ぶことの方が楽しいし~~ってなってるのとか、学も学で、100%「アイナ邪魔!俺とユキオ二人で始めたことなのに邪魔すんなよ!」って思ってる感じとか、でやっぱり最後は、「二人で何かやろうぜ!」ってイベントに関わっていくのとか、

小説でも萌えたが、映像になると二人の演技が絶妙なのもあって、更に、萌える。

 

かつて、二階堂奥歯さんは、

「私はフェミニストでありかつマゾヒストである。
フェアネスを求める私が、残酷さを愛するということ、この事態は許容されうるのか、私はそれをどう受け止めればいいのか、これは私にとって重要な問題である。
女性を抑圧し支配し利用する言説と制度に反対しながら、責め苛まれ所有され支配され犯され嬲られ殺される女性の状態を愛することは、許されるのだろうか。」

という文章を書いていたのだが、まさにこれに近いアンビバレント

 

つまりこの文章に則って言えば、私は、フェミニストでありかつ腐女子なんですよ。

 

男達の都合で動き男たちが牛耳り、そこでは女達の存在は決して対等ではなく、時に存在を無きものにされたり、時と場合により、都合よく「価値ある女性」(SEXさせてくれるとか若いとか)と、「無価値」なものとして扱われる(ブス、ウザい、重い、年増)、ホモソーシャル社会を許してはならない、という気持ちを持つフェミニストの自分と、

一方で、

女達を除け者にしてきゃっきゃっと男だけで絆を深くする男達の関係性に萌えてしまう腐女子の自分。

どちらも確かに、自己としてあるわけです。どっちが、とかじゃなくて、どっちも紛れもなく「本当の自分」なわけです。

「アズミ・ハルコは行方不明」は、この矛盾を強く突きつけられる映画であったのだ。

 

これ、スケールが全然違う気もするが宮崎駿の「風立ちぬ」なんかも近くて、あれはハヤオ自体も持っている、

戦機や飛行機を、それらが戦うのを、かっこいい!と興奮してしまう自分と、戦争には反対だという平和主義の自分、っていう矛盾 の物語ってことが語られている

 

なので、この「アズミ・ハルコは行方不明」という作品は、こういう、自己の中にある「矛盾」にどう向き合っていくべきか、なんてことをグダグダと考え続けてしまう映画であって、まだ結論は出ていないのだけれど、そういえば似た様なことは、「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」を観ても思ったなあと思い出した次第である。

 

11月読んだ中で面白かったおすすめBL漫画5選・記録用(2016年11月)

 「ユーリ!!! on ICE」の怒涛のBL展開にきゃあきゃあ言ったり、現実のフィギュアスケートの方を追うのにも忙しくて気が付いたらあっという間に11月が終わっていた。(言ったかどうか分からないけど私は羽生くんファンなのである)

12月もそんな感じで終わると思う。

しかし、「ユーリ!!! on ICE」。普通に、キー局のアニメでこんなクオリティの高い盛大なボーイズラブをやられたらもう一体こっちはどうしたらいいんだよって勝手に商業BLの未来をも憂いてしまうくらいであるが、

あーはいはいナタリーとかが取り上げそうな感じねってのばっか読んでいた10月↓

 

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

に比べると、11月はタイプの違う商業BLに出会えたかと思ふ。

ということで11月編。お前はBLのことしか考えてないのか?って感じだが、BLのことしか考えてないんだよな…

 

 

『憂鬱な朝(7)』日高ショーコ (徳間書店) ☆大河系←?

 

何年か前に偶然手に取って、文字通りのたうち回るほどやられて以来、「憂鬱な朝」は、BLオールタイム・ベスト圧倒的ナンバーワン、殿堂入りなので(私は未だにこの衝撃を越えるBLに会えていない)、今更な~という感じはあるし、つーかまだこれ読んでない腐女子とかモグリだし、ってことでとにかく読めよとしか言いようがないのだけれど、

7巻発売にあわせてまた1巻から読み直す憂鬱な朝祭りを開催して、

あ~~~~おもしれ~~な~~~~~~と嘆息する限りであった

 

私が日高ショーコを好きなのは、主要登場人物つまり攻めと受け以外の人間たちも、ちゃんとその世界で血を持って生きていることです。

というのは通常、BL世界に於いては、攻めと受けしか「主要」ではないんですよ。それ以外の要素が多いと編集から文句を言われるし(多分)、だから、攻めと受け以外の人間共は、多くは、「話を動かす駒」でしかないことが多い。

バーやレストランの都合の良い相談役(それって、好きってことじゃない?みたいなアドバイスをする奴とか)、顔すら書かれない当て馬のヒステリー女、攻めないしは受けが二人で歩いているところを発見され(て嫉妬心を生み出す)ために出てくる女(大体姉か妹)、など、こういうのは要するに作者と攻め受けに都合のいい話を動かす駒なのである。

 

が、日高ショーコはそうじゃない、ちゃんと、それ以外の人物も「その人の行動原理」に沿って動いている。だから作品がぐっと血の通ったものになるし、

「憂鬱な朝」に関しては、これ若干誤解を招きそうな言い方だが、もはやBL部分いらねえんじゃ?ってくらい、お家騒動や、久世家・桂木家などの事業拡大物語、明治の産業開拓物語みたいな部分が面白い。あと私は、傲岸不遜のようで意外と暁人に理解のある桂木長男と、穏やかで人の良い次男の妙に噛み合ってないような会話と組み合わせがどんどん好きになってきました、

いやもうこれもはや大河ですよね大河。

ダウントン・アビーみたいにシーズン○とかでドラマ化すればいいんじゃないか、そういえば「花は咲くか」の方が実写映画化するみたいだが。

 

7巻では、そんな大河BL・憂鬱な朝のお家騒動・桂木の出自問題に、また一転する新たな事実、というのもありながら、桂木成長ターンだったのが泣けた。

巻を経るごとに暁人も立派に当主として成長していくのはもちろん見所だけれど、同時に、桂木もちゃんと人間として成長していく話なんですよ。

桂木家では妾の子として邪険にされ、養子候補として貰われていったはずの久世家でも、実子の暁人が生まれたことで無用の存在と化した(※本当はそうじゃなくてもっと複雑なんだが省略する)桂木は、これまで、どこにも自分の居場所がなく、仕事も誰かに仕えるばかりだったが、ここに来てようやく、自分が自分として生き生きと働ける場を掴みかけ、

 

「私にしかできない仕事を続けたいだけです」

 

なんて言葉を発するようになるのだ。ようやく、桂木智之にしか出来ない事業をみつけようとしている、1巻の、暁人憎し排除してやるだけを生き甲斐にしていたところ(「憂鬱な朝」の物凄いポイントは、1巻時点では、ツンデレでも照れでも何でもなく本当に受が攻を憎んでいるところから始まるの)からここまでの過程を追ってきた読者には感涙モノですよねも~~

しかし桂木智之、意外と(?)現代で言うところのホワイト経営者でワロタ。

 

 

『Cutting Age』どつみつこ (大洋図書) ☆サブカル寄り系

 

微妙に生々しい言い方ではあるが、これは割と私の性癖クリーンヒット…!

 

童貞が片想いしている相手(男)に、「初体験したいなら俺の彼女と3Pすればいいじゃん」とか持ちかけられるところから始まる話というあたりでもう、片想い相手の性格やクズっぷりがお分かりかと思うが、

私はね、こういう、人をゴミとしか思ってないような感じで余裕綽綽に振る舞い弄ぶキャラクターが、途中から、形成逆転して攻められ焦り余裕がなくなってく話が物凄く好きなんだよ!!!

あと、人を屁とも思ってないクズの一方で、恋人になると甘えたがりという設定も性癖を刺激される。

 

大人しそうなダサめの童貞キャラに見せかけて、いくときは意外とグイグイ愛をアピールする攻もいい感じであるし、

受の元カノがその場限りの捨て駒にされず、攻と、受け(クズ)の元カノが何となく結束して仲良くなっていく展開もよい。これも個人的好みだが私は、「一人の男を介し敵対心を経て繋がる男と女」(或いは一人の女を介し敵対心を経て繋がる男と男)みたいな関係にときめきを覚えるんである。何なら、常にそういうBLを書きたいと思っている。

同じ人間を愛してしまった者同士には、一旦は、ライバル心じみた憎しみのような感情が生まれるだろうけど、でも、「同じものが好き」というのは、この上ない結束になると思うんですよ、という意味で。

 

つーことで、性癖クリーンヒットBLを生み出してくれたどつみつこ先生、私の中の個人的2017年もっと売れていいBL作家ランキング入りが確定した次第である。(別に確定しても嬉しくないだろうけど)

 

 

『ひだまりが聴こえる』文乃ゆき (プランタン出版) ☆ストーリー系

 

今度実写化するくらい有名なので今更感溢れまくるが、私は、名前だけは知っていたがスルーしていたのをようやく今更読んで本当にやられた。

本当にやられた!!

こういう言い方はあんまり好きじゃないが、ボーイズラブ漫画の枠を余裕で越えてますよね、裏・「聲の形」っすよ。いや聲の形読んだことないけど。

何でスルーしていたかっていうと、主要登場人物(カップリング)の一人が、難聴という設定ということで、障害者モノにありがちな食傷気味な安易な感動路線かと思ってたんですよね。或いは、かわいそうで気の毒な障害者を、もう片方がよしよしと助けてあげる話とか。

いや、偏見を持って申し訳なかった、BLとか抜きにしてほんとうに、難聴者こそ読むべき漫画だと思った、というのは私自身、40dBくらいの軽度の難聴なんです。

日常会話では普通に喋っていることが多いと思うし小さい声でなければちゃんと聴こえるが、小さい声や男の人の低い声だと困ることも結構ある、でも別に障害者手帳が貰えるほどではないので、健常者として「普通」に仕事をしていかねばならない。「目が悪い」に比べて、「耳が悪い」というのは、何故か対応がそんなに整備されていないし理解も少ないように思う。(眼鏡なら1万円で買えるけど補聴器は30万円とかしたりね)

 

「ひだまりが聴こえる」が良いのは、そういう一見、「分かりにくい」難聴の存在をきちんと描いているところ。

森達也の「FAKE」で、佐村河内守も言っていたが、何となく、聴覚障害とかいうと普通の人は、クロかシロか、「聴こえるか」「聴こえないか」で捉えてしまいがちなところがあって、少しでも音や声に反応すると、「ほら、聞こえるじゃん!=嘘じゃん!OR大したことないじゃん!」とか思われるわけです。

でも、視力0.1の人が眼鏡なしでは街を歩けないのと同じように、ある程度は聴こえることもあるし話もできるが健常者よりは確実に聴こえておらず、日常に支障が多々ある人っていうのは、いるわけですよ。それを、「聴こえるんじゃん」って切り捨てられるのは、辛い。

 

この作品では、そういういわばマージナルな難聴者の、「大したことないじゃん」「聴こえるじゃん」っていう辛さとか、会話をいちいち聞き返すのが申し訳なくて黙ってしまって孤立していく、コミュニケーションが嫌になっていく苦しみとか、を丁寧に描いた上で、

「聴こえない時はそう言えよ、何回でも聴き返せよ、なんでお前の方が遠慮してんだよ、聴こえないのはお前のせいじゃないだろ!」

「平気かどうかを何でお前が決めるんだ!」

と、登場人物たちに、凄く、救われる台詞や場面が多々ある。

ともすれば自分の殻に閉じこもろうとする航平(攻)にまっすぐぶつかっていく太一(受)の言葉に、こちらまで救われるんですよ。

 

で、さっき、ボーイズラブ漫画の枠を越えたとか書いてしまったが、勿論これは、この上なく真っ当で素敵な素晴らしくクオリティの高い「ボーイズラブ」作品である。

あとがきに「BL成分が薄いと言われた」みたいなことが書いてあるけど、とんでもない!

キスしたりSEXしたりお前が好きだーだけがBLじゃないんだよ!

太一のおかげで航平は自分の殻を破り一歩ずつ成長し始め、短気ですぐバイトをクビになっていたような太一もまた航平に出会ったことで、自分のやりたいこと、自分が出来ることを模索し始める。聴こえる人も聴こえない人も皆がコミュニケーション取れる世界を作るためにできることはないかと。

 

あなたのおかげで世界が変わり、あなたのために世界を変えようとする。これがBLでなくてなんだ!!!!(号泣)

 

 

『それから、君を考える』小松 (プランタン出版) ☆切な系

 

商業BLにも、なんだか誰が書いても同じのような絵や話のものと、もうこれはこの人にしかかけないってのがあると思うんだけど、これはねっていうかこの人はね、今Cannaで連載している話もそうだけど、良くも悪くも

ひっじょーーーーに作家性が強いですよね!

もちろん作家性が強いことは、同じような話が日々大量消費されるBL漫画界に於いて名を馳せるにはこの上ない長所ではあるのだが、

悪くもっていうのは、漫画としては結構読みにくくはあるんだよ。 

小説かよ!? ってくらい文字が多くて息をつく間も無い怒涛の長いモノローグ、文学的な言い回し、例えばこういうの。

 

“その昔、私と周防くんは

倒錯的な関係にあった。

 

彼の挑発的な態度は

安っぽくて

陳腐だったけれど

私の心を捉えて放さない

強い吸引力があった。

 

私は彼が“命令”するときに

見せる酷薄そうな視線が好きで

 

いつもそれを甘受していた”

 

しかしそれが、それゆえにとても印象には残るのである。私はこういう、余韻が残る系BLにぐっと来てしまうタイプというのもあるが。

そして、作家性が強いというのは、男同士の関係性の描き方や至る話に繰り返される(作者がきっと描きたいのだろう)テーマの設定の仕方にもかなり表れている。

たとえばそれは、家族や家の呪縛だったり、○○な人間でいなければという苦しさ、狭小な地域で、親をトレースするようなゆく先の見えてしまう人生への絶望だったり、登場人物達は、今ある自分以外の自分になりたくて、もがく。

小松さんの漫画には、こういう、「自分を縛る何か」というテーマが繰り返し描かれていて、これが彼女の強い作家性になっているのだけれど、呪縛(※物理ではない)好きの私としてはこれだけで胸キュンである。

しかし、そうしてもがき苦しむことに必死な間は、自分の逃げたかった自分に寄り添い続けてくれていた存在に気が付かなかったりするもので、自分から逃げることは相手を傷付けるということでもあるのだ。

だからそんな残酷さを悟ることが、はじめて「君のこと」を考え始めるときなのであって、それは時には間に合わなかったり或いは修復できたりもするけれど、表題作のほかに収録されている、「Young oh! oh!」も「夜明け前が一番暗い」も実はそうした構造になっているように思う。

なので、このコミックにつけるには、これ以上ない絶妙なタイトルだよなあと思う。

 

 

『お守りくん』tacocasi (東京漫画社) ☆カワイイ系

 

最近のBLは随分お洒落になったもんですよねってこれ前も言ったが、これはね~もう表紙と絵がカワイイに尽きる! カワイイでしょ笑!

九井諒子とか田中相とかの系統でいい感じかつ、

全然画のタイプは違うけど、私の推し大島かもめ先生と同じく、決して正統派のキラキラBL風ではないのに、ちゃんと、キャラクターにBL漫画としてのそしてイケメンとしての絵の色気があるんですよ、そういう絵が描けるのはBLとしては強みですよね~

 

表題作も、「強い霊感体質の男子高生が、ある日、自分とは真逆の「霊をはじく」体質の少年に出会う」なんて一見ファンタジー設定ながら、でもちゃんと、良い意味で、無理のない「日常の恋の物語」してる。

カワイイジャニ顔が微妙にコンプレックスの男の子が、落ち着いていて無骨な同級生にちょっと憧れる感じ、そんな同級生から、(本当は霊を除けるためのお守りなんだけど)スキンシップを図られることで何となくその気になってしまう過程、霊除けだと分かりがっかりすることで気付く気持ち、

ファンタジー設定とは裏腹に、どこにでもいそうな素朴な男の子たちの間で交わされる感情が恋のようなものに変わっていく過程に、にやにやというか、にこにこしてしまう感じ。

 

同作家の、「Cab」で始まった、鬼の「表面作家」(人間界に戸籍等のない鬼の代わりに小説家として矢面に立つ)なんかも、こっからどうやってBLに転がっていくか楽しみである。

重岡くんがあまりにも好演しすぎてむしろ主役が霞んでるけど重岡くんがいなければマイナス100点という矛盾――映画「溺れるナイフ」感想

※最初に断っておきますが酷評です。

 

特にジョージ朝倉のファンでもなければ、「おとぎ話みたい」で山戸監督の作品とは趣味が合わない事を知っていたにも関わらず、そもそも何故わざわざ公開初日に観に行ってしまったのかっつー話ではあるのだが、

主演は人気俳優だしデカい公開規模のメジャー作だし、こう如何にもサブカル業界人とかミスiDに応募しそう系サブカル女が褒めそうな、鼻につくポエミーでウェットで過剰な作家性が薄れているかと思ったんだよな!

東宝の名プロデューサーにボコボコにされてメジャーヒット作を生み出した「君の名は」の新海誠みたいにさ!

 

と思ったら全然そんなことはなく、小松菜奈菅田将暉という人気俳優にパッケージされているのと、役者として出てくるミュージシャンの演技(ドレスコーズの志磨は良かったねえ!!やっぱ彼は雰囲気のある男前だ)がだいぶマシになっているだけで、だって実質これ、「おとぎ話みたい」である。

 

少女が泣き叫ぶウェットでポエミーな過剰性(端的に言うとタルい)、追い掛け回したり走ったりくるくる回ったり登場人物がやたらと動き回るシーンが完全に話のテンポを殺しているあの感じ(端的に言うとタルい)、火柱を男根のメタファーにするような(違うかww?)学生映画祭に出品される映画とかっぽい鼻につくアーティスティック気取り、そして終盤、妄想と現実が交錯していきどちらが暗喩なんだか一体分からなくなるような演出、などに見られる強い作家性も、さりながら、

後に詳細を述べるが、話の軸となるテーマも、少女漫画的なものとはむしろ真逆。

 

本編が始まる前の予告、所謂、山崎賢人とか福士蒼汰とかジャニーズの新人が出てきそうな胸キュンときめき少女漫画原作ばかりであったが、あのね、ぜっっっっんぜんそんな映画じゃねえからなこれ!!!

そういうの求めている層には、はあ??? って感じだと思ふ。

全然、あんなバンバン宣伝打って、こんな大きな公開規模で、胸キュンときめきを求めるライトな若い女の子たちを集めるタイプの作品じゃない。

 

やっぱり、ユーロスペースとか新宿ピカデリーとかに通っている系サブカル業界人おじさんとか岩井俊二とかが好きそうなオサレ気取りサブカル女たちが内輪できゃあきゃあ持ち上げている系映画じゃあないかよ!!

 

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分かりにくくてアーティスティックでコア向けなものこそ至上にする層にとっては褒め言葉として受け取られてしまうかもしれないから誤解しないで欲しいが、「全然そんな映画じゃない」というのは、褒めていない。全く褒めていない。悪い意味である。

「そんなレベルに達していない」ってことだ。

 

いや、好みの問題で、こういうのが好きな人は好きなんだろうけど私は大嫌いってだけの話なのかもしれないが。

山戸結希監督は、「リリイ・シュシュのすべて」を観て映画にハマったみたいなインタビューをどこかで読んだが、「リリイ・シュシュのすべて」は、日頃、そんなに映画を酷評せず比較的、何観てもまあ面白いと思う私が、人生の中で上から数えたとき片手の指に入るくらいの順位でクソつまらんと思った作品である。

なるほどなあ…

俺は!こういう!完全に滑ってる思わせぶり演出とか!別に特に意味のないかっこつけた難解さとか!サブカル業界人が内輪で盛り上がってそうな感じとか!すげえ嫌い!!

 

 

というのはさておき、

演出がダルい、テンポ殺しすぎ、原作の漫画ちっくなコミカルな魅力(夏芽とかコウちゃんだって、ほんとはもっと明るい魅力があるわけ)が、ウェット一辺倒な作風によって封印されている、

特に前半、原作読んでいないと登場人物の心理や行動意図が意味不明、そもそも、「どうして主人公の夏芽(小松菜奈)がコウちゃん(菅田将暉)に惚れたのか、あそこまで執着するのか」謎、っていうような、欠点を挙げればキリがないが、

敢えて作品としてマジで致命的な欠点、そして欠点でありながら、しかしこの作品のほぼ唯一といって良い見所を一つだけ述べるとするならば、

 

どう考えても、どう考えても、当て馬として登場する大友(ジャニーズWESTの重岡くん)の方が、魅力的なんだよ!!!!

重岡くんが、あまりにも好演しすぎていて、むろん、好演しすぎているのは良いことだしジャニーズの新人がこういう形で世に出られるのって最高だと思うが、ゆえに、

 

なんでこんな魅力的で良い子放っておいて、あんな性格悪くて無愛想なクソヤンキーなんだよ!?!?!?

と、少女漫画としての世界と主人公へのシンパシーが完全に崩壊しているんである。

いや勿論、リアル世界にいたら120%モテるであろう、爽やかで素朴で優しくてイイ奴より、ツンデレでクールで我儘自己中な男を結局は選んでしまうっていうのは少女漫画のセオリーではあるけれど、それでも、後者のがやっぱり魅力的っていうのはワカるじゃん作中で。

溺れるナイフ」も原作ではもちろん、コウちゃんの魅力は断トツなわけで。(っていうかそれ以前に、別にヤンキー化する以前とかは、傲慢ではあるがあんな無口で根暗な感じじゃないしな別に。むしろ飄々として明るいクラスの中心系だったわけで)

 

これは、菅田くんが悪いって話じゃあないのだ。小松菜奈菅田将暉も勿論、好演はしているし美しいことは美しい

なのでこれは演技というか演出やキャラクター設定の切り取り方の問題で、そう見えてしまう理由は、重岡くんが好演しすぎという点以外に色々あるだろうけど、大きなとこで三つくらい言うと、

 

①前半がダイジェスト過ぎ

②モブがほとんど描かれない

③我々が菅田将暉小松菜奈に慣れすぎている

 

原作だと、3巻くらいまでにあたる、まだ、彼ら二人が「輝き」を失う前の部分。

Kindleだといま3巻まで無料なので読んでみるといいと思うけど

 

キラキラしていた東京やモデル世界から離れ、何もないド田舎に引っ越してきた主人公夏芽は、田舎で明らかに突出して輝き、自由奔放に振舞っているように見えるコウちゃんに惹かれる。

彼の輝きと自由さが放つ存在感に、お前なんて別に大したことないと言われているような気がしてしまった夏芽は、彼に、「凄い」と言わせたくて、勝ちたくて、私だって凄いのだと見せつけたくて、著名な写真家からの写真集の話に挑戦していく

 

だから、何故、コウちゃんなのか?というラブストーリーには、

すらっとした手足と田舎で明らかに浮いている夏芽や、奔放でカリスマ的な魅力を持ちここらの地主の息子であるコウちゃんに共通する「異質性」、自分はこんな退屈な田舎で留まる人間ではないと刺激を求める態度、そして、良くも悪くも人を圧倒してしまう「力」への渇望。

それらへのシンパシーと、シンパシーゆえの、ある種同性同士の“やおい”的、敵愾心に近い感情こそを描くことが重要なのである。

 

重要なのだ、が、映画だけみるとこれ、

ダイジェスト過ぎていまいちよくわかんねえんだよなあー。いやわかる? 原作読んでない人、わかる?

だからあとから、“あの頃の二人は特別に見えた”(だっけ?曖昧)とか、台詞で説明されても、はあ、さいですかとピンと来ない。

 

ダイジェスト過ぎるというほかにも、

先述した通り、時間の関係で(?)、モブがほとんど描かれないというのもピンと来ない一つの理由じゃないかと思う。

スクリーン上で彼らが明らかな「異質」になるためには、異質ゆえのシンパシーを描くためには、そして、後半部分の「あの頃の輝きを失ってからの物語」を活かすためには、対比として、平々凡々な存在たるその他大勢も映さないと、いまいちよく分かんないと思うんだけど。

画面でほとんど主役級の人たちしか出てこないので、我々にとっては、小松菜奈菅田将暉が「普通」になっちゃうのだ。だから、ピンと来ない。特別に見えないと、そもそもこのラブストーリーは成立しないのに。

 

もちろんそれは、おそらく我々観客側にも原因があって、「渇き。」や「共喰い」で突出した異物として衝撃的な存在感で世に出てきた頃ならともかく、2016年11月、

もうねー言ってしまえば、私たちが、小松菜奈菅田将暉に慣れちゃってんですよ。

誰だあいつ!? じゃなく、もう彼と彼女を存分に知っちゃってる。それも我々にしてみれば、「普通」になっちゃう理由の一つではあるんですよ。これも役者が悪いわけではない。

 

まあ、ある事件が起こってから、時間転換して高校生になったところの、夏芽の背中のシーンとか、高校デビューを果たした同級生が皮肉っぽく絡んでいくとこの厭な感じとかは、「あ、変わってしまった」のかって凄い分かって、良かったとは思うけどさ。

 

 

というような理由からも、いやどう考えても重岡のが魅力的じゃん?何なん?になっちまうわけだが、

しかし、「溺れるナイフ」のみどころは、もはや重岡くんにしか無いと言ってもいい。

なのでこれは、大いなる矛盾なのだ。

重岡のせいで作品世界が崩壊しているけど重岡がいなければ映画の価値はマイナス100点という…。

だから重岡ファンは100回観るべきである。そのためにクソつまらん部分に90分耐える必要はあるが、もしも私が重岡ファンだったらこの映画は本当に嬉しいだろうなあ!という場面がてんてこもりである。

 

落ち込んでいる夏芽を、バッティングセンターに連れて行き、元気づけるために、“見てろ俺のナイスバッティング!”みたいなことを言う台詞を若干噛んでるところとか(敢えてだろう)、

ナイスバッティング!を自分で繰り返すところとか、

結局夏芽に振られてしまうも、そのまま、“よし、歌うぞ!歌っちゃうぞ!!”とカラオケを入れるところとか、そこからの、「おら東京さ行くだ」熱唱シーンとか。

この、「おら東京さ行くだ」なんか、作品で一番の名場面でしょ、こんなん笑いながら泣いちゃうよっていうか隣の女性はマジで笑いながら泣いてたよ!!!

 

 

と、トータルで言えば重岡以外はクソでFAだし、散々酷評したが、

しかしこれも、「おとぎ話みたい」を観た時と同じで、演出も話運びも好きじゃあないが、作品の根底にあるテーマには、バシンとやられてしまうわけ。

上にああ書いたのをひっくり返すようでなんだが、そもそもこれは別に、大友かコウちゃんか?みたいな話じゃないのである。言うならば、あなたかあたしか? 

 

神様の輝きは消え少女は田舎と男を捨てる。

 

捨てるっていうのは言い過ぎだが、

少女は、平々凡々な小市民的幸福でもなく、かつて自分の神様のように輝いていた男でもなく、ブスブスと刺され血を流し続けねばならぬかもしれないしかし自分が輝く可能性を、選択する。

だから、取り残される男にとってはこれは非常に残酷な話ですよ。

これは、コウちゃんの勝利の物語でもあるしコウちゃんの敗北の物語でもある。

コウちゃんは、最初から、コウちゃんにしか依存しない夏芽には興味がなかった。コウちゃんさえいればという彼女を「つまらない」と言い放った。

だから、そこにあるのは、異質性や圧倒的な力の行使への欲望へのシンパシーと、そこから生まれる、彼女は自分には出来ないかもしれないことをやってのけるかもという期待で、

最終的に夏芽はその通りの、力があったら使いたくなるんじゃないのかと自分が嗾けた道を選んだ。その点では、コウちゃんの勝利ではある。

けれど、彼女を助けられず幻想に応えられなかった故に失った輝きを、命懸けで再びこの手に取り戻そうとしても、もはや自分は田舎の一ヤンキーに過ぎなくて、彼女だけが、自分を踏み台にして、彼女が呼吸を出来る場を、圧倒的な美貌という武器を見せつける場を、再度獲得していく。

 

ね、だから実質「おとぎ話みたい」でしょこれ。

だから、演出上の数多の欠点はさておいて、根底にある物語としては、ほんとは凄く好きな話ではあるんですよたぶん。

 

 

[鑑賞日:2016年11月5日]

10月読んだ中で面白かったBL漫画5選・記録用(2016年10月)

 漫画好きと言いつつ、ほぼ全く漫画の話をしていない気がするので、取り急ぎ、2016年10月に読んだ(10月発売とは言っていない)中で、面白かったBLまとめ。

どれも如何にも、「あ~ナタリーとかに取り上げられそうな感じのやつね」って感じのチョイスだが、そうだよ!! 私は如何にもナタリーとかに取り上げられそうなBLが好きなんだよ!!! (でも一番好きなBL作家は日高ショーコです。「リスタート」の新装版は勿論買って、やはり素晴らし過ぎたのでまた自宅にて日高ショーコ祭り(※一人)を開催しましたよ)

 

 

『耳鳴りとめまいと悪寒について』湖水きよ (徳間書店)

 

「学園ハンサム」ではないが顎で人を殺せそうな攻め、と女の子と見紛うキラキラ感な受け、みたいな時代と比べると、最近のボーイズラブ漫画の表紙は随分オシャレになったもんだとか思うわけですが、それゆえ、結構、表紙はサブカル風でハイセンスなのに本編はクソつまらない、むしろキラキラBL未満のただの技術不足・下手くそっぷり、みたいな「表紙詐欺」に遭遇する確率も高くてビクビクしている。

ビクビクしている、のだが、この『耳鳴りとめまいと悪寒について』は、表紙の色彩の鮮やかさ、文字フォントのオシャレさ、タイトルのセンスの良さに負けず劣らずちゃんと中身も凄く面白かったので良かった。

煽りとかあらすじの書き方は売るために敢えて俗っぽい感じにしてはいるんだろうけど、実際読むと、所謂、BL世界における、「取立て屋ヤクザと借金に追われる受け」モノのイメージとは一線を画していることが分かる。

 

恋愛のようなそうでないようなでも二人が惹かれあい互いに救済しあい互いを必要とする事にはこの上なく 必然性がある、男同士ゆえの“恋愛未満恋愛以上”、甘々一辺倒でない攻めと受けの関係の描き方、台詞運び、恋愛パート以外の、お仕事&推理(?)ドラマ構成も素晴らしいながら、

 

「人に触れば、失くした物の在り処がわかる能力持ち」の受け、という一見突飛に思える設定も、ちゃんと、二人の関係性と必然性、本編で描かれるテーマにきちっと絡んでいて、「良い文学はメタファーの使い方が上手い」を日頃信条にしている私のツボを突くわ突くわ。

 

亡き父が残した借金に追われる受けは、取り立て屋のヤクザに、「組の金を横領したままトンズラしたので、意識不明になるまでボコられた男」から金の在り処を読み取れないか、うまくいけば借金チャラにしてやる、と持ちかけられる。

その際に、特定が上手くいかない理由として提示される、

「金は組のもので男のものではない。だからどんなに男が金を呼んでも金の方が男に応えない。ゆえに在り処を特定できない」

という、受けの能力設定が、物語のテーマと二人の関係性が生まれる過程に機能していくのである。

 

父はなく母に捨てられ養護施設で育った攻め、同じく、離婚した両親どちらともから引き取られなかった受け、

 

「どんな気分だよ、他人が誰かを呼ぶ声とそれに必死に応える声を端から聴くだけってのは」

「…最悪だ」

「だろうな」

 

誰も自分を必要としないなら自分も誰も必要としないことにした二人は、初めて、同様の感覚を分かり合える相手と出会い、だからこそ、互いを、「必要とした」のだ。

 

更に、この能力設定が、伏線として、後半のどんでん返し(という言い方をするとあれだが…)のキーになっている展開も、普通に、ドラマとしてゾクっとするほど。

10月読んだBL漫画の中では一番お勧め。

 

 

『猫背が伸びたら』大島かもめ (幻冬舎コミックス)

 

GUSHpecheの女装特集↓で、絵柄・作風・女装というエッセンスの使い方、物語構成のレベル、読了後の情緒、どれをとっても一際異彩と異才を放っていた短編を読んで以来、個人的

「もっと売れていいBL作家暫定ナンバーワン」

に君臨した大島かもめ先生

私の記憶力の限界により電子BLの短編って、ほぼ「読んだ瞬間にどんな話だったか忘れる」が、大島かもめ先生のはめちゃくちゃ強く印象に残っていて、今でもこのアンソロジーに載った短編が一番傑作だと思っているので、もうつべこべ言わずとっとと先に読んで欲しいんだが、

 

ルチルから出た新刊もいいっすね~

 

 「君はイケメンだからいいね~」と周囲にやっかまれたり、容姿の良さを起因とする過去の或るトラウマ故に、どうせ自分なんて、と卑下する癖がついてしまったネガティブイケメンが、自分とは正反対の、明るく社交的な男前に惹かれていくが…という、

プロットだけ見ると単純といえば単純な物語ではあるのだが、なんというかね~台詞やモノローグ、登場人物の心の機微なんかに節々に現れる、これはもう作家固有の、“ひねくれ感”(洞察力、と言ってもいいが)がいいんですよねえ、大島かもめ先生は。

 

たとえば、ネガティブな主人公・ジョージが、自分のネガティブさについて語るモノローグ、

“子供の頃から容姿の事を言われるたび卑下する癖がついていた。何の苦労もせず手にしたものは長所にはならないようだ。顔が良いと言われて喜んじゃいけない。彼らの言うそれは褒め言葉ではないのだから。言葉というのは不思議なもので口に出すたび自分がその言葉にふさわしい人間になっていく”

この、「何の苦労もせず手にしたものは長所にはならない」とか、いいじゃないですか。普通に考えたら、イケメンがネガティブになるわけねーだろってある種フィクションの嘘的しらけ感が出そうなところを、ちゃんと、納得できるキャラクターを作り上げるための言葉になっているわけである。

 

 あと、やっぱ絵というか、いや絵は決して、綺麗なBLBLしたものではないのだけど、でもやっぱり「漫画」がうまい。

BL界に於いては一発で、「あ、○○さんの絵」と判別できる独自の画風を持っているのはめちゃくちゃ強いのは言うまでもないとして、何となく岩明均・イズムにも通ずる、別に笑わせたいわけではないはずなのに、妙にトボけた面白さがあるというか。

何でここにこの表情?!(このコマ!?)みたいな、絵をぽんと持ってきてたりして、それが妙に印象に残っちゃったりするのだ。

そういう漫画が描けるのってやっぱ天性の才能なわけで、ゆえに、今後もっと売れていい作家個人的ナンバーワン、いいから短編既刊全部読め!!

 

 

『MODS』ナツメカズキ (東京漫画社)

 

最近流行りの作家だし、本屋のBLコーナーでは平積みされているので今更私が言及するまでもないから短めに述べるが、やっぱかっこいいっすよね~~これぞ、東京漫画社!って感じ。

絵柄からも台詞からもギリギリのところで危うく生きる男の色気が溢れ出しまくり、無骨ながら実は世話焼き系の攻めと、稀有な色気とカリスマ性を持ちながら、放っておくとすぐに彼岸側にいきそうな振り回し破滅型(尾崎豊型と言うべきか…)の受け、という組み合わせも萌えるが、この画像にはないものの、編集者のセンスが問われる帯のコピーもぐっとくる。

 

“白く零れ落ちる、空っぽの愛だけをくれ”

 

是非どっかで真似したい!(機会があるのかは別にして…)

 

また、 男娼という舞台設定が単なるBLのための舞台装置に留まっていないのもいい。

ある種これは、“貧困の再生産”から抜け出す物語というか、クズ親と劣悪な家庭環境のせいで、「自分は一生ウリしかできない」という呪縛から逃れられなかった受けが、攻めに出会うことで、「抜け出そう」と思えることができた物語である。

ポイントは、所謂、借金持ちとか男娼系BLにありがちな感じの、「(強い力や金を持った)攻めによって、抜け出させてもらう」話ではなく、受けが、攻めと出会うことで、「抜け出そう」と決意する、というあたり(まあそう思えるようになるまでにも二葛藤くらいあるのだが…)

 

山内マリコの小説に、

“私はあなたの運命の輪の一つかもしれない。

 あるいは、あなたがすべきことの扇動者。 ――ドリュー・バリモア

という一節が引用されている話があるのだが、まさに、BLの醍醐味とは、「彼は、彼がすべきことの扇動者」であることなのだなあと思う。

 

 

『グレーとブルーのあいまで』糸井のぞ (プランタン出版)

 

内容も勿論面白いし、攻めも受けも両方割と強気な性格で、「ガキはクソして寝ろ」「あんたこそ徘徊してるって通報される前に帰ったら?」「お子様」「ボケ老人」とマウンティングし合うような関係も好みなのだけれど、こういうタイプのボーイズラブってかなり珍しいんじゃないかなあと思ったので入れた。

自分の美貌を武器に奔放に生きてきた男子高校生が、50過ぎの色気のあるおじさんにぐらりと来る話なのだが、このタイトルは、「グレーとブルーのあいまで」つまり、グレー=人生の終盤に差し掛かって色あせてきた世代 ブルー=今まさに青春を謳歌している青臭く若い世代 の合間にいる、30代の男たる主人公を指しているのに、だがこの中年男は恋愛関係には直接絡まないのである。

 

しかし、そんな中年男・甲太郎は、「あのジジイに認められるようないい男になりたい」と、自己や他者に対して適当に生きてきた自分をはじめて見直そうとしている教え子の小夜谷と、小夜谷の若さに飲まれそうになりながらも、自分の築き上げた人生がぱっと壊されてしまうかもしれない怖さから、いまいち一歩踏み込めないでいる義父の庚子さんの両方を、見守っていく、

まさしくこれは、「グレーとブルーのあいま」にいる男の物語なのだ。

 

排他性が強く閉じた二者関係を描くことが多いBL界に於いて、恋愛には絡んでこない、しかし両方と強く関係している人物を主点に置いて物語を展開するってパターンって殆ど無いはずだが、でも、日頃、「俺とお前以外は全部モブ」みたいなボーイズラブ界のお約束世界に辟易している身としては、こういうのもっと増えるといいなあと思った。

いや、雨宮兄弟のくだりで散々語ったように、私が割と、三者関係マニアってのもあるんですけど…

 

 

『仰げば恋し』ココミ (aQtto!・2016年11月号)

 

 

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 まだ単行本は出されていないようだが、個人的に、今後の活躍注目度高し。

 BLの短編って、出会って互いに好きになってヤってって、トレンディドラマだったら1クールかかる話をたったの20数ページに収めないといけなかったりして、だから大抵、“えっ、なんで好きになった!?”的、唐突感が拭えない作品が多かったりするものの、だからといって、キス一つせず終わりでは、“えっ、そんだけ?”と、BLを求める人にとっては物足りなかったりする。

なので、面白く、かつその場限りのズリネタではなくちゃんと印象に残る短編BLって結構難しいのだが、

ココミさんは、短い中で、“男同士が惹かれあう物語”が描ける作家さんだと思う。伏線や要素の張り方とそれらの線の繋げ方もうまい。(最初と最後がつながる、みたいな話のつくり方好きなんすよ私は…)

 

aQtto! 2016年11月号に載っていた、「仰げば恋し」は、

試合の大事な場面でゴールを失敗してしまったことで、憧れの先輩からの「後は頼むな」という言葉を果たせなかったことを気に病んでいた主人公が、

卒業後、バイト先の居酒屋で当の先輩と再会する話なのだが、

こういう、恋愛未満憧れ以上の関係ね~~キュンとしますよね~~散々、ヤクザだ男娼だみたいなBL紹介してきてなんですけど~~これぞ青春抒情って感じですよ

恋が動き出す予感、というところで終わらせる余韻の残し方も憎い! 

 

これは持論だが、 やはり、男同士の深い(萌える)関係性には、相手に対する“憧憬”のほかに、というかその裏返しとして、“引け目”ないしは“劣等感”が必要なのだと思う。

単なる好意よりも強いマイナスの感情が転じる執着こそ、代替不可能な唯一無二の関係となり得る(ように見える)、少年漫画の同人なんかで、単に仲良しこよしの二人よりも、互いに敵対し合っていたり喧嘩が多かったり正反対のものを持っている組み合わせの方が人気なのもそういう理由なんじゃないかと。

この話の場合は、そこまでではないにしろ、“自分は彼の言葉を果たせず、部活から逃げた”という引け目が物語のエッセンスになっていて、だからこそ、そのマイナスが何らかのターニングポイントで、ぐっと、恋に転じるときの振れ幅が、ドラマを生み出すのだ

 

とまあ、序盤に出てくる台詞を最後に回収する構成、短い中で、無理のない感情の揺れ動きを描いたり、過去と現在の交錯によって物語に深みを与える力量、短編BLのお手本のような話だと思った次第である。

 

超人気俳優ばかり使った東宝配給映画なのにあんなハイコンテクストで大丈夫か?――映画「何者」感想

漫画好きと言いつつ何か最近ずっと映画の話ばかりしているような気がするが…

 

超人気俳優ばかり使った東宝配給映画なのにあんなハイコンテクストで大丈夫か?――映画「何者」 

 

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今でこそ希望の職種に就いているものの、私自身は、リアルに、大学4回生の卒業式の日まで無い内定だった就活戦線超絶負け組なので、

 

「でもさー所詮こいつら(※俳優)誰も就活なんかしてないで有名になった側だしさー朝井リョウだって、男性としては最年少で、っていうか今の私と同じ年で直木賞受賞した作家かつ就職市場でも、この映画の配給先である東宝に入社するような、完全に“何者”かになれてる側だしさー」

という嫉妬心を捨て去って観ることができるか? 的不安は残っていたものの、流石、全員主役級だけあって俳優は皆良かった。

 

特に、憎めないリア充大学生役の菅田将暉は、ほんとに、“光太郎”としか言いようがないほどの実在感、そして、こいつならそりゃ内定取るよなーって愛嬌、対する主人公・佐藤健も、中の人はイケメン人気俳優のはずなのに、多くを語らない抑えた演技で、“いかにもいそうな大学生”にしか見えない、という巧さで、流石という感じ。

 

ただ、そういう、題材は青春系で、東宝配給、全員主役級の人気俳優、にも関わらず、巧妙ではあるが、多くを語りすぎずオーバーにせず良い意味で抑えた演技や演出ゆえに、

 

これ、ちゃんと観る人に伝わってるか??

 

考えすぎというか私が観客を舐めすぎで、別に普通に伝わってるなら全然いいんだけど。

というのは、私はこの映画について、原作を比較的忠実になぞりつつも、映画ならではの演出も巧い上、邦画にありがちなうんざりするような過剰さもなく、冒頭と終盤とメッセージがしっかり繋がっている巧みさもあって、かなり良いではないかと思ったけど、観終わったあと、劇場で、「なんかよく分からなかった」という声をちらほら耳にしたからである。

 

「就職活動を巡る青春映画(と恋)」という分かりやすい物語を期待するとちょっと違って、もちろん、あらすじ上は就活の話ではあるし就活を巡るイヤーなプライド争いみたいなものも描かれてはいるのだが、

そこで主に焦点が当てられているのは、人間の見栄と承認欲求のあり方、ゆえ、

主人公・二宮拓人のように、「周囲を俯瞰して見下し言語化するその分析眼とセンス」で、自らのアイデンティティを保ち、その観察眼とセンスこそを、自らが「何者」かである(かもしれない)、という根拠の礎とし、周囲の賞賛と承認を得ようとしたことがある人以外には、なかなか主人公の行動原理と感情を理解できないだろうし(ここで今書いたことを、どういうことか分からないと思う人は多分映画も分からないと思う)

周囲を俯瞰したり頭の中で考えてるだけで自分で何も生み出さない間は、所詮お前は「何者」にもなれないんだよ という作中のメッセージも伝わらないのでは?

 

というのを根本的問題として、

 

更に、登場人物が何を思っているか、何でそういう行動を取ったか、というのを理解するには、まず、人物の視線や、視線の先の“映り方”、声のトーン、空気感の気まずさ、雰囲気、ある前のシーンを、「ライブでわかったんです、彼を見るときの視線が違う」みたいな全然別のシーンでの別の舞台上の台詞で説明している演出、みたいな、「映像作品」を鑑賞する際の素養がある程度は求められる。

たとえば、比較的分かりやすいところでいえば、劇中で、佐藤健演じる主人公は、有村架純演じる観月を好きだとか一度も言葉にしていないが、そういうのは、上に書いたような要素要素で汲み取っていくしかないわけだ。

そして、主人公や登場人物たちが文章や言葉にしているものが必ずしも、作中での“正しさ”や、“伝えたいメッセージ”ではないのだ、という読解力みたいなのもいる。主人公の語り=正義 みたいな素直な見方しかできないタイプの人だとたぶんキツい。

 

また、そうしたニュアンスでいけば、

二階堂ふみ演じる、「意識高い系」(留学、学生団体、ボランティア等のアピール、学生なのに名刺持っちゃったり、OB訪問アピール、仲間アピールなどなど)や、岡田将生演じる「クリエイティブ・ワナビー」(スーツ着ない、付和雷同でない自分こそ個性的で至上、就活に頑張ってる知人たちを尻目にひとり哲学書を読んじゃう俺、みたいな感じ)、

とかの持つ「痛さ」、「あるある」、などのニュアンスをちゃんと読み取れる、ネット的知識と読解力というか言ってしまえば、2ちゃんねらー的性格の悪さも前提として必要の気がする。

 

なんというかなあ、東宝映画のくせに割とハイコンテクストなのである。

 

私は、原作も読んだことあるし、岡田将生演ずる隆良+主人公の拓人 みたいな、痛いワナビー系なので(大学4回生2月のときの、無い内定向け合同面接会でこういうタイプの人、マジで数人見たなあ…)、ここで描かれているようなことって、すっげえ分かるけど、

他人の見栄とかアピールとか承認欲求なんかを気にしなくても真っ当に生きていられるからあんまピンと来てない人も少なくないんじゃないか?? 大丈夫か??

挑戦したなあという感じ。

 

 

これって、スクールカースト底辺側じゃないと、「桐島、部活やめるってよ」のあの厭な感じが分からないみたいなのと似たようなものかもしれないが、

原作者である朝井リョウの凄さは、本人自体はカースト上位側、リア充側、「何者」かになれている側なのに、ああいう底意地の悪いクソ非リアみたいな視点を持ててしまっているところこそにあるよなあと思う。自分は早稲田でダンスサークルとか学祭実行委員とかやって東宝に内定貰っちゃう側なのに、偉そうに文学批評したり痛いファンタジー創作とかしたりしてるだけの、文学サークルのオタクみたいな奴を尻目に、小説家としてデビューしている、という価値やそれに対する周囲の評価をも、内面化しちゃっているあたりだよなあと思う。

 

と考えるとこれは、

朝井リョウ(笑)とかdisってるお前ら、一本でもまともに小説完成させたことあんのかよ、所詮、頭の中にあるうちはいつだって傑作なんだよな(笑)!!

というメッセージのようにも捉えられる物語だけれども、

以上のような理由で結構、朝井リョウ好きなのですよ。非常に現代っぽい。

 

更に、この映画では、原作の物語を比較的忠実になぞりつつも、原作の持っていた“説教臭さ“を、説明過剰にせず、上手い具合に消していて(ゆえに分かりにくいのかもしれないが)、かつ、映像ならではの独創的な表現も加わっているので、そういう意味では原作を越えているところもある。

途中途中のニュアンスこそ、ある種の素養や、性格のクソさがないと伝わりにくい部分はあるかもしれないが、「何者」のメッセージは割とシンプルというかストレートだ。

 

“他人を批評したり頭の中で“傑作”の構想を練っているだけで、自分では何もしないうちは、お前は永久に何者にもなれねえんだよ”

(それが、劇中でキーとなる、“ギンジ”と岡田将生演ずる“隆良”の違いなわけである。どんなに笑われても酷評されてもダサくても痛くても、ギンジは毎月、ほかでもない自分の作品を毎月毎月生み出して公開しているのだ)

“140字や1分間で語られないところにこそ、その人の思いや姿があるのかもしれないのに”

 

そうしたメッセージを伝えるための、クライマックス・終盤に向けた映像ならではの演出は音楽の高鳴りも加わり、かっこいい。

本当は演劇(創作)で何者かになりたかった拓人は、「でも、そういうクリエイティブで飯食ってくみたいなワナビーって、ダサくねえ? 痛くねえ?」みたいな、自分自身をも客観視しちゃう俯瞰癖ゆえに、演劇・自分で何かをつくることで何者かになる、ことを諦め、自らのアイデンティティや、承認の根拠を、他者への批評という“分析眼”に求めていくわけだが、

主人公がそういうタイプの人間であることの説明を、意識高い系disりとかそうした行為で誰かに認められたいと思っている人間なのだという説明を、

主人公が打ち込んでいた「演劇」に因んで、演劇の舞台を舞台装置とし、舞台‐演劇(主人公が観ている○さんと×さん)‐それを観て批評する主人公‐更にその様子を観る観客‐観客からの賞賛

という映像構造で、視覚的に説明する手法も、見事だと思う。

 

冒頭の、「面接の自己PRはTwitterと似ている、文字制限、決められた型の中で、最大限に表現する必要」云々という語りと、

終盤の、「すみません、1分間では語りきれません」が繋がっているところもいい。繋がっている上で更に、作品が表現したいメッセージを間接的に伝えているというところもいい。

「1分間では語りきれません」――SNSなどの表面に現れる誰かの行為だけで他人をカテゴライズして分かった気になっているような主人公が、本当に語りたいことは、本当に思っていることは、1分間の、140字の、外にあるのだということに気が付くシーンなのだ。

 

 

ということで、俳優の演技・演出・テーマ・テーマの見せ方、私は今年ベスト級で好きだけど、万人が観てちゃんと面白いと思うのかは、やや不安が残る作品ではある。

むしろ、分かんない方が幸せで性格が良い証拠なんだと思うけどさ。

 

 

●鑑賞日:2016年10月16日