センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。ボーイズラブの話多し。

地方出身文化系スノッブの恋と承認とセールス―山戸結希「おとぎ話みたい」

大学入学のために一人暮らしを始めた日、いちばん最初に思ったのが、「静かだなあ」ということだった。家族がいなくて静かという感傷ではなくて、自動車が走る音が聞こえないからだ。

18年間暮らした実家のすぐ裏は、国道153号線が通っていて、昼夜問わず車がビュンビュン通り過ぎる音がしていたのだった。

最寄駅まで車で20分、車がなければどこにも行けないから一家に二台は当たり前、休日に家族と食べに行くレストランといえばガストかサイゼリアバーミヤン、友達と遊びに行くのはジャスコ(当時)と相場が決まっていてでもジャスコに行けば大体、同級生・知り合い、10人には遭遇する、周囲にはジャスコやチェーン店があり、40分くらいあれば名古屋中心部に出れるので、生活には困らない、都会ではないがド田舎でもない典型的ファスト風土生まれチェーン店育ちの自分は、もしもインターネットがこれほど発達していない時代であったら、ゆらゆら帝国もミッシェルも中島らもも知らずに、地元の教育大学とかに行って教師とかになっていたに違いなく(年収とか安定とかの観点でいけばそっちのが全然いいんじゃないか?)、東京で暮らしてほぼ希望の職種に就いている今も、東京育ち、中でも、大学教授とかのアカデミック職か文化資本の高そうな金持ちの親の元に生まれて、当たり前のように高い文化資本に囲まれ育ってきた系の奴らが、死ぬほど羨ましいのである。あまりにもコンプレックス過ぎて、大学の卒論もそんな地方マイルドヤンキー論みたいな話にしたくらいだ。

たとい生活に困らないとはいえ地方の教養度レベルは基本的にヤバい。中堅進学校の読書好きを名乗るものであっても、読んでいるのは山田悠介とか西尾維新とか有川浩とかせいぜい桜庭一樹である。ぜんぜん話なんか合わない。ピアノは3歳くらいから習わないとダメみたいなのと同じで、一生かかっても追いつけないほどの何かしらの差がある気がする。本なんてAmazonでほぼ買えるしネットで情報は手に入るじゃんとかそういう問題でない「何か」

 

私だって、読書のきっかけですか? 父の書斎にあった… とか言ってみたいのだ!

私の父の本棚にあるのは、刃牙ナニワ金融道くらいだ!!

いや、それだけならまだいいのだが、今年の正月に久しぶりに実家へ戻ったら、玄関に、ブックオフの100均コーナーに売っていそうなっていうか本当にブックオフの100円値札シールが貼ってあるままの、安っぽい自己啓発本ばかりが5、6冊程度、玄関の靴箱の上に並べられていて本当に私は絶望した。

本を全然読まないのならまだいい。一万歩譲って、中途半端に100円の自己啓発本を読むのもまあいい。問題は、それを玄関にこれ見よがしに飾ってしまう絶望的なセンスである。世界文学全集とか、まあ、ドラッカーとかならまだしも、何故それを玄関に飾っちゃうのだ? 飾る、という行為に元にあるのは、「こんな本読んでる俺かっこいい、素敵」という気持ちがどこかにあるからであろう。

何故、「こんな本読んでる俺かっこいい」の、「こんな本」が、100円の自己啓発本なんだよ!!!! 恥ずかしいから一刻も早くやめろ!!!

 

なので、先日、プチ炎上していた、「東京と地方出身ココが違う?」というテーマにも関わらず、何故か、東京、しかも東京の中でも都心のかなり恵まれた層出身の人のみだけに語らせるという、偏った&イメージで話してるだけ&田舎者はセンスがないとかdisられてる この記事にはとうぜんコンプレックスを刺激しまくられて憤死しそうになった。

 

tokyowise.jp

 

わーん私も、商社の父とデザイナーの母みたいな都心の金持ちの家に生まれて、慶應とか青山の中等部とかに通って、著名人の子息みたいなコネを作りまくって、父の書斎にあったから幼い頃から呼吸をするように接していた文化教養の香りのする文学とかアートとかに造詣が深いのと同時に、ディオールイヴ・サンローランなどのハイ・ブランドの店にも臆せず入り馴染みの店員に見繕ってもらったファッションを着こなし、コスメや海外旅行にも目がなく、在学中から、コネを通じて、読者モデルやレビュアー・ライターなどの仕事をし、そのうち、ハイパーメディアクリエイターだかなんだか、ライターだかデザイナーだかイラストレーターだかモデルだかなんだか本業や専門は何なんだかよく分からないが、GINZAとかに連載を持ち、「○○(※名前)という職業」みたいな胡散臭い持ち上げられ方で食ってくような生き方がしたかったよーーー

 

というのはさておき、愛知といって広すぎれば西三河の平民の一生はだいたい9歳くらいで決まる。

9歳のときの優等生は名古屋大学に行ってトヨタの本社に入るのがエリートであり、次点で教育大学から教師、母親が看護師の娘は何故かほとんどが自分も看護師になり、そうでない女子は銀行か保険会社に就職し、大学へ行かない男子はトヨタか関連会社の工場に、些か差別的な言い方かもしれないけれど、団地出身の子は学校での成績も底辺層でそのままドロップアウト、自分も20歳前にデキ婚、

あまりにも華麗に、そしてあまりにも素直に、親と同じようなロールモデルを辿る。

実は一番将来に苦しむのはオール4前後から地元私立大学へ行った、エリートでもなければ高卒工場就職コースも取れない中途半端にプライドだけある層。

 

上の記事で、都会出身の人が、「結局仲良くなるのは東京出身者」とかいっていたが、自分の場合、こういう地方出身の焦燥みたいなので盛り上がるのって、福岡出身の人が多いかもしれない。就職した時の同期は福岡出身だったが、入社初日の会話で既に、「福岡は、車の中でもカラオケでもエグザイル地獄、マイルドヤンキーばっかでうんざりだ」みたいなことを言っていた。

東京、大阪に次いで、第三か第四くらいの都市圏なので、ヤンキーに限らずどの階層に属している者であってもほとんど皆が別に、生活や一生をここで暮らすことにさほど不便も感じておらず、つまり田舎者ということを自覚しておらず、「何でわざわざ出るの?」と理解と共感を得られない、「地元を守ろう!」みたいな無理やりの郷土愛でなくて、あまりにもナチュラルで素直な無意識の地元への呪縛、これが、分かり易い何もないド田舎だったら、東京に行こうとする動機は理解されやすいが、そうではないところに、コンプレックスと焦燥とそして孤独のポイントはあるのかもしれない。

 

統計も取らずに自分の身近な事例だけで県民性のようなものを断定するのはよくないが、しかし、そういう意味で、地方民の東京コンプレックスがバチバチ溢れまくる映画「おとぎ話みたい」の山戸結希監督が、愛知県出身、それも豊田西高校(地元の優等生が集まる高校、私が通っていた高校が一方的にライバル視しているところ)の出身と知って、かなり、

なるほどなーー

と、腑に落ちた感があったのだった。

 

posthumous-work-of-girl.com

 

 DVDになっていたので最近ようやく観ることのできた「おとぎ話みたい」自体は、文化系インディーズ映画にありがちな気取り臭(ポエミーなモノローグ、過剰なナレーション、エキセントリックな美少女、小劇団員みたいなオーバーで思わせぶりな台詞)が非常に鼻につくし、ただ、物語パートとライブシーンを交互に並べているだけの単調さも退屈だし、「色即ぜねれいしょん」で妙な好演を見せていた渡辺大和(黒猫チェルシー)と違って、おとぎ話のメンバーの演技はあまりにも微妙すぎるしで、そんなに好きな映画ではないのだが、そこで描かれていたテーマだけは、「やられた!!」と思った。べつに映画監督になるわけでもないのに何が「やられた!!」なのかはよく分からないが、つまり、こういうことを思っていたのは、こういうことを書きたかったのは、自分だけではなかったのか、という「やられた!!」だろうか。

 

田舎に住む高崎しほは、ダンスの勉強のため卒業後は東京の進出をもくろむ高校3年生。ある日、廊下でこっそりダンスを踊っているところを、社会科教師新見先生に見られてしまうのだが、先生は、しほに理解を示し、しかも、自分の好きなバンド―「こんな田舎に知っている人がいたなんて!」―のDVDを貸してくれる、と言うのだから、しほは一瞬で恋に落ちてしまう。東京の大学院を出た「出戻り文化人」新見先生。

 

単に田舎者のルサンチマンとか東京への憧れとコンプレックスとか、地方の文化系少女が、文化を解さないアホのような同級生とは違う、田舎にあるまじき文化素養度の高い年上の男に憧れる恋心とか、ってだけならまあありがちといえばありがちだし、田舎者ルサンチマンでいえば既に、山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 という傑作があるのだけれど、

 

「おとぎ話」で着目したいのは、ルサンチマン抱えるモラトリアム少女の承認欲求と恋心が一緒くたになっているところであって、これが私が一番「やられた!」と悔しく思ったポイントだった。

少女の承認欲求と恋心は一緒くたになり、そのうち、「ダンスで何者かになりたい」という気持ちと、「先生に認められたい」という欲望が一緒くたになり、ダンスが上達すれば先生も私を好きになってくれるはず、いや、新見先生はもう私のことを好きなはず、という方向に作用する。

自分は、周りの田舎者とは違うという自負のあるしほは、同じく、周りの田舎者とは違う、ひときわ知性と教養のある、文化系のアイドルみたいな先生に、自分の、もっとも「私は他の奴らとは違う」セールスポイントであるダンスを褒められ、君のダンスは好きだと言ってもらったので、つまり、自尊心を満たしてもらい、「何者かにしてもらった」(あるいは何者かにしてもらえる可能性がある)ので、あっさりと好きになった。

そして、文化系仲間である新見先生の方も、こんなに周りと違う自分のことを、「面白い」と思ってくれているはず、つまり「好き」なはずだと思い込むのである。だって先生は私のダンスを認めてくれているし。

 

この心理過程を、わけがわからないと思うか、わかると思ってしまうか。

 

冷静に考えればというか冷静に考えなくても、求愛の踊りを舞うクジャクではあるまいし、

自分のセールスポイントを認めて貰えたことや承認欲求を満たしてくれたことと、恋に落ちることは別物のはずである。そして、相手にとっても、異性としての魅力―恋人として付き合えるか否か、と、彼ないしは彼女の嗜好や個性に理解を示し認める気持ちは、また別だ。珍しくて「面白い」と思う気持ちと、「恋人にしたい」という欲望だって違うものである。

劇中でも、明確にそれは示されていて、新見先生はしほを、「あなたのダンスを好きな事とあなたを好きなことは違う」と振る。

 

でも、同じものなんだよな。ずっと周りに理解されずに、でも何者かになりたいと思っている思春期モラトリアム少女にとっては、同じものなんですよ。同じだと誤解してしまうんですよ。

少女じゃあないが、最近注目しているBL作家のセキモリさんが出した『前から知ってる君のこと』に同時収録されている、芸人の話を何となく思い出して、売れない芸人の受けは、同じく芸人仲間であるところの攻めに、自分のネタを好きだと、お前は面白いと言って貰ったことで恋心が芽生え始める。

その時のモノローグがとても良い。記憶があやふやなので詳細は違うかもしれないが大体こんな感じ。

 

「面白いって、普通の奴が言われてもまあ少し嬉しいんだろうけど、そんなの、俺にとっては、芸人にとっては、生きてる価値があるって言われたのと同じなんだよ」

 

 

かくして、一刻もはやく誰かに生きてる価値を認めて貰いたい我々は(我々?)、しばしばこういう混同と誤解をしてしまうのだが、そういう意味で、この映画を観てもう一つなんとなく思い出したのは、本来ぜっんぜんジャンル違うが、関よしみのホラー『関よしみ傑作集 マッドハウス (ホラーM)』に収録されている「壊れた狂室」ですね。

 

           

成績が良い人が何より好きな、女子校のイケメン教師の寵愛を得るために、女子生徒たちが、ドーピングでヤク中になったり、教科書のページを食べたり、DHAがいいとかで目玉を食ったりが高じて友達の目玉を食べたりするホラー漫画だが、自分にとって、この作品が怖かったのは、まさに、承認欲求と恋心と本来異性的魅力には関係のない部分の努力が一緒くたにされていく過程が描かれていることであった。

「分かる」と思ってしまったのである。いや、「分かられて」しまったことの羞恥、と言った方が正確だろうか。

ゆえに私は、自らに「違うものだ!!」とパンチを繰り出す作品を作ろうと思っていたというか実際この夏こっそりと書いていたのだが、既に、「おとぎ話みたい」が描いてしまっていたことを知った。

自分が考えるようなことは、とっくに誰かが超上位互換でやっているのだなあ。