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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

妻夫木聡と綾野剛のベッドシーンだけで1800円の価値あり!―映画「怒り」感想

       

 

妻夫木聡綾野剛が全身でBL、それだけで1800円の価値あり。以上。

 

映画「怒り」の予告編を観るなり、「こ、こんな…綾野剛妻夫木聡がこんな…!」と、二人のラブシーンの為だけに映画館に足を運ぶことを決意し、

 

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実際に、妻夫木聡綾野剛のベッドシーンの為だけに、公開初日の初回から鑑賞に行った腐女子は私だけではないだろう。

 

ゆえにこれはもはや、「妻夫木聡綾野剛が劇場でカップル役をやる(SEXシーン有)」という企画を思い付き実現できた時点で勝ち、企画勝ち、川村元気様万歳!しかも、「役作りのために二人は本当に同棲していましたー」って話を至るメディアで垂れ流すというプロモーションの巧さまで乗っかっている、流石天下の東宝!!!映画といっても過言ではないと思うのだが、

 

制作者と俳優がちゃんと偉いのは、完全な企画倒れや出オチではなく、実際に萌えるものをやりきった事である。

予想より濃いラブシーン、具体的には、綾野剛が妻夫木の乳首を舐めて妻夫木が喘いだりしている! そして服装の着こなし全身の身のこなし、表情などから普段遊び慣れているであろうイケイケスーパー攻め様感漂いまくる妻夫木聡と、30歳も180センチも越えているくせに、そして本人はおそらく女好きのくせに、どうにも、繊細で儚く放っておけないゲイ役があまりにも巧すぎる綾野剛の名演、そしてそんな二人のバランスと“肌色”のコントラスト(色黒な妻夫木、色白で柔らかい綾野。綾野剛はこのために1か月で9キロも減量して筋肉を落としたらしいですね)が生み出すエロス。

しかも、二人の身のこなしは、“ホンモノ”感(妻夫木はイケイケ攻め様ゲイ、綾野は線の細く中性的な感じのゲイ)溢れまくる一方で、ストーリーはまさしく、「ボーイズラブ」の王道ときている。

つまりこれは、広告代理店に勤めるエリートサラリーマン、住んでいる部屋から推測するに金持ち、そして夜遊びに慣れていて、一夜限りの男をひっかえとっかえしている妻夫木が(BLにありがち設定)、ある日、行く場のない、子犬のような身元不明の男を拾い、甲斐甲斐しく世話をするうちに(BLにありがち設定)、いつしか愛着と愛情のようなものが芽生え、夜遊びや男漁りをするのに飽き(BLにありがち設定)、綾野剛に一身な愛情を注ぐようになっていくという話である。

 あー読んだわーこういうのBLで100回読んだわー

 

といったら若干の語弊があるだろうが、とにかく途中まではそういう話である。

なので、超人気俳優の妻夫木と綾野剛が全身でBLをやる、それだけで1800円の価値があります!!! 以上!!

で感想を終わりにしてもいいくらいなのだが、あと二点ほど褒める点を言えば、「弁当」と「宮崎あおい」であろうか。

 

弁当

 

「神は細部に宿る」ではないが、巧みな映画というのは、「その人物がどんな人間か」という全体像を浮かび上がらすための、人物の持ち物や些細な行動といったディテールの見せ方が上手いことが多い。

映画「怒り」の場合は、そうしたディテールとして、それぞれ「弁当」を用いていたように思う。

例えば、妻夫木聡綾野剛カップルの場合は、綾野がコンビニで購入した弁当。

仕事帰りの妻夫木は、コンビニを出た綾野が歩いている姿を、後ろからたまたま目撃する。片方で大きな白い袋、もう片方に、弁当の入った茶色いコンビニ袋を持つ綾野は、歩いているうちに弁当のバランスが上手く取れなくなってきて、ちゃんと平行になるように片手で、袋の中の弁当を動かそうとしたり調整したりしようとしばらく悪戦苦闘とする。この動作が非常にキュート。

この行為で、彼がどんなタイプの人間なのかと魅力を間接的に説明していると同時に、ここが、二人の関係の最初の分岐点になっているのも上手い。

たぶんそれまで妻夫木は綾野のことを単なるセフレ的にしか思っていなかったと思うのだけれど、このシーンで、後ろから綾野を見ていた妻夫木の表情に慈しみと愛情が生まれているのが分かる。

 

また、物語の軸になっている殺害事件の犯人とされる「山神」という男の部屋へ家宅捜索に入る場面。

あの部屋の風景は、ズボラで荒れた生活をしている人間なら、「わかるな~」と思うと思うのだけれど、流しに、カップラーメンのゴミとそれに一つずつ割り箸が刺さっている感じ(つまり、箸を持っていないかどっかやっちゃってるんだよね)、

そして、部屋に散らばる、一つずつ口を縛られた薄茶色の弁当用ビニール袋。大きなゴミ箱に仕分けして捨てるのが面倒なので、食べては購入したときの袋に戻し袋口を縛りそのまま部屋にポイしちゃうわけである。あの感じはまさにゴミ屋敷住人あるあるだと思うが、妙に違和感のあるのは、食べては袋縛ってポイ、と思うがままというわけではなく、その捨てられた弁当袋たちが各々「真っ直ぐに」整然と並べられているのである。この奇妙さが、

几帳面と荒廃、整然と雑然、明晰さと衝動、アンビバレントな二極を持つ山神という犯人の人物像の暗喩になっているように思う。

 

更に、同時進行していく別の物語である、宮崎あおい松山ケンイチの場合。

千葉の漁港から家出をして風俗嬢をやっていた愛子(宮崎あおい)は、ボロボロになって父親(渡辺謙)に実家へと連れ戻され、そこで、自分が家出をしている間に父親の会社で働き始めたという田代(松山ケンイチ)と出会う。

この出会いのシーンでも、昼食を食べていた松山ケンイチに、宮崎あおいが、本当は父親のために作って持って行った弁当の唐揚げを、「食べる?」と、手づかみでポイと松ケンの弁当箱に移す、という場面がある。

この、「手掴みで移しちゃう」感じが絶妙で、この動作によって観客は、あ、なんかこの人ちょっと…? と、直接的に明言はされていないけれど、彼女が抱えているであろう問題を悟るのだけれど、この、少し知能に障害があると思しき愛子という人物を演じる宮崎あおいがこれまた凄いのだよなーわざとらしい不快感が無いのだ。

 

宮崎あおい

彼女の裏出世作?「害虫」でも、イノセントでありながらそれゆえの女の毒、みたいな清楚系ファムファタールという矛盾存在を怪演していたが、宮崎あおいの魅力は、単に「可愛い」というところではなくて、やはりこういうイノセントと毒、みたいな役柄で発揮されるのかなあと改めて思った。

というか、30歳を越えて、愛子のような、子どもっぽい、というか、「明るく無邪気で悪い子ではないのだが少々言葉足らずで頭が弱い」それでいて、時たまこちらを射抜くような表情をする、天真爛漫性と頼りなさ、そして同時に仄暗い闇を併せ持った“少女”みたいな役が、観客への不快感もなく嘘臭さもなく、ちゃんと「実在感」を持ってできるのって、宮崎あおいくらいな気がする。吉高由里子とかがやるとわざと臭くなりそうだし。

良識ある大人役として出て来る池脇千鶴と、実年齢だけで言えばそんなに変わらないはずなのに、あのスクリーンで観たときの「大人と子ども」感、凄い。

なので、実を言えば、俳優皆それぞれ素晴らしいのだけれど、個人的には、この映画の中で一番、演技力に驚いたのが宮崎あおいだった。

 

「秘密」と「信頼」(※ここから真犯人など分かるネタバレ)

タイトル通り、妻夫木と綾野剛だけで行く価値はあるということで終了しているのでここからは蛇足だしネタバレだが、

では映画全体としてどうだったか? というと、ここまで色々ベタ褒めしている感じだけれど、さほど好きなタイプの映画ではなかったかもしれないのである。

前半の、カットの繋ぎ(宮崎あおい渡辺謙に、「これ私の言ってた東方神起」とイヤホンで音楽を聴かせようとするシーンから、音楽が流れるゲイパーティーシーンに転じたり、警察から電話がかかってきたので、焦って綾野剛の痕跡を消そうと荷物を捨てる妻夫木聡のシーンから、客の荷物を放り投げる森山未来の場面に移ったり、みたいな繋ぎの演出)などは、おーかっこいいと思ったし、

真犯人を巡る構成も、なるほどうまいなあとは思う。

具体的には、途中で「信じられなくなった」(こいつ犯人じゃね?)と思ってしまった二組が「シロ」で、ほぼ最後まで「信じていた」(疑いもしなかった)一組が「クロ」という後味の悪い、いやーな構成。(褒めている)

そして、その、ほぼ最後まで「信じていた」組に現れた男が、真犯人ではあるのだが、その悲劇的帰結は夫婦殺人事件とは直接関連がないという皮肉展開。

「信じられなかった」から壊れてしまった関係と、「信じていた」ゆえに悲劇に突き進む関係。

 

と、こういう構造を持ったプロットにするためにやりたかったことは分かるのだが、ただ、なんか、人物たちがわんわん泣いたり叫んだりする後半が冗長だし。

映画「怒り」は、東京・千葉・沖縄にそれぞれ現れた3人の身元不明な不審人物と交流が進む中で、「こいつ犯人じゃね?」と相手のことを信じられなくなる、しかし信じたい、相手のことを信じられるか、という愛と「信頼」が主軸テーマになっているのだけれど、映画だけ見ると、何で、彼の逃亡理由を聞かされ納得し相手を信頼し、周囲にもそう一身に伝えていた愛子(宮崎あおい)が、突然警察に田代を通報したのか、いまいちよく分からないし、そうして愛する相手のことを疑いたくないのに疑ってしまうようになる苦悩の過程が伝わってこないので、ワンワン泣かれても、「うーん…?」といまいち乗り切れない。

また、「よく分からない」といえば、直人(綾野剛)が、そこまで身元を必死に隠そうとする理由も映画だけ観ると謎である。

真相としては、施設暮らしで、心臓に病を抱えており仕事を辞め、ということらしいのだが、別に、なんか、それ、悪いことしてるわけじゃないんだし、言えばよくない…?

長く付き合って悲しませたくない恋人相手、とかならともかく、初対面時では、そこまで思い入れがあるわけでもなかった優馬(妻夫木)に、心臓が悪くて仕事を辞めて、って事情を隠す理由って何なんだろうか。

カフェで会ってた女は誰か? と訊かれて誤魔化す理由も、ちょっとよく分からんし、お前が、お前がそんなんだから、無駄にミステリアスぶるから妻夫木はさあ……!(いや妻夫木じゃなくて優馬だが)

 

しかし、よく考えると、「お前がそんなんだから」というのがポイントだったかもしれず、

作品のテーマとシナリオ上、「だから」直人(綾野剛)は最終的に孤独に死ぬ羽目になるのだ、とも言えるのではないか。

どういう事かというと、この作品の一つのテーマは「信頼」なのだろうが、この人物たちの「信頼」を各々読み解いていくと、それぞれは、「秘密」そして「罪悪感」の共有によって成り立っているのである。

だから、最後まで「秘密」を共有できなかった直人は一人で死ぬのだ。

 

たとえば犯人候補の一人、田代は、愛子に早々に、両親が借金を残したまま死んだので逃げ回らねばならないという自分の事情、自分が抱えている「秘密」を正直に話した。正直に話し共有することができたので、愛子との絆や信頼関係が生まれた。ここまでが中盤である。

だから、田代は最終的に、この映画中唯一の、「希望」の余地がある存在となる、と言いたいところだが、実際のところ、たぶん実はそうではなく、田代が生き延びちゃんと愛子たちの元に戻ることが出来たのは、

今度は、愛子と父親(渡辺謙)の間に、「無実の田代を警察に通報してしまった」という罪悪感を伴った「秘密」が生まれたからである。田代は、そんな二人の贖罪のために引き戻されたのであって、おそらく本質的には、この千葉ターンは、父娘の物語である。

 

そして、真犯人である森山未来が出て来る沖縄ターン。

(元ネタが完全に市橋達也ってことを鑑みると、この沖縄の離島でのサバイバルって点でもう犯人分かりそうだけど…)

広瀬すずが主要キャストとして名を連ねており確かに好演しているのだけれど、中盤から広瀬すずは不在になっていき、広瀬すず演じる泉の友人である辰哉と田中(森山未来)の話と化していく。

 

辰哉が酔っぱらってフラフラしたせいで、那覇で、米兵にレイプされる泉(広瀬すず)。

辰哉は、そんな場面を見ていたのだけれど、見ていたのに助けることが出来なかった。

この、「見ていたのに助けることができなかった」という自身の秘密を、辰哉は田中と共有する。田中は、「自分も実は見ていたが、ポリス!という声をあげることしかできなかった」と自らに憤る。

「彼女に何もできなかった」というと、泉のことを想っているようだが、突き詰めるとここに「泉」はいないように思う。彼らつまり辰哉と田中は、「泉がレイプされているのを見過ごした」自分という罪悪感を共有し、「でも相手も同じだ」と安堵し、ゆえに絆と信頼を深めて行くのである。

 

小説だと、「下着を下されたところで叫び声が聞こえたので米兵たちは退散」になっているけれど、映画だとおそらく挿入までされてしまっている。

なので、ポリスと叫んだのは誰か、みたいなのは少なくとも映画ではどうでもよくて、映画での辰哉は、田中が、ポリスと叫んで撃退してくれたから彼を信じた(そしてそうではなかったから裏切られたと思った)のではなく、彼女へのレイプを防げなかったという罪悪感の伴った秘密を共有していたからこそ、彼を信じていたのだ。

 

だから、最終的に、辰哉が田中(森山未来)を殺すほどの怒りの元になったのは、

彼が住んでいた小屋に、「女が米兵にレイプされていた、知り合いの女だった、最後までヤれよ根性なし」(詳細は違うがこんな感じ)みたいなことが書かれていた、すなわち、泉が「誰にも言わないで」と必死に懇願していた秘密を、誰かに見られる恐れのある場所に残していた、というのもありつつ、

本当のところは、この、「見ていたのに助けることが出来なかった」という罪悪感を、田中は自分と共有してくれていなかった、田中は全然悪いと思っちゃいなかった、自分と同じではなかったのだ、という絶望の方が大きかったからこその、

「信じていたのに」なのだ。

 

という点から考えると、直人と優馬の間にだけ、こういうの、特に何もないのが分かる。

家出して風俗嬢、という経歴が近所中で噂になっており、「自分なんか、田代くんみたいな(事情を持った)人でないと相手にされない」とか思っている愛子とか、上に書いたような罪悪感のある辰哉などとは違って、優馬には別に、「他人と共有しないと押し潰されそうな苦悩」みたいなのは無いように思えるし、

実際に直人にそれを押し付けたり見出したりもしないし、

直人の方も、最後まで何も、優馬へ自らの秘密を語ろうとしない。

 

ゆえに、作劇上、役割上、直人は優馬と会えずに孤独に最後を迎える、迎える羽目に「ならなければいけない」のである。

罪悪感を伴った秘密の共有=信頼 という映画内でのルールから外れている組だからである。 

 

という解釈だと、「何でそんなに隠すのかよく分からない」のは、意図的なのかもしれないしこういう対比構造みたいな、やりたいことはよく分かるのだが、

ただ、そうやって、その構成とプロットの為に配置された人物の行動が、突如として不自然になるという欠点が何となく拭い切れないのは、どうかなあと思う。

 

 

eiga.com

 

 

鑑賞日:2016年9月17日