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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

心が疲れたときに読みたい本5選 (ダメ人間あるいはクリエイティブワナビー読本)

今週のお題「プレゼントしたい本」

■今回紹介する本                                                                                 

  1. 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町/中島らも
  2. 失踪日記/吾妻ひでお
  3. 負ける技術/カレー沢薫
  4. 鴻池剛の崖っぷちルームシェア 犬と無職とバンドマン/鴻池剛
  5. 無名作家の日記/菊池寛 

 

 

先日、『ダメ人間・石川啄木と献身不憫な金田一京助やおいが読みたい』というタイトルのブログを、Yahooの記事に乗っかるような形で公開したら、

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

石川啄木 ダメ人間” “啄木 ダメ男” みたいな検索ワードからの流入が増えた。

 

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教科書などで、仰々しく偉人・天才として教えられるような人間が、実はクズだったみたいな話は、あいつも人間だったか的な、自分たちが理解できるレベルまで引きずりおろす親しみやすさというか(という意味では、女性の科学者がムーミン好きみたいなことを報道しがちな感性と似た様なものなのかも)、

何だ自分とそこまで変わらないではないかという(実際は絶対にそんなことないが)共感というか、こんなに駄目でも教科書で紹介されるような人物になれるのだという仄暗くセコい自己肯定感の助けになるというか、とかく大衆の心を掴みがちな話題ではある。

と、他人事のように書いたが、むろん私も大好きだ。むしろ、そういう話こそ一番好きだ、と言ってもよい。

「人生で一番影響を受けた本は」と訊かれたら、中島らもの『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』と吾妻ひでおの『失踪日記』、好きな人物は、石川啄木坂口安吾、つまり、何か一芸に秀でたり天才的能力がある一方で、通常の生活能力や倫理観が破綻しているような、破天荒型芸術家のような人物の自伝や評伝、ノンフィクションが好きなのだ。

何故かと言えばこれは理由は単純で、自分自身が、生活能力や倫理観の破綻したクズだからである。とは言え自分自身に一芸や天才的能力は無いので、“ある”人の話を読んで自己を慰める、というわけだ。これが、仄暗くセコい自己肯定の助け、陰気な愉しみ、という意。

 

というわけで、何やら、胡散臭いほっこり啓発(ほっこり啓発って矛盾した言葉だが)みたいなタイトルを付けてしまったけれど、何もかも嫌になったり追い詰められたりした時、真っ当な人間になるべく改心も努力もしたくないけれど、ほっこりも癒しも馬鹿にしきっている、むしろ何となく駄目っぽい話を読んで自己を重ね、陰気でせせこましい肯定感を得る私のようなダメオブダメ人間のための本を5つ集めてみたので、是非、20歳を越えても絶賛モラトリアムの止まらない人に読んで欲しいと思う。

 

■僕に踏まれた町と僕が踏まれた町/中島らも

後でも紹介するカレー沢薫氏がよく、「中学まで勉強が出来た」という実績は、後の人生の足を引っ張るための要素だ、みたいなことを言っているが、堕落or破天荒系で名を成す人物というのは確かに、「中学校まではトップレベルの優等生だった」ということが少なくないように思う。石川啄木もそうだ。

地頭は悪くない、洞察力や周囲を記述する力もある、ゆえに自尊心と自意識が高い、しかしそういう人物の一部は、しばしば退屈ないしは慢心ゆえに勉強をサボり出す。

サボり出しても、中学までは周りのレベルが低いので何とかなるが、似たような偏差値が集う高校になるとそうもいかない。落ちこぼれる。落ちこぼれても、「真面目にコツコツ勉強する」という習慣が全く身に着いていないのでどうしようもない。しかもプライドが高いので、「落ちこぼれて価値の無い自分」という自己像が耐えられない。なので、「進学校に於ける偏差値」というルート以外に、自分の「存在価値」を見出そうとする、それが、漫画だったり文学だったり音楽だったり、もろもろ―何とか、「しかし自分はセンスが良くて洞察力と才能と価値のある人間のはずだ」の根拠を模索していこうとするのである。(それで更に通常ルートからは落ちこぼれる)

それで本当に芽が出たごく一部の人物は著書等を残していくし、くすぶったままのニートたちは2ちゃんねるで呪詛を呟き続ける。

 

かくいう自分も、中学の中間期末テストでは学年2位~5位をキープ、高校でも入学したときは学年3位だったが、例によって学習習慣的には完全に破綻しており、「課題」というのを期限通りに提出することに非常な苦しみを感じていた。課題が出せないと、「居残り」を延々とさせられるのだが、私は放課後の99%をこの居残りに拘束されていた。にも関わらず、おそらく、中学・高校で出た課題の80%くらいは提出しないまま卒業したのだった。

そんな風だから、真面目で素朴で教師の言うことをよく聞き、国立大学を目指す受験一辺倒の中堅進学校では完全に浮いていて、しかし一方で、「このままだとダメかも」という焦りはどこかにあるにはあるのだ。

 

そんな将来への焦りの緩和剤として、この、中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』をよく読んでいた。

中島らも氏は、田舎の進学校とはわけが違う。日本屈指の進学校、東大京大以外は落ちこぼれ、の「灘校」に、8番の成績で入学したという。

本書では、その輝かしい実績から一転、文学・ロック等々にのめり込みあっという間に成績は急降下、期末テストも受けず、授業にも出ず、落ちこぼれ仲間たちと校内で酒を飲んだり、喫茶店でぐだったりする高校時代、当然のように受験には失敗するも予備校をサボり続ける浪人時代、一浪後入学した大阪芸術大学での学生時代の日々が、エッセイとして書かれている。

ダメ同士が集って悪戯やサボりを繰り返す日々、それは楽しそうで、自分には無い青春の仮想体験のようにも読めるし、「自分にはきっと何かあるはずだけどその何かを上手く形にできない」モラトリアム期の鬱屈に自己を重ねる。対話と共感と追体験。私はずっと、学校に友達がいない代わりに、中島らもの本を一番の友達にしていた。

そして何より、世の中にはこんな人もいたけれどこの人はこうして著書を出すほど活躍しているし? という、恰好の逃避の材料でもあったのだった。

 

失踪日記吾妻ひでお

こちらも、もう一つの、「人生の書」。私はこれを主に、逃避行の疑似体験用によく読んでいた。いや現在進行形で今もよく読んでいる。

失踪日記』のタイトル通り、かつて、一世を風靡した漫画家だった吾妻ひでおが、徐々に漫画が描けなくなり、アルコール中毒鬱病、妄想・幻覚などに悩まされ、ついぞ自宅から失踪した日々のことを描いたエッセイ風コミックである。

自殺しようとしても死にきれず、ゴミを漁り野宿をし失踪ホームレス生活や、失踪先で見つけたガス配管工としての仕事経験、アルコール中毒の治療先であるアル中病棟での生活、

文字だけで見るとむろん凄まじく壮絶でかなり苦しい体験であったはずで、いくらでも暗く鬱々とした深刻な話にしようがあるとは思うが、そこはさすが、ギャグ漫画家ということもあり、少々可愛らしさもある絵柄、当事者であるはずの吾妻氏の冷めた視線からなる語り口、淡々としたしかしキレのあるツッコミの言語センス、などでエンターテイメントとしての漫画作品に昇華している。

ホームレス、ガス配管工時代の同僚、アル中病棟の患者、出て来る人物も皆一様に胡散臭くておかしい。(私のお気に入りはサディストでひねくれもので社長の前だけは良い子の配管工の柳井さん)

 

時にはうどんまで作ったり、油を使ったマヨネーズ、漬物、などなど捨てられていた食べ物や器具で路上生活を成り立たせていく詳細描写は、ある種、実用サバイバル物としての面白さもあり、「職にあぶれても意外と何とかなるのでは?」と思わせてくれるほどで、いざとなればこういう風に逃げよう、という妄想が掻き立てられる。まだ実行には移していないが。

 

■負ける技術/カレー沢薫

 

漫画家なのだがたぶん漫画よりコラムの方が上手いカレー沢薫氏。(別に漫画がつまらないというわけではなくて、絵は下手寄りにせよ、女性向けファッション誌やスイーツ(笑)もサブカルもブスも多方向に切れ味鋭くdisりまくる『アンモラル・カスタマイズZ』 など傑作もある)

実際に、コラム集であるこの文庫だけは5刷など好調らしい。

「高校時代に男子と会話したのは二度だけ」「クラスからあぶれそうなオタク同士でつるんでるだけだから卒業後は一切連絡とっていない」などの非リアあるあるを始め、新卒で入社したブラック会社を9か月で退職、無職、派遣切り、ハローワーク通いといった経歴やその頃の生活が自虐的かつコミカルに語られるが、単なる“あるある”話に留まらずちゃんと笑いとして成立しているのは、類いまれなる観察力とキレキレの言語センスゆえだろう。

 

例えば、『桐島、部活やめるってよ』について、

“この小説には、真にイケてない生徒は登場しないのだ。ダサくてオタク気質の生徒は出てくるが、その生徒視点で数十ページも話がもつ時点で全然イケてなくない。2ページぐらいで書くことがなくなってこそ、イケてない生徒である。”

 

また、巷に溢れる少女漫画について、

“地味で冴えない女性が突然イケメンと恋愛するというのは、女性向け漫画で乱発されている設定であるが、けっして奇跡を描いているわけではない。ヒロインは格好がダサかっただけで本当は可愛かったとか、性格が良いとか、最初はダメだったが恋をすることで前向きに成長したとかの設定がついているのである。つまりイケてない女にとってはそれらの漫画は、同志が活躍する話などではなく、主人公が仲間のふりをした「裏切りの書」であり、読後に出て来る言葉は「ユダめ!」か「ブルータスお前もか!」なのだ。”

 

リア充について、

“「A組のリア山爆発しろ」などと具体的にイメージできる人は、私から言わせると非リア充としてのレベルが低い。なぜなら、リア充にちゃんとした恨みを持てるだけの接点があるからだ。(中略) 真の非リア充は、己の中の「リア充のイメージ」という実在しない敵と戦っているのである”

 

などなど、非リアと非モテと何かをこじらせまくった自意識過剰なオタクについての名言のオンパレード。学生時代に冴えなかった人間必読の書である。

この『負ける技術』が好評を博し、続編である、『もっと負ける技術 カレー沢薫の日常と退廃』

 

も出版されているが、こちらも、相変わらずの自虐と非リア芸に加え、

作者が田舎の進学校にはあるまじき「漫画家になりたいから漫画の専門学校に行きたい」という夢を語り反対されたので、何とかカタカナで煙に巻いてグラフィックデザインの専門に通うも、特に漫画を完成させずひたすら既存イケメンキャラの得意な向きの顔だけを描き続けたりデザインに全く関係ない仕事に就いたりしてから一転、見事講談社でデビューに至るまでの詳細や、漫画の描き方、兼業先との生活リズム、道具などについても書かれているので、そっち方面に興味がある人が読むと更に面白いと思う。

個人的には、作画時のBGMには、気分を奮い立たせるため、「とにかく自分よりキツい人が出てくる物を流したい」ので、「八甲田山」のヘビーローテーションが最適、というまでのくだりが、共感できそうでギリギリ共感できない斜めに一歩進んだぶっとび、これぞカレー沢節、という感じで最高だった。

 

(※ちなみにその、最適な作業BGMについてのコラムはWeb上でも読める)

news.mynavi.jp

 

 

 ■鴻池剛の崖っぷちルームシェア 犬と無職とバンドマン/鴻池剛

 

Twitterで70万人くらいフォロワーがいる(2016年9月15日時点)鴻池剛について、ずっと、「本業は他にあるがTwitterで趣味で猫の漫画を描いていたらバズって人気出て単行本まで出した人」とばかり思っていたのだけれど、実はちゃんと昔から漫画家を目指していた人だったらしい、と最近知った。

こちらのコミックは、23歳の頃、仕事は折悪く派遣切りにあい無職と化し、居候されていたクズの友人に、かろうじて15万円残っていた貯金を全て盗まれ、路頭に迷いそうになった頃、吉祥寺に住んでいたバンドマンの叔母さんに拾ってもらった時の話が描かれている。

叔母さんカップルの部屋に居候をしながら、日雇い派遣で食いつなぐ日々。

漫画を描かねばと思ってはいるが寝たり携帯をいじったり犬と遊んでいるうちに一日があっという間に過ぎて行くといった生活の様子、は、何かをしなければいけないとは思っているが何もできないモラトリアム青少年の焦燥として普遍的なものとして心に迫る。

ただ、こちらも『失踪日記』と同様、ある種、実践のための貧困サバイバル的要素というか、「金がないので明日までに3万円用意しろ」と叔母さんに言われ、自分だって無い…と困っているときに、叔母さんの彼氏に「いい方法がある」と提案されたのが、消費者金融での借金(叔母カップルは二人とも限度額ギリギリなので借りられない)であったり、

「家賃と違い、公共料金はインフラなので、滞納してもしばらく大丈夫。一番先にガスがとまる、水は最後まで止まらない」(結果的にガスと電気を止められてたりする)などなど、若干勉強になったりして楽しい。

 

が、読了後は、たまたま猫の漫画がバズった人だとばかり思っていてちょっと申し訳なくなった。

 

■無名作家の日記/菊池寛

 

あらかじめ断っておくと菊池寛は全く別に駄目人間というわけではないので毛色が違うが、

『無名作家の日記』は、文字通り、仲間の芥川龍之介なんかが華々しく文壇デビューを飾り東京でどんどん自分を引き離していく中で、自分には文学の才能なんかないのではないか、しかし自分だって有名になりたい…と京都で延々くすぶっている時代のことが書かれた日記風小説だ。というかほとんど芥川への嫉妬と呪詛である。(ここでの芥川=山野 は、「京都どうっすかw?少しは文学らしいものがある?」とdisってきたり、「俺らはもう同人やるんだよねー」とかわざわざ自慢してきたり(主人公は誘わない)、誘ったと思ったら、「つまんね」と突き返して来たり、物凄い嫌な奴に書かれている。でも後年菊池寛芥川賞を作っているので仲が悪いというわけではないのだろうが)

 

物語は、著者自らをモデルにしたと思しき主人公が、京都にやってきて、散々、自分には才能がないのでは、芥川憎し、を繰り広げたあと、結局最後には、自分みたいな平凡な人間は田舎で教師でもやって平和な生活に入ればいい、第一、今の流行作家の作品で後々にも名作として残るのなんかいくつあるんだ、そんな空虚な肩書きに憧れていたなんて恥ずかしい、芥川の作品だって数十年もすれば埋もれる!

と納得させているのだけれど、芥川龍之介は2000年を15年過ぎてもちゃんと名作として読まれているし、菊池寛菊池寛で、しっかり有名になって文藝春秋社を創設するみたいな大きな実績を残しているしで、「結果」を知っている現代の視点で読めばというか現代の視点だからこそ面白いのだけれど、当時の菊池寛としては切実な苦しみだったのであろう。

このあたりの苦悩が、非常に名文なので、長くなるが引用する。

 

 が、俺はこの頃、つくづくある不安に襲われかけている。それはほかでもない。俺は将来作家としてたっていくに十分な天分があるかどうかという不安だ。少しの自惚うぬぼれも交えずに考えると、俺にはそんなものが、ちょっとありそうにも思われない。東京にいる頃は、山野や桑田や杉野などに対する競争心から、俺でも十分な自信があるような顔をしていた。が、今すべての成心を去って、公平に自分自身を考えると、俺は創作家として、なんらの素質も持っていないように思われる。
 俺は、文学に志す青年が、ややもすれば犯しやすい天分の誤算を、やったのではあるまいかと、心配をしている。このことを考えると嫌になるが、青年時代に文学に対する熱烈な志望を語り合い、文壇に対する野心に燃えていた男が、いつが来ても、世に現れないことほど、淋しいことはない。俺も彼らの一人ではあるまいかと思う。人生の他の方面に志す人は、少しぐらいは自分の天分を誤算しても、どうにかごまかしがつくものだ。金の力、あるいは血縁の力などが、天分の欠陥もある程度まで補ってくれる。が、芸術に志す者にとって、天分の誤算は致命的の失策だ。ここでは、天分の欠陥を補う、なんらの資料も存在していないのだ。黄金だと思っていた自分の素質が日を経るに従って、銅や鉛であったことに気がつくと、もうおしまいだ。天分の誤算は、やがて一生の違算となって、一度しか暮されない人生を、まざまざと棒に振ってしまうのだ。昔から今まで、天分の誤算のために、身を誤った無名の芸術家が幾人いたことだろう。一人のシェークスピアが栄えた背後に、幾人の群小戯曲家が、無価値な、滅ぶるにきまっている戯曲を、書き続けたことだろう。一人のゲーテが、ドイツ全土の賞賛に浸っている脚下に、幾人の無名詩人が、平凡な詩作に耽ふけったことだろう。無名に終った芸術家は、作曲家にもあっただろう。俳優にも無数にあっただろう。一人の天才が選ばれるためには、多くの無名の芸術家が、その足下に埋草となっているのだ。無名の芸術家でも、その芸術的向上心において、芸術的良心において、決して天才の士に劣っているわけはないのだ。彼らの欠点はただひとつである。それは彼らの天分が、どんなに磨きを掛けても輝かない鉛か銅であることだ。(「無名作家の日記」菊池寛)

 

成功し世に出た人の、駄目エピソードやモラトリアム時代の話を読むと、「何だこの人にもこんな時代が」と思えてどうにも嬉しくなるものだが、菊池寛の言う通り、その足元には、まさに、特に芽が出ないまま冴えない低空飛行の人生を終えた何万人もの無名な人間の屍が埋まっているのである。