センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた25歳。ボーイズラブの話多し。

多様性の絶望と希望――書評・『コンビニ人間』村田沙耶香

普段読書をしない人からすれば、芥川賞直木賞の違いなんて心底どうでもいいかもしれないが、芥川賞というのはべつに、「その半年で一番面白かったとされる本」に与えられるものではないことくらいは知っておいてもいいと思う。

 

直木賞が、ある程度キャリアを積んだ作家の大衆小説を対象としているのに対して、芥川賞は、主に新人の、純文学について選考した登竜門的な賞であるから、読書に馴染みが無い人にとってみれば、話に分かり易い起承転結がないとかドキドキワクワクするような事件が起きないとか文章やテーマが観念的でよく分からないとか読ませる文章で何となく余韻は残るが別に展開は面白くないとか、

まあ大抵の場合、良くも悪くも、「ブンガク」なのだ。

 

だが、この度芥川賞を受賞した村田沙耶香『コンビニ人間』 は、

それこそもう、Amazonの一番上のレビューが全てであるように思う。

 

 

 
幼少時、喧嘩を止めてと言われたので一番早い方法だと思ってスコップで同級生の頭をぶん殴ったり、小鳥が死んで可哀想と皆泣いているのに、「鳥が死んでるよ、焼き鳥にして食べよう、お父さん好きだから喜ぶよ」と母親に言ってぎょっとさせたり、
 

さながら『寄生獣』のミギーのような、根本的なところで「人間社会の倫理」が理解できないサイコパス系主人公、というキャラクター設定、

 

何をしてもそうしてドン引きされる主人公・古倉恵子は、18歳になるとようやく、

「振る舞い方の正解」がマニュアルとして提示されるコンビニエンスストアという場で「コンビニ店員」という居場所を得るが、そのまま36歳にもなると、また別の意味で、「おかしい人」というレッテルを貼られることに気付いていく。

30代半ばにもなって、まともな就職も、あるいは結婚や出産もせず、未婚コンビニアルバイトという立場を、奇異の目で見る地元の知人たち、

そんな折、アルバイト先のコンビニに新人店員として現れた、白羽という男。

 

自分も未婚コンビニアルバイトの癖に、コンビニで働く奴なんてクソだ底辺だと罵り、恵子にも、

 

「あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」

 

と言い放つ白羽に対して、恵子はある提案をする。

そんなに、結婚か就職かどちらかしていないと「普通の人間社会」から排除されるというのならば、自分と婚姻しないか、と。

 

この、絶対に月9トレンディドラマや少女漫画にはならないだろう、

あまりにも最底辺すぎる、「契約結婚」物語――

 

 

そう。芥川賞なのに、というか、芥川賞のくせに、

ちゃんと、「エンターテイメント」しているのだ。

 

しかもこの小説が凄いのは、それでいて、しかし確かに「文学」であるという点だ。

文学とは何ぞやという話をし始めると日が暮れるが、個人的にポイントとしたいのはやはり、「テーマ」と「メタファー」である。

物語が単に物語としてのみ存在するのではなく、テーマのために物語があること、舞台設定や登場するアイテムが単なる趣味や物語装置のためでなく、テーマの巧妙なメタファーとして機能していること。

 

作中の“コンビニエンスストア”は当初、「標準化」社会の象徴として登場する。

店員は、マニュアルに基づいた「店員」という役割を演じる。そこで提供されるサービスや商品は昨日も今日も明日もほとんど変わらない。マニュアル通りに、「店員」の役割を振る舞えない人間や、何か通常とは異なる動きをする客は、すぐに空間から排除される。

我々の社会もこれを複雑・拡大化したもので、「普通の人間」という役割ができない者は、異常者、役立たずとして邪魔者扱いされ世界から追いやられてしまう。

  

良きフィクションはしばしば現実世界を先取りする。

 

自分は前から比較的著者のファンで、

『コンビニ人間』は発売日当日に読了したのだが、

折しも、その前日、2016年7月26日には、戦後最悪級の大量殺人事件、相模原障害者施設殺傷事件が起き、世間に震撼を与えていた。

ゆえに私はこの、『コンビニ人間』を非常にタイムリーなものとして感傷的に読んでしまったのである。

 

相模原障害者施設殺傷事件の犯人は、「障害者は社会の迷惑になるから殺すべし」という考えの元、19人もの障害者を次々と殺害した。

むろん、いくら心の中でどう思っていても、実際に人を殺す人間というのは極々少数派だろう。

しかし、この、「社会の役に立たない人間は死んでもいい」という発想は、『コンビニ人間』で描かれていた様な、金を稼ぐか子孫を残すかで社会に還元しない者は、「おかしい人」として排除もしくはなんで結婚しないのなんで就職しないのなんでなんでと無遠慮に審判してもいいという、我々が心の奥底で実は持っている価値観と同質のものではないか。

 

 だが、植松聖容疑者の言うとおり、仮に、「障害者を全て安楽死させた世界」を実現したとして、その世界に「平和」と「幸福」は訪れるだろうか。

問うまでもない。

 その次に現れるのは、また新たな「厄介者」であり、新たな「社会の役立たず」である。そうなったとき、私は殺されない自信は全くない。

社会がある限り、ピラミッドは常に形成され続けるし、『コンビニ人間』の後半部分でも描かれていた通り、何を以て「普通」か、何を以て、「役に立つ人間」か、という基準には、結局のところ明確なラインも終わりもないのだ。

 

私はこのうんざりするような事実が、しかし、「何故社会の役立たずを殺してはいけないか」という問いの理由となっているように思う。

 「皆、かけがえのない大切な命だから」ではない、ほんとうのところは逆なのだ。

(地球の生命の一つである人間という種として見た場合)、「かけがえのない命」など実は別にどこにもない。

逆説的な言い方だが、ゆえに、「だから誰も殺してはいけない」(ということにしなければならない)のである。

 映画「シン・ゴジラ」ではないが、この国では、総理大臣にだって替りがいるし死んだって世界は崩壊しない。

死んだら終わる人間がいないということは、誰のことも、「殺す理由」を作ることが出来るということだ。その「殺す理由」は誰かの恣意でいくらでも変わる、ユダヤ人だからとか異教だからとか政治的思想が同じでないとか、金をどのくらい稼ぐかなんてのは一つの価値観に過ぎないのであって、ポル・ポトは知識人の方を殺した。眼鏡をかけているからとか文字が読めるからとかそんな理由で。

つまり、「殺す理由」は、その時の「殺す事を決めた“誰か”の価値観」によって決まるに過ぎない。

 

だからこそ、私達は“誰”にも、“何”にも、一切の殺す理由と権利を与えてはならないのだ。

一旦、「誰か」もしくは「何か」に審判の権利を許したとき、我々は全員、いつか殺される理由を持つことになる。

何を以て、役に立つ、社会に有用な意味のある人間か、なんてのは、非常に曖昧でかつ移ろいやすくまた価値観や環境によって左右されるものであるから。

 

 

だが、『コンビニ人間』は、そんな社会的排除の残酷さと絶望を鋭く炙り出した作品である一方で、ひとつの「希望」の在り方を描いた書でもある。

 

自分を馬鹿にしてきた周囲を見返すプランを語る白羽に向かって、主人公の恵子は言う。

 「え、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」

 それは結局、世界を全面的に受容することなのでは――」

 

記憶する限り、似た様な台詞は、村田沙耶香が、スクールカーストを描いた別作品、『しろいろの街の、その骨の体温の』 にも出て来ていた。おそらく彼女自身が抱いている考え方なのであろう。

○○を持っていないから(○○=例えば、恋人、金、美貌等)という理由で自分を馬鹿にしてくる人達を、将来的に「○○を持つこと(=素敵な恋人をつくり綺麗になって金持ちになる)」ことで、「見返そう」とするのは、結局のところ、自分を排除する人間たちと同じ価値観を受け入れて、その基準の元で自身の生き方を決定していることにほかならない、という点で同じ穴の貉に過ぎないのではないか。

これは非常に鋭い観点である。

 

だからこそ、主人公は最後に、「結婚をすることで普通と思ってもらう道」つまり白羽や周囲が持っていた価値観で形成されたピラミッドと決別するのだ。

コンビニエンスストアの「正解」に基づいて適切な行動が出来る自分は、コンビニエンスストアの中だけでは、有用で優秀で必要とされている人間でそのことが自身を支えている、居場所になっている、幸福になっている、生きる理由になっている。 

「極端に標準化された空間」のメタファーであるはずだったコンビニエンスストアが、このラストにきて、多様性を持った人間が共生するためのユートピアのあり方――つまり、各々が主人公にとっての「コンビニエンスストア」を持ち、かつ誰も他人の「コンビニエンスストア」を審判・価値づけ・干渉しない事――に反転することも、本作の面白さの一つであろう。

 

 

●2016年7月27日 読了

●2016年8月8日   記す