センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた25歳。ボーイズラブの話多し。

雨宮兄弟は何故外で20本箱入りアイスを食べていたのか過程を考えてみる――HiGH & LOW THE RED RAIN 妄想いろいろ

 

HiGH & LOW THE RED RAIN

 

 先週の土曜に「HiGH & LOW THE RED RAIN」を観て以来、雨宮兄弟のことを考えすぎて仕事が手につかなくなる症状に侵され、映画に使用されていた雨宮兄弟キャラソン(?)

 

ACE OF SPADES feat. 登坂広臣 / SIN

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これを見ても、もはや、臣くんかっこいいとかで全くなく、

(雅貴以上に広斗の方が何か格好とか歌い方とかイキってるのがめっちゃ可愛い…可愛いな…) としか思わなくなったくらいの末期症状。

雨宮広斗の三男ぷりを語るには、ぜんぜん、この間の通常感想↓

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

では足りんというか気が済まんので、私が見たい雨宮兄弟と気になった点を妄想で補完しようと思う。

初めに断っておくが、以下、考察でも何でもなくただの私の妄想である。BなL的直接描写はないがやや腐向け。

 

 

私が見たい雨宮兄弟① 生まれて初めて雅貴に殴られてガチヘコみする広斗と広斗より落ち込んでる雅貴 

 

THE MOVIEでは、まだ、かっこいいに寄っていたのだが、レッドレインで完全に「三男可愛い三男可愛い」という方向に評価が振り切れたので、私の中で、「可愛い三男」を追求した結果受信したのが、「雅貴に殴られてめちゃくちゃヘコむ広斗」というシーンである(もう一度断っとくが、本編にはそんなシーンはない)

 

そもそもの前提として、ハイロー界の人物は、やたらと登場タイミングが良すぎるといったほか、何だかんだ言って牧歌的というか優しいよなあと思う。たとえば、ドラマ版のラスト、山王VS達磨の喧嘩の最中に、特に意味もなくSWORDの各トップが全員揃うといった場面があったが、闇堕ちしたノボルを、「お前の居場所はここだろ!!」「帰ってこいよ!」とコブラとヤマトが延々10分以上涙ながらに説得するシーンも、皆、親切に黙って傾聴して待ってあげていたのを見て、

視聴者の私でさえ、タリいな切ろうかな、と思ったくらいであるのに、なんて皆優しいのだろう! と感銘した。

そんな優しさを持ったハイロー界登場人物の例に漏れず、雅貴も、広斗にはめちゃくちゃ甘い。

映画を観て、そういえば、雨宮兄弟ってそもそもの行動原理と神出鬼没の理由は、「長男を探す」なのに、何でムゲン潰そうとしてたんだっけ、って思い返してみたら、最初は単に、雑魚っぽいムゲンの下っ端から「有り金置いてけやー」みたいに絡まれバイクを蹴られた広斗がキレたってだけだった。

「長男を探す」が行動原理であるという前提を忘れていなかった雅貴は、最初はちゃんと、ムゲンの下っ端に絡まれても「行こうぜ」と、無視して帰ろうとしているし、キレて相手に殴りかかった広斗を「やめろって」と止めている。途中で、うっかり自分もキレて喧嘩しちゃうけど、雑魚を潰した後で冷静になって、「お前らの頭どこだ」とか言ってる広斗に、もういいじゃんーーと諌めているのである。

 

けど、結局、頭潰さないと気が収まらん!!とか憤慨している広斗に、「もーお兄ちゃんの話聞かない!!」とかなんとか言いつつ、律儀にちゃんと付いていってあげて、一緒に喧嘩してあげているわけ、それもたぶん一回ではなく何回も(?)

 

でこれはぜったいに広斗も、「どうせ雅貴は付いてきてくれるし」って思ってるんだろう。

無視しても「うっせえな」とか舌打ちしても、自分が勝手にキレて暴走しても、どうせ雅貴は許してくれるし付いてきて一緒に喧嘩してくれるし、と広斗は思っているので、そういう安心があるからこそのああいう態度。

雅貴さあ、広斗甘やかしすぎじゃないか?? って感じだけど、逆に考えると、この前提と安心が裏切られたとき、広斗はどういう態度を見せるか?

びっくりしてめちゃくちゃヘコんじゃうんじゃないだろうか??

 

というわけで、これは私のオタクな歪んだ愛情ゆえの願望なんだけど、お願いだから、今後、何らかの理由で、雅貴は広斗のことを一回本気で怒って殴ってみて欲しい。

絶対にめっちゃヘコむと思う。見たい。そして何より、殴った雅貴の方が広斗よりも落ち込むと思う。殴ってしまった…と落ち込んでるから、広斗の顔を見るなりついすぐ謝ろうとするんだけど、ここで許したらまたこいつは…と一生懸命、怒った振りを必死でし続ける雅貴の葛藤も見たい。

 

でも難しいのが、何があったら雅貴は広斗のことを殴るんだろう…ちょっと思いつかん…ハイローの基本構造は、変な自己犠牲精神美学とどうにも自分勝手な気遣いのせいで闇堕ちした(ように見える)かつての仲間を皆の愛で救うって感じだけど、「俺のせいで兄貴は…!」って感じで琥珀さんの如く闇堕ちとか全然しそうにないしな広斗は…ルシファー愛してくれとか歌っとるけど…

(ところでルシファーってこの場合誰なんだろうな…)

 

 

私が見たい雨宮兄弟 ②スモーキーに人生相談する雨宮広斗 

 

ドラマで、コブラにボコられて以来何となくやる気と目標を失った村山さんが、自分を倒した相手であるコブラのところに行って、人生相談をしていた場面があったが、

あんな感じで、広斗も、前回の映画で深く交流を深めたスモーキーのところに人生相談に行っているのを見たい。

自分が悪いとは分かっているので、謝りたいのだけど、雅貴がまだ怒っているのでは…とビクビクしてしまい、本気で怒っている雅貴に接するのが初めてなので、どうすればいいのか分からない広斗、っていうか、これまで雅貴と小さな言い争いをしても何となくそのうちなあなあになってきたので(まあ兄弟ってそうだよねー)、謝ったこととか一回もない広斗、また、雅貴が自分を拒絶したら、と思うと怖くて、上手く面と向かって話ができない広斗、

は、何となく家に居づらくなって、プチ家出的にスモーキーのところに行ったりするといい。(つうか雨宮兄弟、あいつら他に友達いるんだろうか…)

そして、「お前ら、兄弟喧嘩とかしたことあるか…?」とか、訊いたりするといい。

 

スモーキー「昔はよくした…食いもんの取り合いとか…」

 

 

雨宮兄弟は何故外で箱入りアイスを食べていたのか問題 

 

レッドレインを鑑賞した全女子のハートをざわざわさせた、問題のアイスキャンディーシーン

 

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↑こういうことらしいのと、やりとりは完全にその場でのアドリブ

 

news.mynavi.jp

 

ということなので、正解は、「そんなに深く考えていない」でFAなのだと思うが、

もうね!! 公式はね!! 迂闊にそういうね!!!

何となくのその場のノリでのファンサービスで、オタクに爆弾を落とさないで欲しいですよね!!! 考えちゃうからオタクは!!! オタクは考えちゃうから!!!!! 石原さとみを百万発殴った顔の校閲ガールだから!!!!

 

というのは、ここで食べていたアイス、グリコのパティーナ、

 

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20本入の箱アイスである。

 

すると、あのシーンに至るまでに、雨宮兄弟の間にどういう購買プロセスがあったのか? と考えたとき、どう辻褄を合わせようとしてもおかしなことになっちまうのだ。私は昨日の夜、仕事を終わってから寝るまでずっとこの辻褄合わせに延々苦心し続けていた。もっと他に考えることがあるだろというのはさておき。

 

まずは、真っ当に、「店で箱で買ったのを帰り道で開封した」とする場合。

これ自体は自然であるが、なら、雨宮兄弟が一度に10本アイスを食う割と強靭な腹の持ち主でない限り、箱の中にはあと18本残ってるはずである。

なら別に、わざわざ、

「それ何味?」

「ちょっとくれよ」

「俺ソーダがいいもん」

「ケチ」

とかやる必要なくないか? 別に相手が食べてるやつを貰わんでも、まだ箱の中に沢山あるんだから。仮に雅貴が、「広斗が食べてるやつが食べたい」というアブノーマルな性癖な持ち主であると解釈するとしても、広斗だって別にあげればいいのだ、ソーダ味はあと4本あるんだし。

 

ということで、「箱ごと買ったのを帰り道で食べてる」とすると、後の会話といまいち辻褄が合わなくなる気がする

逆に、超絶腹が弱くて、アイスは一日一本まで、ってことなら別だが…

 

とはいえ、別の可能性として、広斗が、自分の好きなソーダ味ばっか家で食べたあとの、「家のストックの残り」というのもどうだろうか?

わざわざ2本だけ家から持ってきたんかそれ?? 一体どんなピクニックだよ??

アイスを外で食べるためにバイクでピクニックする雨宮兄弟、ハイロー世界が一気にほんわかハートフルである。(まあそれでもいいけどさ…)

 

だが、更に考えたいのは、中学校の時にも、三兄弟でアイス食べてる描写があるという点。これを、同じアイス=思い出のアイス と設定した場合、家に箱で置いてあったはずのアイスのある味について、

「何味か知らない」

ものがある、というのはどういうことだろうか?

ってなってしまうので、会話から素直に推測すると、中学校のときのは全然別物で、エンドロール後に食べているのは「今回初めて買ったアイス」と捉えねばならないことになる。


ということで、上記の点を色々統合すると、

 「戦後処理にITOKANに行ったところ、集まっていた山王連合会とかに余りを貰った」

がもしかすると一番しっくり来るのかもしれないが(?)

(いやでもあれ海沿いだしな…)

 

 

ただこれだとなんか味気ないので、私は悪あがきでかなり頑張って妄想を膨らませてみたところ、「広斗は割り算ができなかった」という設定を、宇宙から受信することに成功した。

これは九十九さんのように、6×4ができないとか文字通りのそういう意味ではなく、もともとは一人っ子だった広斗には、食べ物を分けるという概念が無かった、という意である。

 

私事で申し訳ないが、私自身は3人兄弟で実家は5人家族だったから、母は食べ物をそれで割り切れるように作るのだけど、一人っ子だった父は、そういうことを全然考えずに自分の好きな分だけ食べて、他の家族から大顰蹙を買っていた、という記憶がある。

一人っ子は、親が買ってきたお菓子=全部自分のもの で育ってきているので、これは○個入りだから…とか一人あたりの数をあまり考える習慣がないのだ(偏見だったらごめん)

 

と考えると、グリコのパティーナは、「4種類×5本」入りであるというところにポイントがあるのかもしれない。

つまり、親は、5人家族だから、一人一本ずつ×4種 の違う味を食べられるように、という前提で買ってきたのだけど、

そういう習慣の無かった広斗は、何の悪気も悪意もなく、自分が好きな味を一人で2本とか食べてしまうわけ。

それで、食べたかった味を食べ損ねた雅貴に、

「お前割り算できねえのか!」

と怒られ、初めて、食べ物を「兄弟で分ける」という概念を知るのである。

つまり、あの中学校のときのシーンは、「兄弟で分ける」ことを広斗が学んだシーンでもあるわけだ。(※妄想)

 

そこにきて、先程の、

 

スモーキー「昔はよくした…食いもんの取り合いとか…」

 

というセリフが伏線として生きてくる(※何度も言うが本編にそんなセリフはない)

 

その場ではピンと来なかった広斗だったが、間もなく、無名街を辞して、帰路の途中、遂に、怒った振りをするのにも限界が来て心配MAXの雅貴から、どこにいるんだと連絡が入る。

尊龍失踪⇒死亡 というトラウマでかなりナーバスになっている雅貴は、これ以上家族を、後に残ったたった一人の家族を失うのがもう耐えられないから、これで広斗までいなくなったらどうしようと居てもたってもいられず、結局自分が折れて広斗を追いかけることにしたのだった。

「今から帰るって」と広斗が言うのもきかず、「迎えに行くからそこで待ってろ」

 

広斗の元に駆けつけた雅貴は、ほっとした顔をすると、何か言おうとする広斗を制し、

「今日の昼飯、当番お前だろ、早く作ってくんねーと餓死しちゃう」と茶化す

「ガキかよ、そんくらい自分で食え」

雅貴が笑っているのに安心してついついやっぱりいつものようにぶっきらぼうな調子が戻る広斗

 

そうして、食料の買い出しの途中で(そんなことやるのだろうかってのはさておき…)、ふと、アイスケースに並べられている箱アイスが目に留まる。

ああ、あれは。
ここにきて、広斗は、先程のスモーキーの台詞と、上記のアイスのエピソードを、思い出すのである。あれは、家族で分け合うってことを、兄が教えてくれたものではなかったか。

思わず足が止まる広斗に、「何だ、欲しいのか?」と面白そうにからかう雅貴。兄貴は忘れているのかもしれないな、そんなこと。

 

「2人だと多いか」と、もう、好きな味を複数本食べてもよくなったことが逆に悲しくて、広斗は呟く。

「アイスは賞味期限ないから大丈夫だろ」雅貴は広斗に微笑む。「2人でも、ゆっくりでも」

哀しみは、2人でゆっくり消していけばいい。 

 

「お腹壊すから一日一本」

箱を開けて広斗に差し出すと、雅貴はそんなことを言った。それは、買い物袋から箱アイスを取り出すときの、いつもの母の口癖だった。雅貴たちの父親と再婚した、広斗の母の。

「ガキかよ」

 

 みたいなやり取りがあったんですかね?? まーでも無理ありますよね??

 

山王に貰ったルート 

 

あるいは、山王連合会に貰ったルートにて妄想を拡げてみると、

「あの後、コブラ達と微妙に仲良くなる雅貴と、それにやきもちを焼く広斗」っていうのも、アリかもしれない。

 

コブラたちと微妙に仲良くなり、前作以来、ドタバタで行われていなかった九十九さん退院祝い(@ITOKAN)に何故か呼ばれる雅貴。

家を出る際、

「はあ? 馴れ合ってんじゃねえよ」

と言いつつ、当然のように(なぜならばいつも兄弟一緒だから)付いていこうとする広斗に対し、

「あ、広斗は来なくていいよ」と止める雅貴。

「だって、お前、すぐ喧嘩するだろ? いい子でお留守番しててね」

と置いていかれた広斗は、キリキリとしていたりするといい。

 

そして、ITOKANにて、偶然、例のアイスの箱を目にした、哀しみがまだ癒えていない雅貴は、昔を思い出して、思わず涙ぐんでしまう。

急に泣き始めた雅貴に、驚く一同だが、畜生・テッツだけは、その様子を写メって、雅貴のスマホから拝借した広斗の連絡先に、

“パーティなう”

とかって、送りつけちゃったりする。

 

「何やってんだよあいつは」

と、心配と嫉妬で結局駆けつける広斗に対し、ヤマトなどからの、

「お、今日は、“よくもまあ群れやがって”って言わないのか(笑)」

といった歓迎の言葉のやり取りがあったあと、お土産に二本、あのアイスを貰って、雨宮兄弟二人はITOKANを辞すのである。

 

お、これは結構、ありそうじゃないですか???

ありそうじゃないですか????

 

 

というわけで、オタクの皆、辻褄合わせの最適解頼む!!!

 

 

私が見たい雨宮兄弟③ 「兄貴だと思えよ」というダブルミーニング台詞 

 

話は変わるが、レッドレインによって、私が是非解決したかったひとつの疑問点として、

 

「結局、広斗は雅貴のことを普段何て呼んでいるんだ?」問題がある。

 

長男である尊龍のことは、2人とも「兄貴」でいいとして、問題は、広斗⇒雅貴

こちらも、「兄貴」だと、一緒に住んでいるとき、「どっちのこと言っているか分からない」ので、通常こういう場合って、たとえば、尊兄と雅兄みたいに、呼び方を分けたりしないものだろだろうか、

或いは、家族間にありがちなのは、「家庭内で使われている呼び方が(本人含め)全員に定着する」

つまり、たとえば、夫にとっての妻は、厳密に言えば自分の「ママ」ではないわけだが、「ママ」と呼びかけたりするのはありがちだし、家の中だけでは、実は成人しても自分のことを名前やあだ名呼びするみたいな人って少なくないと思う。何で名前呼びするかってーとたぶん、「親→自分」の呼びかけ(仮:はるみ)が、自分のことを指すもの(自分は、はるみ)として最初に覚えたものだからだ。

 

こう考えると、雅貴→尊龍 は、「兄貴(お兄ちゃん)」なので、広斗も「兄貴」と言うが、

尊龍→雅貴 は「雅貴」だから、広斗もそれに倣い、「雅貴」呼びになる、っていうのもありそうなのだけど、

 

これまでだと、「雅貴」って言ってるときと、「兄貴」と言うときがあった気がするので、レッドレインでは是非確かめようと思って必死に追っていたのだが、おそらく結局、広斗は一回も雅貴を呼びかけなかった気がする。(呼びかけていたら教えて欲しい)

でも、基本的には、兄弟にとって、兄貴=尊龍 なのだろうと思う。 

 

更に、レッドレインで描かれていた、というか私が行間を読みに読みまくって把握した、「雅貴と広斗の絆は、どちらかというと「弟仲間」としてのそれであり、広斗にとっての“兄貴”とは、基本的に尊龍のことである」という物語

 

(↓詳しくはこちら)

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

を鑑みたときに、拡がった妄想が一つある。

 

「HiGH & LOW THE RED RAIN」にて、不憫にも、「壁だと思え」という見せ場を一人だけ与えられなかった次男・雅貴に、「兄貴だと思えよ」と言って広斗をハグして欲しいという妄想。

これは、兄貴=尊龍 の影が忘れられない広斗に対して、二つ意味を持っている。

 

雅貴は、自分じゃ力不足だというやるせなさを抱えているし、むかし、両親が亡くなってすぐの時も、広斗は眠れないとき、同じ部屋の自分ではなくて(※妄想です)、こっそり寝室を抜け出して、尊龍の元へ行っていたのを知っていたから(※妄想です)、そしてそれを、寝たふりをしながら複雑な想いで見送っていたから(※妄想です)

今お前を抱き締めている男は、俺じゃなくって、兄貴=尊龍 だと思って縋ってくれていいから、というつもりで言っているのだけど、

広斗は、最初意味を取り違えて、「…兄貴だろ?」と怪訝に返すのである。

文字通り、兄貴=兄 という解釈。

でも、深奥にある雅貴の思いとしては、もしかすると本当はそっちの意味だったのかもしれない、俺のことを、兄貴(=お兄ちゃん)だと思ってくれよと、俺だってお前の兄貴(お兄ちゃん)なのに、って言えたらいいのに。

(話がややこしくなってきたな…伝わりますこれ?)

 

というトライアングル・ラブストーリーを、是非、二重の意味を持つ「兄貴だと思えよ」という台詞で体現してほしい。

 

【2017年8月22日追記】

新作ザム2は本当に心底雨宮の腐女子歓喜映画だったんだけど、広斗⇒雅貴の呼び方が「おまえ」にグレードダウンしてて笑いましたね、お兄ちゃんって言ってあげて…笑

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

【2017年9月3日追記】

雨宮広斗のキャラ解釈についてはムゲンに考えられる…

barakofujiyoshi.hatenablog.com

  

 

 

以上をプロットに全て入れ込んだ妄想二次創作…

 

 バイクを飛ばさずに自分の脚でゆっくりと歩いてみるとごく近所のはずの街はいつもと全く違って見えた。
 気が付かなかった狭い路地、従業員募集時給1000円のチラシ、20年前くらいのセンスの女が写る“成人式着付できます”理容室のポスター、灯りはついているが人っ子一人いない24時間営業のラーメン屋、細路の暗闇に吸い込まれるようにどんどんと歩いていくが徒歩じゃ周りの景色が後退していくスピードが遅すぎてうんざりする。早歩き、早歩き、ずんずん、ランニング、夜を振り切るように駆けていくと、右の小路から出てきた女とぶつかりそうになる。女は一瞬ぎょっとした顔をして早足で通り過ぎていった。スマホを取り出すと待ち受けの時刻は午前三時、雨がはらはらと落ちてきた。
 あと2時間は東へ走り続けないと、朝は迎えに来ない。


 せっかく雅貴をエンジン音で起こさないようにバイクに乗らずに出るようにしていたのにある夜、夕飯食ってる最中、そういえば今シーズンの月9なんだっけくらいのノリで、
「最近広斗さあ、どこ行ってんだよ、夜中」と雅貴は俺に訊ねた。
 俺は皿の上のサーロインステーキを切るのに苦心している風で目をあげないまま、別に、と言う。でもその答えは九割方正しい、別に。別にどこにも行っていない。何となく眠れなくなって辺りをふらふらと徘徊してみているだけ。
 雅貴は、煮え切らない俺の返事に一瞬むっとした顔をしたが、ぴんと“ひらめいた風”に目を見開く真似をすると、
「あっ、さては、女だろ!? 広斗、まさかお兄ちゃんを差し置いて女作ったな!?」と身を乗り出すようにした。
 こういうところだよ、と思う。本当はそんなこと考えてもいないくせに、もっと言いたいことがあるくせに、こういう言い方をすれば俺が嫌がって否定すると思って、わざと茶化すようなことを言う。如何にも今閃いたみたいな演技をしているけれど、この話をどのように切り出そうか、きっと前以てシミュレーションしていたくせに。雅貴のシミュレーション通りに否定してやるのも癪だから、
「かもな」と話に乗ることにする。
「へえええ……」自分で切り出したくせに雅貴の表情はやや歪む。「綺麗系? 可愛い系? 芸能人でいうと誰似? 夜中にコソコソ会ってないでさ、一回家連れてこいよ」
「……うちだとヤれないし」
「はあ? 女と会うからって、別にいつもいつも、会う=ヤる じゃなくたっていいだろ!」
「男女の間にはエロい関係しかないっつったの雅貴だろ」
「そこまでは言ってない」
 収拾のつかなくなった実体の無い話題は食卓の間でナイフのカチャカチャという音に消える。ふうん、つまりは、と雅貴はもうとっくに肉は切れているのに右手を動かし続けながら言った。「広斗くんの青春のためには、俺は邪魔者ってわけだ」
 自虐趣味。そんな傷付いた顔をするくらいなら口に出さなきゃいいのに、と思ったけれど、そうではなくて、ただ俺に否定して欲しかったのかもしれない。傍にいて欲しいって言わせたいのかもしれない。実際問題、二人とも口に出さないようにしているけれど、現在の俺たちにとって、そのことは一度きっちりと向き合わないといけない話題なのであった。すなわち、何となく、ずっと一緒にいるのが当たり前だったし俺達はいつも“雨宮兄弟”で一セットだったから別に意識したこともなかったけれど、ある日突然消息を絶った兄貴が、思わぬ形で“見つかった”今、つまり、兄貴を探す、という目的を不幸な方向に失った今、なお、俺たちが仕事以外で、こうしていつまでもべたべたと行動を共にする意味があるのかという。意味と目的のなく手持ち無沙汰な日々は、雅貴を、“料理に凝る”という方向に突き動かしたらしく、こうしてステーキを焼いたりしているけれど、目の前の対象物に向かって手を動かし続けるみたいな行為は、たぶんに考え事をするのにうってつけで、つまりは、別に考えたくないことをうっかり思い出してしまうのにぴったりで、ゆえに不安を捨て去らないといけないときには向かない。
「……っておいっ、ブロッコリーこっちに移すなよ!」
 存在意義の分からない野菜たちを、雅貴の皿に避けて行くと、彼はいつもの調子をやや取り戻した。「聞いてんのか広斗っ」という声が背から追いかけてくる。


 ベッドに横になり頭は覚醒したまま寝返りをうち続けて数時間。自分がこんなに情けない人間だとは思わなかったけれど、兄貴の死を目の当たりにして以降、たまに寝付いても、銃弾、銃弾、銃弾の悪夢なんか見てはっと目を覚ますようになってしまって、眠るのがすっかり怖くなった。暗闇で目を閉じても、銃弾に打ち抜かれて倒れた兄貴の最期の姿が頭から離れなくなるし、眠ったら眠ったで、今度はもっと、現実以上にクソ最悪な夢が襲う。教会の地下で兄貴と雅貴が上園会の奴らと殴り合っている。自分も戦わねばと思うが身体は全然動かない。俺は石像のようにそこから一歩も動けないまま兄貴たちはついぞ二人共倒れてしまう。兄貴たちのところに駆け寄りたいのに、動け、動け、と思うのにやはり動けない。うつ伏せになった二人の頭からは血がどくどくと流れ続ける。その赤黒い血が俺のところまでつーっと流れてくる。ふ、と何かが立ち上がる物音がする。見ると、一度死んだはずの兄貴と雅貴が頭をミンチみたいにさせたまま俺の方を睨んで立っている。何故か右手には銃。「お前は何もしなかった」と兄貴が呪詛のように呟く。「お前のせいで」と雅貴もそれに続く。「お前は何もしなかった」「お前のせいで」「お前は何もしなかった」「お前のせいで――」言葉は壁々に反響し轟音のようになり、轟音はいつしか銃弾と化し俺の身体を次々に貫いていく。でも俺はいつまでも倒れられない。許してくれと泣いても永遠に死ねないまま俺を強く睨む二人の表情から目を逸らせないまま銃弾が四方から貫き続ける。そのうちにあまりにも撃たれ過ぎた俺の胴体には、大きな穴がぽっかりとあく。どういうわけか、俺はその穴の向こうを自分で見ることができる。穴を覗くと、また教会の地下で二人が上園会の奴らと対面しているシーン。その繰り返し。
 あるいは、死んだはずの両親と兄貴の3人が、楽しそうにサッカーのようなことをしている。俺は中学生で、雨宮家に来たばかりの頃のようだ。自分も混ぜて貰いたくて駆け寄ると、兄貴が笑顔で手を振ったあとボールを足でパスしてくれる。しかしそのボールはよく見ると上園の首だ。野原は首を蹴り続けた跡の血で汚れている。俺は驚いて、こんなものは蹴られないと言う。両親と兄貴は、微笑んだまま、「どうして? 俺たちの敵なのに」と首を傾げる。ほら、早く広斗も蹴らないと。無理。蹴って。無理だって。蹴りなさい。どうしちゃったんだよ皆。「広斗」と、後ろから声が聞こえる。振り向くと、現在の年齢の雅貴が立っていた。俺はほっとして、しきりに、皆がおかしいことを訴え、雅貴に説得の助太刀をしてもらおうとする。雅貴は無言でそれを聞き続けると、目線を俺から3人の方に移し、「そうか」と言う。「それなら、広斗がこれを蹴られないっていうんなら、広斗はボールとして参加してもらえればいいんじゃないかな」
 そうね、そうだ、いい考えだ。4人は俺を押さえつけ、チェーンソーで首を――
 
 「広斗」
 はっと目を覚ますと電気のついた明るい部屋で雅貴が俺を覗き込んでいた。
「お前、大丈夫?」と、頭を触ろうとする手を、先程の夢の名残で、思わずバシっと払い除けてしまう。
「すげえうなされてたけど」雅貴は俺に拒絶されて宙ぶらりんになった手を、もう片方の手で包み込むようにした。
「………」まだ頭が夢と現実の境界線を彷徨っていて、雅貴の言葉にすぐには反応できない。
「怖い夢でも見たか?」
 俺が起き上がって、着替えるためにクローゼットを開けても、まだ雅貴は立ち去ろうとせず、そんな言葉を投げかけてくる。茶化しているのかと思ったが、表情は至極真面目なそれであった。俺は、お前の怖い夢だとも言えず押し黙る。現実の雅貴はいつもちゃんと、優しい。いつも優しいのに、俺は何故あんな夢ばかり見てしまうって、どちらかというと、自虐趣味は俺の方なのかもしれなかった。後悔なんてセンチメンタルは全て拳で吹き飛ばしてきたはずなのにやはり、もしかしたら違う結末があったかもという気持ちをきっと心の奥では捨てきれていないのだし、そういう自責が別の人物に仮託される形で悪夢を生み出しているのだろう。わかってはいるのだ。兄貴が死んだのは俺のせいなんかじゃないし、そんな風に思ったら自分でやりきれない憎悪の清算つけようとした兄貴に失礼だし、雅貴はそんなこと言わないって分かっているのに、頭で分かろうとしていることと、感情の深奥で“思ってしまう”ことはやはり違う。でもそうやって、“思ってしまう”ことが、その思いでこんなボロボロになっていることが、「正しくない」のは分かるから、俺はちゃんと強く生きる姿を見せ続けねばならない。
「あー怖かった怖かった、ペットセメタリープラス、ロメロのゾンビって感じの」
「…………」なんだよそれと笑うかと思ったのに、雅貴は深刻そうに俯いたままだった。「広斗さ……寝れないんなら、俺のとこ来ていいんだぞ」
「はっ、ガキじゃあるま――っ」腕を引かれ雅貴の方を向かされ、ぎゅっと抱きしめられるような形になり、俺は驚いて身を引こうとする。でも雅貴は俺の腰を抱き寄せ離してくれない。
「そうやって強がってるけど、自分が思ってる以上にボロボロに見えてんの、分かってる?」
「――――」
 急に身体を寄せられた驚きと照れととっくに見抜かれている羞恥で、体温そして呼吸数があがる。
「……まあでも、そうだよな。ごめんな」
「何がだよ」
「お前は、兄貴が撃たれたとこ、見てんだもんな。ごめんな広斗一人だけに背負わせて――」
「っんだよそれ!!」
 雅貴の胸をどんと押し、彼の身体から逃れる。自分の中から言うな言うなと止める声はするのに、言葉は止まらない。
「俺は、そういう、雅貴の、“自分は傷ついてる”芸が鬱陶しいから、自分はお前に同じことやらないように精一杯普通のフリしてるんだろうが」
「――広斗、俺は別に」
「ほら、そういうさ! そういう顔すんの、そういう顔して俺のこと追い詰めんのやめろよ!! ちゃんと言えばいいだろ、お前なんかより俺の方が傷ついてるって、お前のせいで」
 違う。あれは夢だ。すなわち、彼ではなく「俺が」思っていることなのだ。違う。違うのに。俺は、「違う」って言って欲しいのか?
「何が、ごめんなだよ、お前のせいで、自分は兄貴の死を背負えなかったって言えよ! 何でお前なんだよって、ほんとの弟は俺なのにって――っっ」
 頬に鈍い痛みが走る。唇の端が切れたのか生暖かい液体がつつと肌を流れた感触で、殴られたのか、とようやく認識をする。雅貴と一緒に数多の人間を殴ったり蹴ったりしてきたが、「雅貴に」殴られたのは、初めてだった。驚きで、じんじんと熱を持った頬の下をつたう血を拭うことも、いつも誰かにやられたときに反射的にそうしてしまうように、殴り返すことも忘れる。
「まだそんな風に思ってんのかよお前は」震える拳と声で、雅貴が本気で怒っていることが分かる。あるいはそれは失望なのかもしれない。俺はどうして、自分が、自分の方が一番雅貴に捨てられたくないくせに、自分が罪悪感から逃げるために雅貴をもっと傷付けるようなことを言ってしまうのか? ガキ、ガキじゃあるまいしって言ったけれど、ぜんぜん、ガキ。
「……分かってるよ、俺じゃ“兄貴”になれないんだろ」

 

【続き一年越しにようやく完成したのでpixivに全文載せときました。絶対こっからあのほのぼのアイスシーンに繋がらんやろって出来になってしまった。】

www.pixiv.net

 

【作画監督が】最強で最高のトライアングル・ラブ(男同士の)―HiGH & LOW THE RED RAIN 感想【優秀】

兄弟のトライアングル・ラブストーリーとして&登坂広臣のアイドル映画としては1億点 

 

www.youtube.com

 

 

 前回の劇場版ハイローで、まんまと、広斗×スモ―キーや、マイペースな広斗に振り回されまくる兄・雅貴の、「お兄ちゃんの話を聞きなさい!」に見事ずきゅんとやられた結果(↓前回のアツい感想)

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

これまで、何となくいいタイミングで神出鬼没に現れかっこよく戦っていくだけだった雨宮兄弟の背景が遂に明かされるスピンオフである、「HiGH&LOW THE RED RAIN」も、これはもう絶対観に行かねばと、全くEXILE TRIBEファンでもないくせに初日に映画館へと足を運んだわけですが、Twitterで延々雨宮兄弟について書きまくったにも関わらず、まだ、語りたいこと&妄想したいことが山ほどあるので、とりあえず結論を先に言っちゃいましょう、

 

登坂広臣のアイドル映画としては1億点!!!! 序盤、中盤、終盤 作画に隙がない

 

②雨宮兄弟を、不在の長男を中心に据えた「三兄弟」の設定にした人には拍手喝采を送りたい!!!

 

③前作に続いて、ハイロー制作陣は、「男同士のトライアングル・ラブストーリー」があまりにもうますぎる

 

 

無論、先に断っておくと、相変わらず、脚本や演出の穴や難、ツッコミどころは100億個くらいある映画ではある。

「それどういうことだよ!?」とか話の進行にいちいち口を挟んでいたら本当にキリがない(ので言わない、ストーリーの話もしない)、

しかも、ストーリーのドラマ性とか整合性とかリアリティとかは完全に置いておいて、ひたすらアクション、画面のかっこよさ、キャラクターが一同に集結するグルーブ感、プロレス感、ライブ感で何となく盛り上がった気になった「THE MOVIE」と打って変わり、良くも悪くも、「物語性」と「普通の映画」の完成度を求め、半端なリアリティと、日本社会や政府など「SWORDの外」のあり方、そして初めて、「外から見たSWORDの相対化」を追求し、「世界から見ればお前らのセカイはちっぽけである」ことをある種話のテーマにしてしまったので、前回の突き抜けた「セカイ系」感(主人公たちの愛が世界を救う)が無くなり、

けどそうやって政府とか組織とか法案とかいんたーねっととか(この“いんたーねっと”のあり方も雑過ぎ)とか出してくる割には、設定や脚本やドラマパート演出に難がありすぎるので、別に真相追求ミステリーやクライムストーリーとしての面白さは皆無、文字通り、「皆無」、

全てを、「なんかかっこいい」で押し通すものの、お馴染み、「回想」を挟みまくるので超超絶絶にテンポが悪く、そのテンポの悪さによって観客の心の盛り上がるタイミングを挫きまくり、

しかも、アクションやバイク爆走や贅沢な爆発や雨宮兄弟の作画のかっこよさにEXILE TRIBEの「音楽」が全く追いついていない、率直に言うとクソダサい、BGM曲のボーカルが始まった途端にズコーーーーっとなるレベル、

そして何より、そもそもの長男の行動原理がマジで理解不能というのが痛い。

 

弟を巻き込みたくないってさーそんなの突然何も言わずに消えたら心配して探し回るに決まってるしさーー生活環境近いんだから探し回る過程で巻き込むことになるのは予想できるわけでさーー巻き込みたくないならせめて、いなくなることに納得できる理由とアリバイ作ってから消えろよっていうかさーーお前、弟たちがどんだけ必死でお前のこと探したと思ってるんだよあとまた突然失踪したせいで女の子も超危険に晒してるしさーーってか取引ってなんだよUSBと何を(??) 相手は容赦なく殺す奴だし集団なんだから蜂の巣にされるだけやん勝算は何だったんだよ、

ってかそもそも、その割と自己中なヤンキーの美学的自己犠牲精神、前作であんなに琥珀さん殴って劇中で否定されたやつじゃなかったのかよなーーまずお前が強く生きてくれよーー

 

……でもいいんすよ、そんなことは!!!!

そんなことは、こんな濃い男同士のトライアングル・ラブストーリーの前には、些細なことである!!!!

雨宮兄弟は一体何して食ってんだ問題に回答が与えられ、二人が同じ屋根の下で暮らしテレビのリモコンを取り合っている生活風景や(20歳を超えているくせに「うっせーな」とか反抗期バリバリっぽい広斗、それに対し、「広斗くん、兄ちゃんを無視するな!」と憤る振り回され系雅貴、端的に言って最高)、アイス食べさせあいながらいちゃついているシーンだけでもう観る意味があるが、

この映画の最重要価値は、EXILEグループが、「男同士がいちゃついていると女どもは喜ぶ」という事実に気が付いてしまった上で過剰にサービスをしていることと、HIROさんが(←?)「登坂広臣」の最高の使い方・魅せ方を発見してしまったこと、雨宮広斗という最強の末弟キャラを生み出してしまったことにある。少なくとも私にとっては。

一方で、後に詳細を述べるが、なおかつ、語るべきこと、妄想すべきことは、「兄」でもありながら、実は「弟」でもあった、真ん中っ子の、“次男”の立ち位置にあると思っていて、この、兄弟の設定と配置と<ドラマ>性が、ほんとーーに絶妙なのである。

相変わらず、ハイロー制作陣は、トライアングル・ラブストーリーが上手い。

 

 前作、「HiGH&LOW THE MOVIE」は、「今は亡きタツヤさんの影が離れない琥珀さんに、愛は自分の方に向いていないと分かっていながらも、それでも彼のためになれればと黙って寄り添い続けた九十九さんが、最終的には、何とか琥珀さんを自分の方へ必死で振り向かせようとするトライアングル・ラブストーリー」であると先の記事で述べたが、

RED RAINも、一応、スパイス的にというか雨宮兄弟のかっこよさを引き立たせるためだけにヒロインらしき若い女の子は出てくるものの、重要な戦いのシーンでは「邪魔だから」と(マジで邪魔って言ってる)完全に蚊帳の外かつ、女の子が、広斗のバイクに二ケツするためにつけたピンクの補助席らしきものも、物語後半では、おそらく画面的にカッコ悪いという理由でいつの間にか無かったことにされ、挙句の果てに、トラウマレベルの酷いことが起こった後も特にアフターケアも無しに放っぽり出され(雨宮兄弟が見つめ合いながら帰っているだけ)、

ラストは、雨宮次男と三男が、棒アイスを食べさせ合いながらいちゃついて終了

という、相変わらずの、「俺たちの世界に女はいらねえ」、腐女子並の強い意志による、男同士の濃ゆいラブストーリーが展開されている。

 

後で詳細を述べるけれど、この、男同士のラブストーリーが、単なる、雨宮雅貴と広斗の二人のみで進行しているものならば、もちろん、萌えはするけれど、ここまで私は語りたくならなかったと思う。

けれど、ここに、「不在の中心」である長男を据え、かつ、三男の広斗は、一人だけ血の繋がらない、「突然出来た弟」であるという設定が加えた三者関係としたことが、

すなわち、「二人」(尊龍と雅貴)だったものが、「三人」になり、また、べつの「二人」(雅貴と広斗)になったということが、

 それぞれの関係性と妄想の余地に深みをぐっっと与えているのだ。

 

※以下ネタバレ有

 

 

「兄」でありながら「弟」でもある次男の焦燥と哀しみ 

 

先程、この映画の価値は、「登坂広臣」の最高の使い方・魅せ方を発見してしまったこと、雨宮広斗という最強の末弟キャラを生み出してしまったことにあると書いた通り、個人的には、何かというと、「うっせーな」「くせーこと言うな」、ツンツンツンデレで、まだ反抗期みたいな物言いをし、マイペースに主に雅貴を振り回し、でもやはり重要なシーンでは、兄ちゃんに縋り、号泣する雨宮三男の三男ぷりに心をズキュンとやられたので、キャラクターとしては広斗を推しているのだけど、今作は特にいい三男っぷり。

そして、序盤、中盤、終盤、作画に全く隙がない。どえらい男である。

 

映画公式のあらすじに、感情をあまり表に出さない広斗、みたいな説明があったけど、別に全然そんなことはなくて、そのぶっきらぼうな感じも末弟だからこそ(本気では怒られないからこそ)のある種甘えなわけだろうし、雅貴よりもむしろ、ぜんぜん自由に率直にキレたり怒ったり泣いたりしていると思う。一見、ひょうきん、感情豊かに見える雅貴の方がやはり全然大人で、広斗ほどそのままに本来の気持ちを表示していないシーンが結構あるわけ(この点は結構重要)

 

レッドレインでは、長男がいる分、そういう末弟っぷりが際立っていたし、兄ちゃんたちに可愛がってもらったり、後半、ヤクザ達の銃撃のときも、まず部屋の入口で雅貴が広斗をさりげなくかばっているシーンがあるし、続いて尊龍にも守ってもらっているあたりも萌えである。

しかし、本作でむしろ考えたいのは、というか考えさせられたのは、次男の方だ。

だってこの次男、あまりにも不憫じゃないですか?? 私自身は三人兄弟の一番上なので断定的なことは言えないが、真ん中っ子が見たら泣くよこれ。真ん中っ子号泣映画だよこれ。

 

レッドレインは、どちらかというと、「広斗」と「尊龍」の物語に寄っていて、<肝心な時>に、次男である雅貴はほぼ蚊帳の外であるという場面が二回ほどある。

<肝心な時>というのは、言ってしまえば、大事な家族が死んでしまったとき、つまり最重要場面と言ってよかろう。

両親の自殺を知って、取り乱し泣き叫び、「血もつながってないお前なんかに何が分かる」「こんな家来なきゃよかった」「犯人殺して俺も死んでやる」と罵倒する広斗を、宥め、説得し、兄弟間の絆を深めることに成功したのは、長男である尊龍の方だ。

この二人が各々の気持ちをぶつけているとき、次男の雅貴はほぼ突っ立っているだけ、完全に会話の外側である。かろうじて、最後の、俺ら最強の兄弟だぜみたいな、各々の拳を寄せ合う場面で、自分も拳を合わせているくらいなのだ。

 

そして、兄である尊龍が、ヤクザの銃にやられて相撃ちで死んでしまったときも。

ここに至るまでのシーンで、尊龍の傍にずっと付いていたのは広斗の方である。雅貴は、逃げたボスを追って、銃撃部屋の外にいるので、この場面でも不在だ。

長男の戦いを見届け、想いをぶつけ合い、兄の気持ちを受け継ぎ、その死までの残り儚い命の中で、兄の思い出を回想し嘆き哀しみ、「兄貴」と叫び続けるのは、広斗であって、雅貴は最後の最後で駆けつけるものの、今度は、雅貴が合わせようとした拳はついに重ならないまま、尊龍は息を引き取ってしまう。

 

この二つの類似場面は、雅貴にとってそれぞれ同じような、しかし別の意味を持っていると思う。

すなわち、一回目は、「兄になれなかったこと」の、二回目は、「弟になれなかったこと」ことの暗喩

本作で、雅貴は二重に、救われていない。

 

ここにきて、広斗に無視されたり振り回されては、「お兄ちゃんの話を」「お兄ちゃんを無視するな」と雅貴がやたらと兄ぶりたがっていたシーンが非常に生きてくる。

これはたぶん、広斗にとっての「兄貴」は、尊龍であることを、尊龍でしかないことを、ずっと身に沁みて生きてきたからなのだろうと思う。それは、中学生のとき、母の再婚で慣れない環境に於かれ、荒れて反抗心バリバリだった広斗を家族に慣らし、心を開かせていったのは尊龍であることを、

「広斗の扱いは、兄貴の方がうまかった」

とモノローグしていることからも伝わってくる。兄のように、「兄」になりたくて、でもなれなくて、だから、必要以上に、兄貴ヅラをしてしまうのだ。

 

もちろん、それは広斗が雅貴を信頼していないというわけでは全然ない、二人の間に強い絆はある、けれどどちらかというとそれは、「弟仲間」としての絆であるという印象を受ける。実際、弟仲間として、二人はしつこく兄を必要とし、探す。

で、記憶違いだったら申し訳ないが、広斗は少なくともこの映画の中では、一回も雅貴を「兄貴」とは呼びかけていないはず。

 

でも、よくよく考えてみると、兄である一方で、「弟」でもある雅貴は、本来、広斗の存在って結構複雑に思うはずなのじゃないか。

自分ひとりだけが、尊龍の「弟」だったところに、突然、手のかかる「弟」ができ、兄の気持ちと面倒見はそっち(広斗)の方に向かってしまうわけだ。兄は広斗を構い始める上、絆のようなものを二人で深め、キャラクター的にも、本来、血が繋がっていないはずの尊龍と広斗の方が似ている。

広斗は、尊龍がいなくなって自分一人で勝手に色々進めていたことについて、「そんなに俺たちのことが信用できねえのかよ!」とかキレていたが、自分だって、前作では雅貴を完全に放って、雅貴が探しているかもとか全然考えもせず、自分一人だけでどんどん色々と話進めていたじゃないかと思う。あんま人のことは言えない。そういう、自分勝手さ、かつ肝心な尻拭いは他の兄弟がやる羽目になる振り回し気質は、尊龍と広斗の方に共通しているものだ。

そして、尊龍のある行為ー泣きそうなヒロインに向かって「壁だと思え」と抱き締める、も、引き継いだのは、広斗、兄の想いを継承したのは広斗であって、最初から弟だった、かつ、血の繋がった弟である雅貴ではない。

 

劇中には描かれていないけど、そして、「描かれない」というところこそが肝なのだけれど、これって、雅貴の気持ちを考えると、雅貴にとっては、結構、悔しいことだと思う。

広斗のことを、邪魔だと思っても、別におかしくない。ほんとの弟なのは自分だったのに、と妬んでもおかしくない。

 

 

それでも、「それでも」、そんな気持ちや態度は出さずに、雅貴は「兄」になろうとしていたのだ。なろうとしているのだ。

それでも、広斗の「兄」になろうとしてあげているのだ。

 

それなのに、そんな雅貴の涙ぐましい健気さをよそに、「RED RAIN」では、「兄」にも「弟」にもなりきれない。

だから「RED RAIN」は、誰よりもいちばん、次男にとって残酷な物語であるのだし、「三人兄弟」であるという設定が、これ以上なくドラマと背景に機能し、奥行を持たせている所以である。こんな残酷で素晴らしいトライアングル・ラブストーリーを生み出した時点で、他のダメ要素や脚本の破綻、演出のダサさなど、全然些細な問題である。

 

とはいえ、抽象的な言い方だが、私は、本作で、「描かれていない」けれど直接は描かないことでこれ以上なく「描かれている」、雅貴の気持ちと状況を思うと、もう本当に本当に不憫で仕方がない。先述の通り、この不憫さこそが、この映画の素晴らしさではあるのだが、

まあでも、次作ではちゃんと雅貴を、救済してあげてくれているといいな、というのが、「HiGH&LOW THE RED RAIN」を観たあと真っ先に思った一番の想いだ、せめて広斗、雅貴を「お兄ちゃん」って呼んであげて。

 

 

鑑賞日:2016年10月8日(土)

 

【補完妄想↓】

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

いのち短し読んでよ乙女

自分はそんなに、文学少女っていうキャラではないし(そもそも23歳なので既に少女ではない)、読むものも、青年漫画とか男性作家の方が多いのだが、しかし一年に一回くらい、実は幼少時に「なかよし」や「りぼん」で育った、普段ひた隠しにしている乙女心にクリーンヒットする作品に出会ってしまうことがあって、中でも特にお勧めの<少女本>3冊を紹介したいと思ふ。

 

 

第七官界彷徨尾崎翠 

 

はい、鉄板っすねもう。鉄板です。これを読まずに文学少女名乗る奴はヤブです。

少し前、紀伊國屋書店だかが、「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」フェアみたいなことをやって炎上していて、確かにあの、若い女なんてどーせ東野圭吾とか村上春樹とかしか読んでねーだろ俺様がもっとイイ本教示してやるよ的上から目線は、そら炎上するわなって感じではあるが、

 

www.buzznews.jp

 

しかし、このフェアのラインナップの中に、『第七官界彷徨』があったというのは、哀しいかな、結構共感してしまうというか、もし私が男で周りにこれを読んでいる美少女か美少年がいたら確かに一発で好きになってしまう、いや気持ちは分かる、分かってしまうんだ…確かに私にとっても美少女か美少年に読んでいて欲しい本ナンバーワンなんだ…

 

もうまず、タイトルが超いいじゃないっすか文学少女の心くすぐる感じじゃないっすか『第七官界彷徨』って。

 しかも、書き出しもめちゃくちゃいい。

 

 “よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。”

 

 「変な家庭」―この作品で描かれる舞台設定と登場人物は、皆どこか奇妙である。人間の第五感そして第六感を越えた、「第七官」に響く詩を作りたいと思っている町子は、兄や従兄の住む家へ、炊事係として住み込むことになる。この家では、皆それぞれが何かを勉強していて、分裂心理が専門の精神科医の長男、蘚(こけ)の研究で、部屋を蘚と肥料であるこやしまみれにしている次男、そして音楽学校への入学のためにピアノをかき鳴らし歌を唄う従兄。

何でもかんでも、「分裂心理」のせいにしてしまう長男や、蘚の“恋愛”と自分の失恋とを組み合わせたどうにも文学的な論文を書く次男、次男のこやしのせいでろくに練習ができないと始終文句を垂れる、微妙に駄目っぽい従兄たちの、おかしみのあるキャラクターや、台詞の応酬も独特で面白い。

そして、少女の恋――長男の三角関係のライバルである柳浩六氏の元へ、使いを頼まれた町子は、柳浩六氏から、ドイツだかフランスだかの、外国人の美人の詩人に、似ていると写真を指差されるのである。

それだけか、といったらそれだけなのだが、「それだけ」なのがこの小説が非常にロマンチックで素敵な所以ではないですか。少女の恋は斯くあるべし。

 

第七官界彷徨』は、冒頭もいいが物語の締めの文章も非常に情緒と趣があって素晴らしい。

ネタバレが作品の価値を損なうタイプの話ではないから、引用してしまおう。

 

 

 「僕の好きな詩人に似ている女の子に何か買ってやろう。いちばん欲しいものは何か言ってごらん」

 そして私は柳浩六氏からくびまきを一つ買ってもらったのである。

 

 私はふたたび柳浩六氏に逢わなかった。これは氏が老僕とともに遠い土地にいったためで、氏は楢林の奥の建物から老僕をつれだすのによほど骨折ったということであった。私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋に釘にかけ、そして氏が好きであった詩人のことを考えたり、私もまた屋根裏部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩であった。そして私は女中部屋の机の上に、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。しかし、私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もいなかった。彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。

 

別に、好きだとか想い人が遠くへ行ってしまった悲しみみたいなものは一言も書いていないけれど、確かにこれ以上ない「ひとつの恋」だ、ということがじわりと伝わってくる描写と、「彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。」という文章を一番最後に持ってくるセンス。

少女の恋は斯くあるべしと共に、少女文学は斯くあるべし、である。

 

 

『八本脚の蝶』二階堂奥歯 

 

言ってしまえば、山田花子『自殺直前日記』 とか南条あや『卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記』的、若くして自殺した女性の<死に至る日記>文学ではあるのですが、確かに後半はかなりメンヘラ臭が酷くなる(しかも、死にたくなった理由は明記されていないからよく分からない)とはいえ、別にこの著者が亡くなっていなくてもこの女性は、多くの文学少女にとって非常に素敵な、魅力的な人に見えるのではないかと思う。言い方は非常に悪いが、死ななくても普通にぜんぜん、カリスマなのだ。少なくとも私は、「こんな人になりたかったなあ」と素直に思った。

20代前半とは思えないほどの読書量と知識、ボルヘスなどの幻想小説や哲学書を語る一方で、現代アートや、未来世紀ブラジルのような映画や押井守などのアニメにも言及する。

息をするように難解な文学を自分のものとして取り込み広く深い知識がありながら、ファッションにもこだわりを見せ、グッチ、ヴィヴィアン、といったブランドの店に当たり前のように行けるお洒落さ、更にコスメにも詳しいときている。

 

 美人でお洒落ででも文学や哲学にどっぷり浸かった乙女で、更に文芸書の編集者として出版社に勤めていて、というだけでもううっとりするくらい敵なし感満載であるが、

 

「同性愛を描いた作品について、男性同士のものは、ゲイがゲイのためにゲイを描く“ゲイ小説”と、非ゲイが非ゲイのために非ゲイを描くつまりファンタジーとしての“ボーイズラブ”の二種類あるが、その意味では、女性同士の作品というのは、“ガールズラブ”しかほとんど存在していないのでは」というような批評眼、

はだしのゲンで、小さな子が原爆にやられた母親を見て、こんなお化け知らないと逃げてしまったシーンを読んで、自分が、愛する血みどろの相手をお化けだと助けられないのは嫌だと、意識的に死体やグロに慣れるようにした」(⇒八本脚の蝶 ◇ 2002年7月8日(月)その2)

「自分は幼い頃、自分が見た映像は写真のように切り取られ、異星人か神様、宇宙人にいつか“地球の風景”として送られるという設定を持っていた」(⇒ 八本脚の蝶 ◇ 2001年11月5日(月))

というようなエピソードから滲み出る卓越した個性、

更に、至るところで言及され、全日記を通じた一種の底のようになっている、フェミニストでありながらマゾヒストであるが故の、分析と着眼点も見事である。

 

そうして、著者の卓越なる感性と知性、文学少女のお手本・理想像を彼女の遺した文章に見ることのできるほか、著者は非常に文学に造詣が深いので、単純に、イアン・ワトスン『オルガスマシン』 、フョードル・ソログープ『小悪魔』 、ジョルジュ・ベレック『人生 使用法』 などなど、ブックガイドとしても楽しめる。っていうか、99%くらい、知らなかった本しか出てこない。

 

 この本を出そうとした出版社での企画会議の段階で、彼女に才能と文章力と魅力があるのは間違いないが、彼女に傾倒して自分も命を絶つ人が出て来るのでは、と心配された、というのもさもありなんではあるが、せめて二階堂さんくらい本を読んでから死ななきゃね、とも思うわけである。

 

 

『こちらあみ子』今村夏子 

 

この10月の時点で既に、私的「2016年読んだ本の中で一番打ちのめされた小説」ベスト1位(一番面白かった、とはまた違って、打ちのめされた、である。いや勿論面白いのだが。「打ちのめされた」というのは、“こんなの書かれたら、こんな凄まじい作品が出て来ちゃったら後の人はもうどうしようもないよ!!”という意である)が決定している作品だが、また同時に、「2016年で見た中で一番あらすじで損をしているような気がする小説」ベスト(ワースト?)1位でもある。

ちくまが最近力を入れている、獅子文六とか三島由紀夫とか最近だとチャールズブコウスキーとかの、読みたくなる「発掘帯」なんか、非常に巧い商売だなと思ったりするし、『こちらあみ子』の帯コピー

 

文学界にまだこんな隠し玉があったなんて……

このズバ抜けた才能

本当は誰にも教えたくなかった!

 

 これもなかなか読みたくなるものだが、この帯に惹かれて、あらすじを読むと、こう。

 

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。

 

 これだけ読むと、なんつーか、言ってしまえば、「となりのトトロ」みたいじゃないですか? 無垢な少女と彼女を見守る大人たち、ジブリの夏の風景をイメージしませんか?

 

いや、わかる。「Dressing Up」が好きな人間より、ジブリが好きな人口の方が一万倍くらい多いことは分かる。分かるが、『こちらあみ子』は、このあらすじからイメージされるジブリ臭からは全然程遠い、こういうまとめ方にはやや語弊があるにせよ、割と超絶鬱小説なんである。

無垢で純粋で少し変わった少女を周りが暖かく見守り、少女のそんな善意が周囲を自ずと変えて行く、みたいなハートフルストーリーではなく、周りとずれているので邪険に&馬鹿にされまくっている少女の善意が周りに悲劇と家庭崩壊を引き起こす話である。

 

まさに、「地獄への道は善意で舗装されている」物語なのだ。

あみ子は確かに、非常に無垢で純粋な人間ではある、というか言ってしまえば知的に障害がある子だ。自分の行動がおかしくて、周りにいじめられたり馬鹿にされているのにも、気付けない。好きな子にもほぼ無視される。それでも、小学校までは、何とかいわゆる「幸せな家族」のようなものができていたけれど、あみ子の、悪意のない、というか彼女的には100%の「善意」であるところの、“純粋”なある行動によって、母は鬱病になり兄は不良化し、とうとう、あみ子は一人、祖母の元へと追いやられることになる。

こういう鬱小説を単なる悲劇譚として描くことは容易だが、この著者が凄いのは、これを、周りとずれている、そして、悲劇を悲劇として全然理解出来ない「あみ子」の視点で描き切っていることだ。しかも、それはただ、あみ子がよかれと思って起こしたものであるというのが物語の怖さとやるせなさを増す。

小学生のときあみ子から貰ったクッキーが実はクッキーでなかった(チョコクッキーだったのを、チョコだけあみ子が舐めとっていた)のを、幾年か越しに気が付いてしまった、のり君(あみ子の想い人)が、「どう思った」のかは直接書かれない。あみ子は何故自分がのり君に殴られたのか最後まで理解しない。母が何故心を閉ざしたのか、母がどう思ったのか、も同様である。

それは、ただ“行為”と“結果”として書かれる。しかし、そのことによって、あみ子が周囲にもたらしてしまったものの帰結が残酷に浮かび上がる。

 

更に、タイトルである『こちらあみ子』は、トランシーバーで呼び掛けるときの掛け声を指しているが、本文中にも登場するこの「トランシーバー」が、物語のテーマとこれ以上なくぴたっと合致する最適のメタファーになっているというのもよい。

普通の常識とか倫理感みたいなものが、どうしても分からないあみ子のことを、周りは次第に、「諦めて」いってしまう。

学校に行かなくても、勉強ができなくても、あみ子のことをもう誰も叱らない。あみ子の言葉はすべて、「頭のおかしい奴がまた変なことを言ってる」で話半分に聞き流されてしまう。「こちらあみ子」と呼び掛けても、もう誰も応えてくれないのだ。

でもその、ディスコミュニケーションは、あみ子側も同様で、あみ子は基本、自分が、自分が、の人間であった。

このディスコミュニケーションから生まれる“ずれ”こそが、悲劇を生んだといってもよい。

 

ただ、先に、「超絶鬱小説」と書いたが、この物語にも最後、一応救いのようなものはある。あみ子は最後、“のり君”とだけ読んでいた想い人の「名字」を知ろうとする。難しくて読めなかったその漢字を、クラスの同級生に訊くのだ。同級生は最初、あみ子が指す習字に書かれていた文字のことを訊いているのだと思ったが、次第に、名字を訊いていることを理解していく。

そして、嫌われていることさえ理解していなかったあみ子は、同級生の指摘から、自分のことを何故のり君が避けているのか、自分の「気持ち悪いとこ教えて」と訊ねる。

はじめて、相手のことを、相手の気持ちを、「知ろうと」しはじめるのである。

この、テーマ設定とメタファーの使い方と構成力と筆力。『こちらあみ子』がたいへんな傑作であることは間違いないのだが、同時収録されている、同じく「善意と悪意」の関係性を描いている「ピクニック」という話もまたかなり凄い。

抽象的な言い方だが、こちらあみ子が、「地獄への道は善意で舗装されている」物語であるならば、「ピクニック」は、 「善意で舗装されているので行きつかない地獄」と言うべきだろうか。

 

まず、物語の視点設定が「ルミたち」という最後まで何人か分からない複数形なのであるのも斬新だが、中盤まで、あくまで「ルミたち」の「善意」の物語として、読者をも騙してしまう筆力が非常に見事である。

「ルミたち」のバイト先に新人として入った、七瀬さん。七瀬さんは、とある人気お笑い芸人と、付き合っているという。その話を無邪気に信じ、応援する「ルミたち」。中盤、いや、嘘でしょ? と揚げ足をとろうとする若い新人のことを、注意し、「ひどい!」と憤り、「ルミたち」は七瀬さんのことを擁護する。

あまり書くと、読んだときの衝撃が半減するのでこれ以上は本文を読んでほしいが、そして、ここから後は半目で読み飛ばして欲しいが、

 

とにかく、この、「ルミたち」の、いや、「読者」が認識する善意と悪意が引っ繰り返される構成の凄まじさ。

 

悪意は悪意の顔をしていればこちらも大義名分を持って反撃できるが、 あくまで善意の顔をしていたとき、これは地獄だ!と糾弾することは赦されなくなる

七瀬さんは、「ルミたち」があくまで自分の話を信じ、応援してくれる姿勢を見せてくれるから、最後まで引っ込みがつかなくなるのである。

 しかし、「ピクニック」が更に一筋縄でいかないのは、「善意」視点で描かれる前半も、よく読むと、「あれ、これっていじめじゃないの…?」という細かい描写がさらっと書かれているあたりである。

「ルミたち」の、「善意」視点で描写されるので、さらっと読むと読み飛ばしてしまうが、ルミたちが七瀬さんの部屋へ行くのは、いつも深夜か早朝だったので…とか、誰も、七瀬さんのドブ攫い掃除を見ているだけで手伝おうとしていないのとか、手が汚れているからと、七瀬さんに、まるでエサをやるようにピーナッツを投げたり(4個くらい顔等にぶつけている)するのとか、「悪意のあるいじめ行為」を、そうと簡単には悟らせず、あくまで「善意」の視点で描き切る、

こんな高度なことをやってのける小説家の単行本が、この『こちらあみ子』(筑摩書房)しかないのは非常に勿体ないと思う一方で、いわば、

 

庵野やめろ!!

 俺より面白いもの作るんじゃねえ!!!」

 

と叫ぶ島本和彦ばりに、やめてくれ!!! こんな凄い小説書かないでくれ!!!!! と今年一番こてんぱてんに打ちのめされたのだった。

(別にお前は小説家じゃないだろとは言わんでくれ)

 

 

地方出身文化系スノッブの恋と承認とセールス―山戸結希「おとぎ話みたい」

大学入学のために一人暮らしを始めた日、いちばん最初に思ったのが、「静かだなあ」ということだった。家族がいなくて静かという感傷ではなくて、自動車が走る音が聞こえないからだ。

18年間暮らした実家のすぐ裏は、国道153号線が通っていて、昼夜問わず車がビュンビュン通り過ぎる音がしていたのだった。

最寄駅まで車で20分、車がなければどこにも行けないから一家に二台は当たり前、休日に家族と食べに行くレストランといえばガストかサイゼリアバーミヤン、友達と遊びに行くのはジャスコ(当時)と相場が決まっていてでもジャスコに行けば大体、同級生・知り合い、10人には遭遇する、周囲にはジャスコやチェーン店があり、40分くらいあれば名古屋中心部に出れるので、生活には困らない、都会ではないがド田舎でもない典型的ファスト風土生まれチェーン店育ちの自分は、もしもインターネットがこれほど発達していない時代であったら、ゆらゆら帝国もミッシェルも中島らもも知らずに、地元の教育大学とかに行って教師とかになっていたに違いなく(年収とか安定とかの観点でいけばそっちのが全然いいんじゃないか?)、東京で暮らしてほぼ希望の職種に就いている今も、東京育ち、中でも、大学教授とかのアカデミック職か文化資本の高そうな金持ちの親の元に生まれて、当たり前のように高い文化資本に囲まれ育ってきた系の奴らが、死ぬほど羨ましいのである。あまりにもコンプレックス過ぎて、大学の卒論もそんな地方マイルドヤンキー論みたいな話にしたくらいだ。

たとい生活に困らないとはいえ地方の教養度レベルは基本的にヤバい。中堅進学校の読書好きを名乗るものであっても、読んでいるのは山田悠介とか西尾維新とか有川浩とかせいぜい桜庭一樹である。ぜんぜん話なんか合わない。ピアノは3歳くらいから習わないとダメみたいなのと同じで、一生かかっても追いつけないほどの何かしらの差がある気がする。本なんてAmazonでほぼ買えるしネットで情報は手に入るじゃんとかそういう問題でない「何か」

 

私だって、読書のきっかけですか? 父の書斎にあった… とか言ってみたいのだ!

私の父の本棚にあるのは、刃牙ナニワ金融道くらいだ!!

いや、それだけならまだいいのだが、今年の正月に久しぶりに実家へ戻ったら、玄関に、ブックオフの100均コーナーに売っていそうなっていうか本当にブックオフの100円値札シールが貼ってあるままの、安っぽい自己啓発本ばかりが5、6冊程度、玄関の靴箱の上に並べられていて本当に私は絶望した。

本を全然読まないのならまだいい。一万歩譲って、中途半端に100円の自己啓発本を読むのもまあいい。問題は、それを玄関にこれ見よがしに飾ってしまう絶望的なセンスである。世界文学全集とか、まあ、ドラッカーとかならまだしも、何故それを玄関に飾っちゃうのだ? 飾る、という行為に元にあるのは、「こんな本読んでる俺かっこいい、素敵」という気持ちがどこかにあるからであろう。

何故、「こんな本読んでる俺かっこいい」の、「こんな本」が、100円の自己啓発本なんだよ!!!! 恥ずかしいから一刻も早くやめろ!!!

 

なので、先日、プチ炎上していた、「東京と地方出身ココが違う?」というテーマにも関わらず、何故か、東京、しかも東京の中でも都心のかなり恵まれた層出身の人のみだけに語らせるという、偏った&イメージで話してるだけ&田舎者はセンスがないとかdisられてる この記事にはとうぜんコンプレックスを刺激しまくられて憤死しそうになった。

 

tokyowise.jp

 

わーん私も、商社の父とデザイナーの母みたいな都心の金持ちの家に生まれて、慶應とか青山の中等部とかに通って、著名人の子息みたいなコネを作りまくって、父の書斎にあったから幼い頃から呼吸をするように接していた文化教養の香りのする文学とかアートとかに造詣が深いのと同時に、ディオールイヴ・サンローランなどのハイ・ブランドの店にも臆せず入り馴染みの店員に見繕ってもらったファッションを着こなし、コスメや海外旅行にも目がなく、在学中から、コネを通じて、読者モデルやレビュアー・ライターなどの仕事をし、そのうち、ハイパーメディアクリエイターだかなんだか、ライターだかデザイナーだかイラストレーターだかモデルだかなんだか本業や専門は何なんだかよく分からないが、GINZAとかに連載を持ち、「○○(※名前)という職業」みたいな胡散臭い持ち上げられ方で食ってくような生き方がしたかったよーーー

 

というのはさておき、愛知といって広すぎれば西三河の平民の一生はだいたい9歳くらいで決まる。

9歳のときの優等生は名古屋大学に行ってトヨタの本社に入るのがエリートであり、次点で教育大学から教師、母親が看護師の娘は何故かほとんどが自分も看護師になり、そうでない女子は銀行か保険会社に就職し、大学へ行かない男子はトヨタか関連会社の工場に、些か差別的な言い方かもしれないけれど、団地出身の子は学校での成績も底辺層でそのままドロップアウト、自分も20歳前にデキ婚、

あまりにも華麗に、そしてあまりにも素直に、親と同じようなロールモデルを辿る。

実は一番将来に苦しむのはオール4前後から地元私立大学へ行った、エリートでもなければ高卒工場就職コースも取れない中途半端にプライドだけある層。

 

上の記事で、都会出身の人が、「結局仲良くなるのは東京出身者」とかいっていたが、自分の場合、こういう地方出身の焦燥みたいなので盛り上がるのって、福岡出身の人が多いかもしれない。就職した時の同期は福岡出身だったが、入社初日の会話で既に、「福岡は、車の中でもカラオケでもエグザイル地獄、マイルドヤンキーばっかでうんざりだ」みたいなことを言っていた。

東京、大阪に次いで、第三か第四くらいの都市圏なので、ヤンキーに限らずどの階層に属している者であってもほとんど皆が別に、生活や一生をここで暮らすことにさほど不便も感じておらず、つまり田舎者ということを自覚しておらず、「何でわざわざ出るの?」と理解と共感を得られない、「地元を守ろう!」みたいな無理やりの郷土愛でなくて、あまりにもナチュラルで素直な無意識の地元への呪縛、これが、分かり易い何もないド田舎だったら、東京に行こうとする動機は理解されやすいが、そうではないところに、コンプレックスと焦燥とそして孤独のポイントはあるのかもしれない。

 

統計も取らずに自分の身近な事例だけで県民性のようなものを断定するのはよくないが、しかし、そういう意味で、地方民の東京コンプレックスがバチバチ溢れまくる映画「おとぎ話みたい」の山戸結希監督が、愛知県出身、それも豊田西高校(地元の優等生が集まる高校、私が通っていた高校が一方的にライバル視しているところ)の出身と知って、かなり、

なるほどなーー

と、腑に落ちた感があったのだった。

 

posthumous-work-of-girl.com

 

 DVDになっていたので最近ようやく観ることのできた「おとぎ話みたい」自体は、文化系インディーズ映画にありがちな気取り臭(ポエミーなモノローグ、過剰なナレーション、エキセントリックな美少女、小劇団員みたいなオーバーで思わせぶりな台詞)が非常に鼻につくし、ただ、物語パートとライブシーンを交互に並べているだけの単調さも退屈だし、「色即ぜねれいしょん」で妙な好演を見せていた渡辺大和(黒猫チェルシー)と違って、おとぎ話のメンバーの演技はあまりにも微妙すぎるしで、そんなに好きな映画ではないのだが、そこで描かれていたテーマだけは、「やられた!!」と思った。べつに映画監督になるわけでもないのに何が「やられた!!」なのかはよく分からないが、つまり、こういうことを思っていたのは、こういうことを書きたかったのは、自分だけではなかったのか、という「やられた!!」だろうか。

 

田舎に住む高崎しほは、ダンスの勉強のため卒業後は東京の進出をもくろむ高校3年生。ある日、廊下でこっそりダンスを踊っているところを、社会科教師新見先生に見られてしまうのだが、先生は、しほに理解を示し、しかも、自分の好きなバンド―「こんな田舎に知っている人がいたなんて!」―のDVDを貸してくれる、と言うのだから、しほは一瞬で恋に落ちてしまう。東京の大学院を出た「出戻り文化人」新見先生。

 

単に田舎者のルサンチマンとか東京への憧れとコンプレックスとか、地方の文化系少女が、文化を解さないアホのような同級生とは違う、田舎にあるまじき文化素養度の高い年上の男に憧れる恋心とか、ってだけならまあありがちといえばありがちだし、田舎者ルサンチマンでいえば既に、山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 という傑作があるのだけれど、

 

「おとぎ話」で着目したいのは、ルサンチマン抱えるモラトリアム少女の承認欲求と恋心が一緒くたになっているところであって、これが私が一番「やられた!」と悔しく思ったポイントだった。

少女の承認欲求と恋心は一緒くたになり、そのうち、「ダンスで何者かになりたい」という気持ちと、「先生に認められたい」という欲望が一緒くたになり、ダンスが上達すれば先生も私を好きになってくれるはず、いや、新見先生はもう私のことを好きなはず、という方向に作用する。

自分は、周りの田舎者とは違うという自負のあるしほは、同じく、周りの田舎者とは違う、ひときわ知性と教養のある、文化系のアイドルみたいな先生に、自分の、もっとも「私は他の奴らとは違う」セールスポイントであるダンスを褒められ、君のダンスは好きだと言ってもらったので、つまり、自尊心を満たしてもらい、「何者かにしてもらった」(あるいは何者かにしてもらえる可能性がある)ので、あっさりと好きになった。

そして、文化系仲間である新見先生の方も、こんなに周りと違う自分のことを、「面白い」と思ってくれているはず、つまり「好き」なはずだと思い込むのである。だって先生は私のダンスを認めてくれているし。

 

この心理過程を、わけがわからないと思うか、わかると思ってしまうか。

 

冷静に考えればというか冷静に考えなくても、求愛の踊りを舞うクジャクではあるまいし、

自分のセールスポイントを認めて貰えたことや承認欲求を満たしてくれたことと、恋に落ちることは別物のはずである。そして、相手にとっても、異性としての魅力―恋人として付き合えるか否か、と、彼ないしは彼女の嗜好や個性に理解を示し認める気持ちは、また別だ。珍しくて「面白い」と思う気持ちと、「恋人にしたい」という欲望だって違うものである。

劇中でも、明確にそれは示されていて、新見先生はしほを、「あなたのダンスを好きな事とあなたを好きなことは違う」と振る。

 

でも、同じものなんだよな。ずっと周りに理解されずに、でも何者かになりたいと思っている思春期モラトリアム少女にとっては、同じものなんですよ。同じだと誤解してしまうんですよ。

少女じゃあないが、最近注目しているBL作家のセキモリさんが出した『前から知ってる君のこと』に同時収録されている、芸人の話を何となく思い出して、売れない芸人の受けは、同じく芸人仲間であるところの攻めに、自分のネタを好きだと、お前は面白いと言って貰ったことで恋心が芽生え始める。

その時のモノローグがとても良い。記憶があやふやなので詳細は違うかもしれないが大体こんな感じ。

 

「面白いって、普通の奴が言われてもまあ少し嬉しいんだろうけど、そんなの、俺にとっては、芸人にとっては、生きてる価値があるって言われたのと同じなんだよ」

 

 

かくして、一刻もはやく誰かに生きてる価値を認めて貰いたい我々は(我々?)、しばしばこういう混同と誤解をしてしまうのだが、そういう意味で、この映画を観てもう一つなんとなく思い出したのは、本来ぜっんぜんジャンル違うが、関よしみのホラー『関よしみ傑作集 マッドハウス (ホラーM)』に収録されている「壊れた狂室」ですね。

 

           

成績が良い人が何より好きな、女子校のイケメン教師の寵愛を得るために、女子生徒たちが、ドーピングでヤク中になったり、教科書のページを食べたり、DHAがいいとかで目玉を食ったりが高じて友達の目玉を食べたりするホラー漫画だが、自分にとって、この作品が怖かったのは、まさに、承認欲求と恋心と本来異性的魅力には関係のない部分の努力が一緒くたにされていく過程が描かれていることであった。

「分かる」と思ってしまったのである。いや、「分かられて」しまったことの羞恥、と言った方が正確だろうか。

ゆえに私は、自らに「違うものだ!!」とパンチを繰り出す作品を作ろうと思っていたというか実際この夏こっそりと書いていたのだが、既に、「おとぎ話みたい」が描いてしまっていたことを知った。

自分が考えるようなことは、とっくに誰かが超上位互換でやっているのだなあ。

【琥珀】ハイロー=「AKIRA」説【さんをつけろよデコ助野郎】―HiGH&LOW THE MOVIE 応援上映感想

※既に見ていることを前提としているものなので存分にネタバレしています。

 

ドラマ版はちょいちょい観ていたし「観ると頭がおかしくなる」という大絶賛評は前々から耳にしていたのだが、先週の「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」やその後の、「放課後クラウド」を聴いて、

遂ぞ、9月24日「HiGH&LOW THE MOVIE」応援上映(@新宿ピカデリー)に足を運ぶことを決意した私。

 

www.tbsradio.jp

 

前評判がよく、自分も最初は絶賛するつもり満々で行った「シン・ゴジラ」は、脚本の運びや粗からいまいち乗り切れなかった(↓ちなみにその時に書いた、懐疑感想記事がこれ。はてな匿名だがボロボロに叩かれた) ので、

 

anond.hatelabo.jp

 

若干の不安は残っていたが、結論から言うと、超面白かった。

もちろん、「シン・ゴジラ」以上に脚本や演出や設定に穴やツッコミどころが有り過ぎるというかむしろ穴しかないし、普段の自分からすれば、絶対に120%嫌いなタイプというか馬鹿にするタイプの映画のはずなのだが、一周回って逆にアリ、とかじゃなくて普通に超面白いし楽しかったいや、次々に登場する登場人物たちに送られる黄色い声援や各々のチームのキャラソン(キャラソンという表現が適切なのかは不明だが…)に合わせた光るサイリウム、音楽であがるテンション、口ずさみ、大乱闘シーンへの応援の盛り上がり、「琥珀さん!」「なんでわかってくんないんすか琥珀さん!」「目を覚ませよ琥珀さん!」「琥珀さん!!」に、

「何となく楽しかった気にさせられた」

のかもしれないが、そういう意味でも確かに、この映画は非常に応援上映向きというか宇多丸の言うように、応援上映によって「完成」するものなのかもしれないと思った次第である。

 

応援上映によって完成する「HiGH&LOW THE MOVIE」 

 

応援上映によって完成する、というのは、そうした「音楽や乱闘と一体になって盛り上がることで何となく楽しかった気になる」、また、「ツッコミどころがありすぎるので観客からツッコミを入れることによって面白くなる」といったことのほかに、

そもそも、映画の演出や構成自体が非常に如何にもライブちっくというか、歓声ありきで成り立つ感じなのだ。

 

例えば冒頭で、ナレーションやドラマ版からの流用動画で構成される各々の登場人物のキャラクターやバックボーンの説明の度に、いちいちかっこいいフォントで「コブラ」「琥珀」とか入れちゃうのとか、この映画の登場人物の強い特徴に、総じて、やたらと登場タイミングが良すぎるというものがあるが、戦いの最中、一触即発の最中に、どこでどう時間と場所を嗅ぎ付けたのかの説明も特にないままキキーっと主要キャラがその場にバイクを乗り付けて来たりするのとか(特に雨宮兄弟な。あの二人の神出鬼没ぶりは一体…いやまあかっこいいんだけど…)、

普通に考えれば映画作品としては完全に反則技なのだが、「歓声を入れるタイミング」として捉えると、非常にバッチリ来るのだ。

(映画)「コブラ!」(観客)「キャー」「コブラ―!」(映画)「鬼邪高校!」(観客)「村山ー!!」

(映画)「キキ―っ(広斗登場)」(観客)「広斗ー!!」「雨宮兄弟キター!」「キャー!」

 

アイドルがライブの序盤で、一人ずつ、「いつもにっこり笑顔、小さくたって元気全開、ゆりりんです☆」みたいに紹介し、「うおおー」と盛り上がるのとメンタリティとしては近いような気がする。

 

更に、最後の大乱闘に向かうために、SWORDの各チームが各々、バイクや車でどんどんと終結して最終的に「マッド・マックス」のパロディと化すくだりも、

 

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何でお前らたぶんあんま金ないのに(特にRudeBoys)そんなバイクとか車とか持ってんだよ? という野暮な問いはともかくとしても、冷静に考えるとちょっと意味が分からなくないですか。

事前に琥珀さんから、「2日後にマイティウォリアーズとダウトを引きつれて…」という説明があった山王連合会が現場に向かうのは分かるのだが(いや細かいことを言えば、俺の言う通りにしろっつってた琥珀さんがその後コブラとヤマトの様子を見張る様子もなく好き勝手にさせているのも実はよくわかっていないが)、他のチームは一体いつどこでこの情報手に入れた?? そんな場面ありましたっけ?? 何故やはり、別に示し合わせたわけでもないのに、ベストタイミングで同じ場所に集結できちゃうんだ??

それとも、“グループ SWORD”みたいなLINEグループでもあるのか??

 

いや分かる、マッドマックスがやりたかったんだろう。かっこいいもんな。やりたいよ。

しかしこの、冷静に考えてしまうと理屈が分からないシーンも、「歓声を入れるタイミング」ありきで考えると、意味不明どころかむしろこれ以上ないくらいベスト演出なのだ。最初は山王、そして村山たち、村山たちの後からやってくる鬼邪高校、ホワイトラスカルズ、ルードボーイズ、達磨、が順番に続々と同じ画面にやってくることで、観客たちは、順に、名前を呼びきゃあきゃあと叫ぶタイミングを得、大乱闘に向けて気持ちとテンションもどんどん高まっていくのである。

 別に最初から応援上映のために作られたわけではないのに、結果的に、非常に応援上映と親和性が高いものになってしまっているというのが、日頃ライブやパフォーマンスで活躍するアーティスト出身のプロデュース映画っぽくて面白い。

 

 

個人的に気に入った「観客ツッコミ」(@2016年9月24日新宿ピカデリー) 

 

しかし、この応援というのもただ名前を呼んだりきゃあきゃあと言っているだけではなく、作中の粗や台詞に対し、至る所でツッコミが入ったりする。

観客は、おそらく元からのLDHファン以外にも、キンプリなどで鍛えられたオタク勢も結構いて少なくとも自分の両隣は完全にオタクの人だった。

 

九十九さんが、ヤマトの実家(バイク屋)にやってきて話していくくだり、途中までは入口付近にナオミがいたはずなのに、カットが割られた次のシーンでは何故かいる筈の場所から消えていることについて、

「ナオミどこー?」

とか、

コブラとヤマトが、琥珀さんについて考え苦悩しているシーンで、時間の経過を示すために、同じ背景を映したままヤマトの立ち位置とポーズだけが変わっている場面で、

「アハ体験!」

とか、

琥珀さんが誰かに殴られたあと顔を上げ、何かを拭うように口を手で拭くところで、

「大丈夫血出てないよ!」

とか、

 

おそらく、どこかの誰かが「開発」し、その場にいたもしくはネットで耳にした他の誰かが違う回でも使うことによって、「継承」されていくツッコミのパターンや、ご飯が出て来たら「美味しい?」、危ないシーンでは「後ろ!!!後ろ!!」、だれかに煽られたり喧嘩を売られたときのシーンでは、「抑えて!!」「我慢して!!」など、ある種の、ここではこういうという型みたいなのがある程度は出来ているのだろうけど、

そういうのとは他に、たぶんここで初めて誰かによって発せられたであろうツッコミで特に気に入ったというか、作品の理解力の助けになったのが2つほどあった。

 

一つ目が、SWORD潰しのための大乱闘について、ナオミとヤマトが話し合っているときの、ナオミの台詞の後で発せられたもの。

(ナオミ)「明日は兄貴の命日なんだ」

(観客)「だから2日後なんだねー!」

 

2日後というのは、その前日に琥珀さんがコブラやヤマトに「2日後にマイティウォリアーズとダウトを…」といった時の、「2日後」を指しているのだが、つまり、表面上はSWORD潰しのため、実質的には、ナオミの兄貴(=タツヤさん)が死んだのを自分のせいだと思う琥珀さんが、九龍に復讐として刺し違えるため の乱闘が、タツヤの命日に設定されている、というのを指摘したもので、

このツッコミについては、感心した他の観客から、

「おー」「なるほど!」と、拍手まで送られていて笑った。

 

そして2つ目が、

劉に連れられ、ダウトかマイティウォリアーズかどっちかの陣地(どっちか忘れた。つうかあれはどこにあるんだほんとに)で、湾岸連合軍VSルードボーイズ の乱闘を見たあと、そこで偶然、西郷(刑事)に会う九十九とのシーン。

(西郷)「琥珀が…」

(観客)「“さん”をつけろよ!!」

 

デコ助野郎は言っていないが、私はこの野次により、

なるほど! 確かにハイローは「AKIRA」だ!!

と、天啓を得たのである。

琥珀さんの中の人がAKIRAだという話ではなく、いやもちろん琥珀さんの中の人がAKIRAだというのも掛けてはいるのだが、この場合の「AKIRA」とは大友克洋のアニメ映画の方である。

 

 

ハイロー=AKIRA 

 

映画版の「AKIRA」というのは、めちゃくちゃざっくり言うと、不良グループの一員である鉄雄という少年が、バイクでの暴走行為中うっかり事故にあい、そのおかげで超能力を手にしてしまい、それまでの引け目から、俺最強!!!と、超能力で破壊&殺戮行為を繰り返し暴徒化するのを、鉄雄と同じ不良グループのリーダーであり、かつて同じ施設で育った幼馴染の友人、金田(&その他)が必死で止めようとする話である。

もはや手に負えなくなった鉄雄を何とかしようと、他の組織たちも動いているのだが、金田は、友人のケリは俺がつけないと、友人だからこそ俺が始末をつけないと、と自らの手で仲間の始末をつけようとするのだ。

(AKIRAどこやねん、という話だが、後はググって欲しい)

 

翻って、劇場版ハイローも、昔の仲間の死によってメンタルを病み(AKIRAが暴走したのも原作では友達が死んだからだよねー)、自ら諸共というか周りを盛大に巻き込んで九龍に復讐を果たそうとおかしくなってる感じの琥珀さんを、仲間たち=九十九さん、コブラ、ヤマト が必死で止めようと、何とかしようと拳で頑張る話である。バイクで暴走行為をするグループ仲間というあたりも共通している。

 

金田も、九十九たちも、かつての仲間が暴徒化したのを、「裏切られた」と思って「怒った」から、殴ったり攻撃したりしているわけではない。「友だちだから」なのだ。行動原理は同じ、

つまり、

「ムゲンは仲間を見捨てねえ!!」

の精神なのだ。あんなんになっても、どんな酷いことをしても、見捨てていないからこそ、の行動なわけである!

 

そうした、ムゲンは仲間を見捨てねえメンタリティを行動原理とする話であるという共通点のほか、「俺とお前」の関係が、「世界の崩壊」にそのまま直結するいわゆるセカイ系であるというあたりも一致している。

 この夏の大ヒット映画「君の名は。」がセカイ系であるところは既に多くの人が指摘しているが、ハイローも充分にセカイ系じゃないですか。

それは、駅で喧嘩しようが教育機関のはずの高校にカチコミをかけようが1000人単位で乱闘しようが街が一つ燃えて人が沢山死のうが警察とかがほとんど出てこない(その割には、高校生ボコッても捕まらないのに大学生殴ったノボルは逮捕されていたり、劇中でヤマトが「警察は俺らの言う事信じねえ」とか言っていたり、完全にいないわけでもないらしくこの地域の治安維持構造については非常に謎)という話より、もっと根本的なところで。

 

「HiGH&LOW THE MOVIE」でよく分からない点は多数あるが、中でも一番の謎は、

 

「え、何でそれで大乱闘終わっちゃったの!?」

 

ではないだろうか。そもそも、何故、別に示し合わせたわけでもないSWORDの各チームが同じタイミングでそれぞれ集まって(どう情報入手したんだ)、別に何も言っていないのに一緒に共闘することを全員が納得しているのか(映画の中のストーリーとして、今回のピンチ、一緒に戦おうぜ!みたいになっていくのかと思いきやそういう流れとか事前説明何もなし)というのも非常に不可解というか、本来その共闘過程を映画で描くべきなのでは、と思うが、

ヤマトとコブラと九十九さんが、拳を交えた末、琥珀さんの説得に成功したからといって、山王以外の他のチームが、喧嘩を止める理由には別にならないはずである。だって、彼らは、自分たちの陣地とか商売とかが、マイティウォリアーズとかダウトとかに妨害されたりボロボロにされたり地元爆破されたり女連れ去られたりしたから報復と、やっつけにきたわけじゃないですか。琥珀さんが説得云々とか関係ないじゃないですか。

それを何故、戦場となったライブハウス(?)から出て来たコブラが、勝利宣言として腕を突き上げただけで、

全員が全てを察し(え、そういう戦いだったっけ??)、乱闘が終わったことになるのか。

この映画の人物たちは、登場タイミングも良すぎるが、変なところで物分りが非常に良すぎやしないだろうか。

 

しかし、こういうツッコミはこの映画には野暮ってもんである。

いいのだ、それで。ハイローは世界の範囲が著しく狭いだけで(しかし彼らにとっては自らの地元が世界なのだ)セカイ系なんだから。琥珀さんと仲間の関係が世界の崩壊の危機を招き、九十九さんの愛が世界を救うんである。

これと、AKIRAを同じにするとアニメオタクから怒られそうだが、AKIRAも、金田への引け目、劣等感という、金田―鉄雄 の関係性がそのまま世界の崩壊云々に直結しているという点で、セカイ系であろう。

 

と、ここまで、ハイロー=AKIRA 説を提唱したところで、

ゆえに、西郷が「琥珀が」と呼び捨てにするシーン、次はぜひとも、こう叫ぶべきだ。

 

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大乱闘スマッシュブラザーズ腐女子垂涎のカップリング祭り 

 

と綺麗にオチがついたところで終わりにしとけばよかったのだが、腐女子としてはやはりどうしてもこの話はしておきたいじゃないですか。

ハイローはセカイ系、と先程述べたように、「HiGH&LOW THE MOVIE」の基本物語が、

「今は亡きタツヤさんの影が離れない琥珀さんに、愛は自分の方に向いていないと分かっていながらも、それでも彼のためになれればと黙って寄り添い続けた九十九さんが、最終的には、何とか琥珀さんを自分の方へ必死で振り向かせようとするトライアングル・ラブストーリー」

であることに間違いはないし、エンドロールの、タバコに火をつけるところ(やはり男同士のラブを描くには「タバコに火をつける」ないしは「シガレット・キス」が必需品であると改めて思った。風立ちぬとか青い春とかな…)や、呆けた琥珀さんと寄り添う九十九さんの半端ないこれでもかの「事後感」は、応援上映でなくとも、ヒューヒューー!!! と叫びたくなるほどだが、

 

そもそもこの映画は、ある種ファンのための「お祭り」=もしあのキャラとあのキャラが共闘したら という物語上の交錯に、更に、あの中の人がこんなキャラを、あの中の人とこの中の人が、という実在人物同士の関係性も加わった二重構造をも楽しむために作られているものであろう。大乱闘ではまさにそうしたサービスシーン満載。

すなわち、マリオとピカチュウが同軸で戦う大乱闘スマッシュブラザーズである。いや間違えた。腐女子的解釈のパラダイスである。可能性は∞である。

 

個人的には、村山の立ち振る舞いや、飄々としていて可愛げや華奢さもあるのに喧嘩大好きで鬼強いというキャラ設定は、もー腐女子が好きそうな設定てんてこもりかよ狙い撃ちかよって思ったし、村山⇒轟 のデコピン からの、轟⇒村山 の流れにも大変萌えたが、やっぱり、登坂くん演じる雨宮弟(広斗)と窪田正孝演じるスモ―キーですよねーシュッとしたヤンチャ系と無口病弱って組み合わせもねーたまりませんよねー

兄ちゃんべったりではあるが基本マイペースな雨宮弟と、弟の好き勝手に振り回され「お兄ちゃんの話を聞きなさい!」とかいっちゃう(そして普通に無視される)雨宮兄も捨てがたいんすけどねー

 

しかし、スモ―キーのピンチに、キキ―っとバイクをめちゃくちゃかっこよく乗り付け、ぼこぼこと相手を倒し、スモ―キーと背中合わせ共闘する様は、まさしく王子様である。

広斗の王子様っぷりは更に続き、知り合いの医者の元に運んであげたり、身体を心配し病院行けと札束をスモ―キーの妹に渡してあげたり、満身創痍のスモ―キーに託されて、代わりに、拉致られた妹を救出に行ってあげたり(まあ途中で全部兄に押し付けてELLYと喧嘩しちゃってるが…)、この映画の中で、確実に広斗とスモ―キーの間に深い交流が芽生えていることは間違いない。

 

広斗が何故、兄ちゃんを探すのにスモ―キーの元に行ったのかはよく分からないし別に結局スモ―キーから情報を得たわけでもないが、いいんだよ! 広斗とスモ―キーが並んでたら萌えるって理由だろそんなものは!!!

それに、「兄弟を何より大事に思っている」「兄弟を探している」っていう共通項もある。ララやスモ―キーを助けてあげるのは、同じく、兄弟を大事に思っている広斗でなければならなかったのだしたぶんだから広斗は力になってあげたのだ。この関係性も萌えるじゃないですか。

 

更に、個人的な萌えポイントとしては、乱闘が集結し、皆がそれぞれ帰路につくシーンのあと。

ダウトに拉致られたララが、スモ―キーの元へと戻って来る場面。

これ、おそらく思い違いでなければ、確か、広斗は既に、ベッドに寝ている「スモ―キー」側(部屋の中側)にいるんですよ。普通に考えれば、スモ―キーに、ララを助けてくれって言われてんだから、広斗はララと一緒に帰って来るべきじゃないですか?

脚本の粗かもしれないという可能性はさておいて、ここは、あの後、広斗は急いでスモ―キーの元に駆け付け、寄り添ってあげていたに違いない、という解釈を掲げたい。

 

急いで!戻って!駆け付け!寄り添って!あげていたのだ!!!

これが愛でなくてなんだろうか!?

 

かように、腐女子へのエサも満載なハイロー、次作は遂に雨宮兄弟メインの話と訊き、あの弟に振り回され苦労性な次男とマイペースな三男の上に、「長男」が入ると、各々どういうキャラになり、互いにどういう関係を見せるのか、これは是非ともチェックせねばと今から楽しみである。

 

鑑賞日:9月24日

 

【↓続編・「RED RAIN」の感想↓】

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

【ザム2は本当に最高の最高の映画だった!!!!!】

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キレて逃亡した近鉄社員には「人生スイッチ」を観て欲しいとか思った。

一年半ほど雑貨店でバイトをしていたときに考えていたことだが、

接客・サービス業とは誠に不可解なもので、基本的に、一般客の相手をする矢面に立たされているのはその組織の中でも末端の人間であることが多いのではないだろうか。企業の方針を決め、企画を立てる人は本社にいるし偉い人は奥にいる。表にいるのは大多数が時給900円とかのアルバイトである。

むかし、ガストで、「この、“みすじ”というのは何ですか」と若い女の子のアルバイトにしつこく訊いているおっさんがいたが、別にその店員は牛肉のプロフェッショナルじゃあないしそんな細かく知ったこっちゃないだろうと何となく気の毒に思った。

わたしは、ガストのホールのアルバイト店員が牛肉のプロフェッショナルなわけがないのと同じくらいのレベルで、大多数の電気屋の店員は電化製品のプロではないし大半の本屋の店員は書籍のプロではないと思っている。電化製品を企画し作っているのはメーカーである。本を考え作っているのは出版社である。出版社の編集者は自ら企画し著者に依頼し編集入稿校正色々携わっているから自分が関わった本のほぼ全てを屹度知っているし答えることができるがそんな一つ一つの本が数千数万取次から送られてきて膨大なそれらが並べられているのが書店である。

なのでとうぜん、一冊一冊の詳細について、書店員が知っているわけがないというか把握できるわけがないし教えて貰っているわけがない。書店のアルバイト店員の仕事はレジを打ったり機械に則り発注をかけたりすることで精一杯なのであって、店中の一冊一冊をこと細かく案内できると思ったら大間違いである。こと細かく知っているのは出版社の社員のほうである。

電気屋もロフトみたいな大型雑貨屋も同じ理屈だ。店員はメーカーの人間ではないので(メーカーの人間が法被をきて電気屋にいることはあるかもしれないが、そういう場合ではなく…)だいたい、客に商品の詳細を訊かれても、よく知らないのを説明書を読むなどして誤魔化して説明しているか裏で検索しているに違いないというかこれは経験談&実際に聞いた話なのでそうなのである。勿論、個人的に詳しいポイントや、説明可能な「担当領域」というものはあるだろう。けれど店で扱う商品の全てではない。

これがコンビニ店員であれば、「彼らの仕事は検品やレジ打ちである」ということが何となく理解できて別にコンビニ新製品のコンセプトをコンビニ店員に訊く奴はいないと思うが、書店とか大型雑貨屋になると、何故か途端にこういう区別ができなくなる人がどっと増える。

誤解しないで欲しいがわたしは店員がプロでないことを非難しているわけでも揶揄しているわけでも馬鹿にしているわけでもないのである、「表に立つのは大半が末端の使い捨ての人間」かつ「自らが取り扱う製品についての研修の機会もさほどなし」という労働構造を不可解に思っているかつ、こういう、「区別ができない」客の方は明確に馬鹿にしている。

 

こうしたアルバイト問題(この労働構造が生み出す問題は他にもあると思っている。例えば、繁忙度によって店員の時給が変わるわけではないゆえに、店員にとっては、労働量と金銭額のバランスとして「忙しいほど損」という状況が生まれてしまう=客が多く来ることは店員にとってのデメリットである という逆説になることなど)

とはやや話がずれるのかもしれないが、人身事故などで電車が遅延した時に駅員を怒鳴る蹴る殴るのような所業をするのは、上記のような、「区別ができない客」の悪化したバージョンなのではなかろうか。何の区別か。言いたいのはつまるところ、「組織」と「個人の役割・責任」の区別である。

線路に人が飛び込んだのもおかげで電車のダイヤの時刻を遅延させることその他諸々方針を決めたのもべつに今、自分の目の前に立っている駅員が仕組んだことではないという区別である。つまりその駅員に怒ったって仕方ない(この場合、仕方ないどころか、対応できる人員が減るのでむしろ悪影響)という区別である。

 

なので、一年半のバイトで「接客業はもう絶対に嫌だ」と固く決意をした身としては、近鉄車掌がクレーマーに耐えかねて逃亡というニュースに、

 

www3.nhk.or.jp

 

深い同情を禁じ得なかったのだがこうした話とはまたほかに、小学校の時分から机や校門を蹴飛ばす他人の筆箱を投げるなどの衝動的暴発を定期的に繰り返し、就職後の前職場でもカレンダーを投げつけたり机を蹴飛ばしたりしていた大概アレな人間であるところのわたしとしては「キレやすい若者」(いやもう23歳だけど…)としての強いシンパシーを感じた。そしてアルゼンチンのことを思い出した。

何故アルゼンチンか。

日本をはじめ各国で、「アナと雪の女王」が興行収入一位を記録していた頃、その年(2014年)の興行収入一位が「アナ雪」でない国があった。それがアルゼンチンであり、二位の「アナ雪」に動員数ダブルスコアをつけて一位に輝いた映画が、「人生スイッチ」である。

 

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人生には、「押してはいけないスイッチ」がある。しかし、オムニバスとして描かれる登場人物たちは、ふとした怒りや衝動、きっかけから、破滅へのスイッチを押してしまい不運と悪の連鎖が始まる…というブラックコメディーだ。

「駐車禁止ではないはずなのに何故か自分の車ばかりがレッカー移動させられる、車を返してもらおうとしても役所仕事にうんざり」「幸せだったはずの結婚式に夫の浮気相手が参加していることを知る」「息子が飲酒運転の末、ひき逃げし妊婦を殺してしまったことを知った父親が、何とかできないかと弁護士に頼むが、弁護士や買収した検察が調子に乗って金額をどんどん釣り上げてくる」

…などなど、怒りに身を任せたら自分も危ないと分かっている状況でしかし、登場人物たちは我慢がきかずに「キレて」しまう。花嫁は衝動的にウエディングドレスのままボーイとSEXしケーキや料理を破壊し夫の浮気相手をガラスにぶち当て血みどろにし、男は、駐禁ばかりとってくる陸運局で大暴れし、仕事も家族も失った末、怒りのあまり車を爆破させる。

 

中でも一番好きだった話は、山の中の道路で、自分の進行を邪魔してくる車を遂に追い越し、追い越しざまに、田舎者、のろまなど罵倒したら、しばらく行った先でタイヤがパンク、車がとまってしまう。どうしようと困っていると、先程罵倒した運転手の車が追い付いて来て、怒りを抑えきれていなかったその運転手が、車に小便やウンコをかけたり窓ガラスを割ったり仕返しに出てくる…というエピソード。車を激突させて川に落としたり、シートベルトや火まで使った格闘の末、最終的には車ごと爆発し二人は黒焦げ死体になるのだが、

この爆発オチまでの緩急や伏線、格闘の流れがよくできていて面白い。

 

ということでこういうことを言うと非常に不謹慎ぽいが、クレーマーにキレて服を脱ぎ棄て線路から逃亡、というのは如何にも「人生スイッチ」の1エピソードにありそうな話題であって、だから件の近鉄社員にはぜひこの映画を観て欲しいとか思ったわけである。

外からリアリティー・ショーとしてやいややいやと面白がられ消費されるのは当事者としてたまったものではないだろうが、自分の人生の一部分を相対化しコメディ化してみるのは辛く長く苦しい人生を乗り越える一つの手法としてはアリなのではないかと思ったりする、願わくば彼が今後実際に、「こんなこともあったな」と後で振り返ることのできる人生を送れますように

 

 

因みに、アルゼンチンでは、この「人生スイッチ」のオープニング動員数を更に越えた映画として、身代金で生計を立てている一家の誘拐殺人を描いた「エル・クラン」が社会現象化したらしい。日本でも9月17日から公開されている。

 

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何となく予告や宣伝から、“アダムス・ファミリーの誘拐殺人版”(なんだそれ)みたいなものを想像していたのだが、積極的に主導しているのは父親だけだし、息子たちは渋々手伝い葛藤もする、母親や娘は消極的黙認(うち一人は全く知らない)、くらいで事前のイメージとは違っていた。けれど、悪事が警察にばれて、逮捕されてどうしようもなくなった後で取るラスト近くの息子の行動は、視聴者の意をもつく、非常に衝動的突発的、この、怒りや苦痛をボカンと一発取り払いたいみたいな衝動、

 

観てないから分かんないけどあらすじから推測するに、アナ雪って、ありの~ままで~が有名だけどあれは割と序盤で結局は、(愛によって)力を制御しないと幸せは訪れないって話じゃないですか?

たとえ破滅に進んでいくかもしれなくても衝動へと身を任せる人物たちが出て来る映画の方が、そしてそれをあまり深刻になりすぎずユーモアを以て笑いへと昇華する映画の方が、アナ雪を越えて歴代一位をとっちゃうアルゼンチンっていう国は、いいところなのだろうなあと一度も行ったことないのに確信する次第である。

 

妻夫木聡と綾野剛のベッドシーンだけで1800円の価値あり!―映画「怒り」感想

       

 

妻夫木聡綾野剛が全身でBL、それだけで1800円の価値あり。以上。

 

映画「怒り」の予告編を観るなり、「こ、こんな…綾野剛妻夫木聡がこんな…!」と、二人のラブシーンの為だけに映画館に足を運ぶことを決意し、

 

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実際に、妻夫木聡綾野剛のベッドシーンの為だけに、公開初日の初回から鑑賞に行った腐女子は私だけではないだろう。

 

ゆえにこれはもはや、「妻夫木聡綾野剛が劇場でカップル役をやる(SEXシーン有)」という企画を思い付き実現できた時点で勝ち、企画勝ち、川村元気様万歳!しかも、「役作りのために二人は本当に同棲していましたー」って話を至るメディアで垂れ流すというプロモーションの巧さまで乗っかっている、流石天下の東宝!!!映画といっても過言ではないと思うのだが、

 

制作者と俳優がちゃんと偉いのは、完全な企画倒れや出オチではなく、実際に萌えるものをやりきった事である。

予想より濃いラブシーン、具体的には、綾野剛が妻夫木の乳首を舐めて妻夫木が喘いだりしている! そして服装の着こなし全身の身のこなし、表情などから普段遊び慣れているであろうイケイケスーパー攻め様感漂いまくる妻夫木聡と、30歳も180センチも越えているくせに、そして本人はおそらく女好きのくせに、どうにも、繊細で儚く放っておけないゲイ役があまりにも巧すぎる綾野剛の名演、そしてそんな二人のバランスと“肌色”のコントラスト(色黒な妻夫木、色白で柔らかい綾野。綾野剛はこのために1か月で9キロも減量して筋肉を落としたらしいですね)が生み出すエロス。

しかも、二人の身のこなしは、“ホンモノ”感(妻夫木はイケイケ攻め様ゲイ、綾野は線の細く中性的な感じのゲイ)溢れまくる一方で、ストーリーはまさしく、「ボーイズラブ」の王道ときている。

つまりこれは、広告代理店に勤めるエリートサラリーマン、住んでいる部屋から推測するに金持ち、そして夜遊びに慣れていて、一夜限りの男をひっかえとっかえしている妻夫木が(BLにありがち設定)、ある日、行く場のない、子犬のような身元不明の男を拾い、甲斐甲斐しく世話をするうちに(BLにありがち設定)、いつしか愛着と愛情のようなものが芽生え、夜遊びや男漁りをするのに飽き(BLにありがち設定)、綾野剛に一身な愛情を注ぐようになっていくという話である。

 あー読んだわーこういうのBLで100回読んだわー

 

といったら若干の語弊があるだろうが、とにかく途中まではそういう話である。

なので、超人気俳優の妻夫木と綾野剛が全身でBLをやる、それだけで1800円の価値があります!!! 以上!!

で感想を終わりにしてもいいくらいなのだが、あと二点ほど褒める点を言えば、「弁当」と「宮崎あおい」であろうか。

 

弁当

 

「神は細部に宿る」ではないが、巧みな映画というのは、「その人物がどんな人間か」という全体像を浮かび上がらすための、人物の持ち物や些細な行動といったディテールの見せ方が上手いことが多い。

映画「怒り」の場合は、そうしたディテールとして、それぞれ「弁当」を用いていたように思う。

例えば、妻夫木聡綾野剛カップルの場合は、綾野がコンビニで購入した弁当。

仕事帰りの妻夫木は、コンビニを出た綾野が歩いている姿を、後ろからたまたま目撃する。片方で大きな白い袋、もう片方に、弁当の入った茶色いコンビニ袋を持つ綾野は、歩いているうちに弁当のバランスが上手く取れなくなってきて、ちゃんと平行になるように片手で、袋の中の弁当を動かそうとしたり調整したりしようとしばらく悪戦苦闘とする。この動作が非常にキュート。

この行為で、彼がどんなタイプの人間なのかと魅力を間接的に説明していると同時に、ここが、二人の関係の最初の分岐点になっているのも上手い。

たぶんそれまで妻夫木は綾野のことを単なるセフレ的にしか思っていなかったと思うのだけれど、このシーンで、後ろから綾野を見ていた妻夫木の表情に慈しみと愛情が生まれているのが分かる。

 

また、物語の軸になっている殺害事件の犯人とされる「山神」という男の部屋へ家宅捜索に入る場面。

あの部屋の風景は、ズボラで荒れた生活をしている人間なら、「わかるな~」と思うと思うのだけれど、流しに、カップラーメンのゴミとそれに一つずつ割り箸が刺さっている感じ(つまり、箸を持っていないかどっかやっちゃってるんだよね)、

そして、部屋に散らばる、一つずつ口を縛られた薄茶色の弁当用ビニール袋。大きなゴミ箱に仕分けして捨てるのが面倒なので、食べては購入したときの袋に戻し袋口を縛りそのまま部屋にポイしちゃうわけである。あの感じはまさにゴミ屋敷住人あるあるだと思うが、妙に違和感のあるのは、食べては袋縛ってポイ、と思うがままというわけではなく、その捨てられた弁当袋たちが各々「真っ直ぐに」整然と並べられているのである。この奇妙さが、

几帳面と荒廃、整然と雑然、明晰さと衝動、アンビバレントな二極を持つ山神という犯人の人物像の暗喩になっているように思う。

 

更に、同時進行していく別の物語である、宮崎あおい松山ケンイチの場合。

千葉の漁港から家出をして風俗嬢をやっていた愛子(宮崎あおい)は、ボロボロになって父親(渡辺謙)に実家へと連れ戻され、そこで、自分が家出をしている間に父親の会社で働き始めたという田代(松山ケンイチ)と出会う。

この出会いのシーンでも、昼食を食べていた松山ケンイチに、宮崎あおいが、本当は父親のために作って持って行った弁当の唐揚げを、「食べる?」と、手づかみでポイと松ケンの弁当箱に移す、という場面がある。

この、「手掴みで移しちゃう」感じが絶妙で、この動作によって観客は、あ、なんかこの人ちょっと…? と、直接的に明言はされていないけれど、彼女が抱えているであろう問題を悟るのだけれど、この、少し知能に障害があると思しき愛子という人物を演じる宮崎あおいがこれまた凄いのだよなーわざとらしい不快感が無いのだ。

 

宮崎あおい

彼女の裏出世作?「害虫」でも、イノセントでありながらそれゆえの女の毒、みたいな清楚系ファムファタールという矛盾存在を怪演していたが、宮崎あおいの魅力は、単に「可愛い」というところではなくて、やはりこういうイノセントと毒、みたいな役柄で発揮されるのかなあと改めて思った。

というか、30歳を越えて、愛子のような、子どもっぽい、というか、「明るく無邪気で悪い子ではないのだが少々言葉足らずで頭が弱い」それでいて、時たまこちらを射抜くような表情をする、天真爛漫性と頼りなさ、そして同時に仄暗い闇を併せ持った“少女”みたいな役が、観客への不快感もなく嘘臭さもなく、ちゃんと「実在感」を持ってできるのって、宮崎あおいくらいな気がする。吉高由里子とかがやるとわざと臭くなりそうだし。

良識ある大人役として出て来る池脇千鶴と、実年齢だけで言えばそんなに変わらないはずなのに、あのスクリーンで観たときの「大人と子ども」感、凄い。

なので、実を言えば、俳優皆それぞれ素晴らしいのだけれど、個人的には、この映画の中で一番、演技力に驚いたのが宮崎あおいだった。

 

「秘密」と「信頼」(※ここから真犯人など分かるネタバレ)

タイトル通り、妻夫木と綾野剛だけで行く価値はあるということで終了しているのでここからは蛇足だしネタバレだが、

では映画全体としてどうだったか? というと、ここまで色々ベタ褒めしている感じだけれど、さほど好きなタイプの映画ではなかったかもしれないのである。

前半の、カットの繋ぎ(宮崎あおい渡辺謙に、「これ私の言ってた東方神起」とイヤホンで音楽を聴かせようとするシーンから、音楽が流れるゲイパーティーシーンに転じたり、警察から電話がかかってきたので、焦って綾野剛の痕跡を消そうと荷物を捨てる妻夫木聡のシーンから、客の荷物を放り投げる森山未来の場面に移ったり、みたいな繋ぎの演出)などは、おーかっこいいと思ったし、

真犯人を巡る構成も、なるほどうまいなあとは思う。

具体的には、途中で「信じられなくなった」(こいつ犯人じゃね?)と思ってしまった二組が「シロ」で、ほぼ最後まで「信じていた」(疑いもしなかった)一組が「クロ」という後味の悪い、いやーな構成。(褒めている)

そして、その、ほぼ最後まで「信じていた」組に現れた男が、真犯人ではあるのだが、その悲劇的帰結は夫婦殺人事件とは直接関連がないという皮肉展開。

「信じられなかった」から壊れてしまった関係と、「信じていた」ゆえに悲劇に突き進む関係。

 

と、こういう構造を持ったプロットにするためにやりたかったことは分かるのだが、ただ、なんか、人物たちがわんわん泣いたり叫んだりする後半が冗長だし。

映画「怒り」は、東京・千葉・沖縄にそれぞれ現れた3人の身元不明な不審人物と交流が進む中で、「こいつ犯人じゃね?」と相手のことを信じられなくなる、しかし信じたい、相手のことを信じられるか、という愛と「信頼」が主軸テーマになっているのだけれど、映画だけ見ると、何で、彼の逃亡理由を聞かされ納得し相手を信頼し、周囲にもそう一身に伝えていた愛子(宮崎あおい)が、突然警察に田代を通報したのか、いまいちよく分からないし、そうして愛する相手のことを疑いたくないのに疑ってしまうようになる苦悩の過程が伝わってこないので、ワンワン泣かれても、「うーん…?」といまいち乗り切れない。

また、「よく分からない」といえば、直人(綾野剛)が、そこまで身元を必死に隠そうとする理由も映画だけ観ると謎である。

真相としては、施設暮らしで、心臓に病を抱えており仕事を辞め、ということらしいのだが、別に、なんか、それ、悪いことしてるわけじゃないんだし、言えばよくない…?

長く付き合って悲しませたくない恋人相手、とかならともかく、初対面時では、そこまで思い入れがあるわけでもなかった優馬(妻夫木)に、心臓が悪くて仕事を辞めて、って事情を隠す理由って何なんだろうか。

カフェで会ってた女は誰か? と訊かれて誤魔化す理由も、ちょっとよく分からんし、お前が、お前がそんなんだから、無駄にミステリアスぶるから妻夫木はさあ……!(いや妻夫木じゃなくて優馬だが)

 

しかし、よく考えると、「お前がそんなんだから」というのがポイントだったかもしれず、

作品のテーマとシナリオ上、「だから」直人(綾野剛)は最終的に孤独に死ぬ羽目になるのだ、とも言えるのではないか。

どういう事かというと、この作品の一つのテーマは「信頼」なのだろうが、この人物たちの「信頼」を各々読み解いていくと、それぞれは、「秘密」そして「罪悪感」の共有によって成り立っているのである。

だから、最後まで「秘密」を共有できなかった直人は一人で死ぬのだ。

 

たとえば犯人候補の一人、田代は、愛子に早々に、両親が借金を残したまま死んだので逃げ回らねばならないという自分の事情、自分が抱えている「秘密」を正直に話した。正直に話し共有することができたので、愛子との絆や信頼関係が生まれた。ここまでが中盤である。

だから、田代は最終的に、この映画中唯一の、「希望」の余地がある存在となる、と言いたいところだが、実際のところ、たぶん実はそうではなく、田代が生き延びちゃんと愛子たちの元に戻ることが出来たのは、

今度は、愛子と父親(渡辺謙)の間に、「無実の田代を警察に通報してしまった」という罪悪感を伴った「秘密」が生まれたからである。田代は、そんな二人の贖罪のために引き戻されたのであって、おそらく本質的には、この千葉ターンは、父娘の物語である。

 

そして、真犯人である森山未来が出て来る沖縄ターン。

(元ネタが完全に市橋達也ってことを鑑みると、この沖縄の離島でのサバイバルって点でもう犯人分かりそうだけど…)

広瀬すずが主要キャストとして名を連ねており確かに好演しているのだけれど、中盤から広瀬すずは不在になっていき、広瀬すず演じる泉の友人である辰哉と田中(森山未来)の話と化していく。

 

辰哉が酔っぱらってフラフラしたせいで、那覇で、米兵にレイプされる泉(広瀬すず)。

辰哉は、そんな場面を見ていたのだけれど、見ていたのに助けることが出来なかった。

この、「見ていたのに助けることができなかった」という自身の秘密を、辰哉は田中と共有する。田中は、「自分も実は見ていたが、ポリス!という声をあげることしかできなかった」と自らに憤る。

「彼女に何もできなかった」というと、泉のことを想っているようだが、突き詰めるとここに「泉」はいないように思う。彼らつまり辰哉と田中は、「泉がレイプされているのを見過ごした」自分という罪悪感を共有し、「でも相手も同じだ」と安堵し、ゆえに絆と信頼を深めて行くのである。

 

小説だと、「下着を下されたところで叫び声が聞こえたので米兵たちは退散」になっているけれど、映画だとおそらく挿入までされてしまっている。

なので、ポリスと叫んだのは誰か、みたいなのは少なくとも映画ではどうでもよくて、映画での辰哉は、田中が、ポリスと叫んで撃退してくれたから彼を信じた(そしてそうではなかったから裏切られたと思った)のではなく、彼女へのレイプを防げなかったという罪悪感の伴った秘密を共有していたからこそ、彼を信じていたのだ。

 

だから、最終的に、辰哉が田中(森山未来)を殺すほどの怒りの元になったのは、

彼が住んでいた小屋に、「女が米兵にレイプされていた、知り合いの女だった、最後までヤれよ根性なし」(詳細は違うがこんな感じ)みたいなことが書かれていた、すなわち、泉が「誰にも言わないで」と必死に懇願していた秘密を、誰かに見られる恐れのある場所に残していた、というのもありつつ、

本当のところは、この、「見ていたのに助けることが出来なかった」という罪悪感を、田中は自分と共有してくれていなかった、田中は全然悪いと思っちゃいなかった、自分と同じではなかったのだ、という絶望の方が大きかったからこその、

「信じていたのに」なのだ。

 

という点から考えると、直人と優馬の間にだけ、こういうの、特に何もないのが分かる。

家出して風俗嬢、という経歴が近所中で噂になっており、「自分なんか、田代くんみたいな(事情を持った)人でないと相手にされない」とか思っている愛子とか、上に書いたような罪悪感のある辰哉などとは違って、優馬には別に、「他人と共有しないと押し潰されそうな苦悩」みたいなのは無いように思えるし、

実際に直人にそれを押し付けたり見出したりもしないし、

直人の方も、最後まで何も、優馬へ自らの秘密を語ろうとしない。

 

ゆえに、作劇上、役割上、直人は優馬と会えずに孤独に最後を迎える、迎える羽目に「ならなければいけない」のである。

罪悪感を伴った秘密の共有=信頼 という映画内でのルールから外れている組だからである。 

 

という解釈だと、「何でそんなに隠すのかよく分からない」のは、意図的なのかもしれないしこういう対比構造みたいな、やりたいことはよく分かるのだが、

ただ、そうやって、その構成とプロットの為に配置された人物の行動が、突如として不自然になるという欠点が何となく拭い切れないのは、どうかなあと思う。

 

 

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鑑賞日:2016年9月17日