センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。ボーイズラブの話多し。

いのち短し読んでよ乙女

自分はそんなに、文学少女っていうキャラではないし(そもそも23歳なので既に少女ではない)、読むものも、青年漫画とか男性作家の方が多いのだが、しかし一年に一回くらい、実は幼少時に「なかよし」や「りぼん」で育った、普段ひた隠しにしている乙女心にクリーンヒットする作品に出会ってしまうことがあって、中でも特にお勧めの<少女本>3冊を紹介したいと思ふ。

 

 

第七官界彷徨尾崎翠 

 

はい、鉄板っすねもう。鉄板です。これを読まずに文学少女名乗る奴はヤブです。

少し前、紀伊國屋書店だかが、「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」フェアみたいなことをやって炎上していて、確かにあの、若い女なんてどーせ東野圭吾とか村上春樹とかしか読んでねーだろ俺様がもっとイイ本教示してやるよ的上から目線は、そら炎上するわなって感じではあるが、

 

www.buzznews.jp

 

しかし、このフェアのラインナップの中に、『第七官界彷徨』があったというのは、哀しいかな、結構共感してしまうというか、もし私が男で周りにこれを読んでいる美少女か美少年がいたら確かに一発で好きになってしまう、いや気持ちは分かる、分かってしまうんだ…確かに私にとっても美少女か美少年に読んでいて欲しい本ナンバーワンなんだ…

 

もうまず、タイトルが超いいじゃないっすか文学少女の心くすぐる感じじゃないっすか『第七官界彷徨』って。

 しかも、書き出しもめちゃくちゃいい。

 

 “よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。”

 

 「変な家庭」―この作品で描かれる舞台設定と登場人物は、皆どこか奇妙である。人間の第五感そして第六感を越えた、「第七官」に響く詩を作りたいと思っている町子は、兄や従兄の住む家へ、炊事係として住み込むことになる。この家では、皆それぞれが何かを勉強していて、分裂心理が専門の精神科医の長男、蘚(こけ)の研究で、部屋を蘚と肥料であるこやしまみれにしている次男、そして音楽学校への入学のためにピアノをかき鳴らし歌を唄う従兄。

何でもかんでも、「分裂心理」のせいにしてしまう長男や、蘚の“恋愛”と自分の失恋とを組み合わせたどうにも文学的な論文を書く次男、次男のこやしのせいでろくに練習ができないと始終文句を垂れる、微妙に駄目っぽい従兄たちの、おかしみのあるキャラクターや、台詞の応酬も独特で面白い。

そして、少女の恋――長男の三角関係のライバルである柳浩六氏の元へ、使いを頼まれた町子は、柳浩六氏から、ドイツだかフランスだかの、外国人の美人の詩人に、似ていると写真を指差されるのである。

それだけか、といったらそれだけなのだが、「それだけ」なのがこの小説が非常にロマンチックで素敵な所以ではないですか。少女の恋は斯くあるべし。

 

第七官界彷徨』は、冒頭もいいが物語の締めの文章も非常に情緒と趣があって素晴らしい。

ネタバレが作品の価値を損なうタイプの話ではないから、引用してしまおう。

 

 

 「僕の好きな詩人に似ている女の子に何か買ってやろう。いちばん欲しいものは何か言ってごらん」

 そして私は柳浩六氏からくびまきを一つ買ってもらったのである。

 

 私はふたたび柳浩六氏に逢わなかった。これは氏が老僕とともに遠い土地にいったためで、氏は楢林の奥の建物から老僕をつれだすのによほど骨折ったということであった。私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋に釘にかけ、そして氏が好きであった詩人のことを考えたり、私もまた屋根裏部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩であった。そして私は女中部屋の机の上に、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。しかし、私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もいなかった。彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。

 

別に、好きだとか想い人が遠くへ行ってしまった悲しみみたいなものは一言も書いていないけれど、確かにこれ以上ない「ひとつの恋」だ、ということがじわりと伝わってくる描写と、「彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。」という文章を一番最後に持ってくるセンス。

少女の恋は斯くあるべしと共に、少女文学は斯くあるべし、である。

 

 

『八本脚の蝶』二階堂奥歯 

 

言ってしまえば、山田花子『自殺直前日記』 とか南条あや『卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記』的、若くして自殺した女性の<死に至る日記>文学ではあるのですが、確かに後半はかなりメンヘラ臭が酷くなる(しかも、死にたくなった理由は明記されていないからよく分からない)とはいえ、別にこの著者が亡くなっていなくてもこの女性は、多くの文学少女にとって非常に素敵な、魅力的な人に見えるのではないかと思う。言い方は非常に悪いが、死ななくても普通にぜんぜん、カリスマなのだ。少なくとも私は、「こんな人になりたかったなあ」と素直に思った。

20代前半とは思えないほどの読書量と知識、ボルヘスなどの幻想小説や哲学書を語る一方で、現代アートや、未来世紀ブラジルのような映画や押井守などのアニメにも言及する。

息をするように難解な文学を自分のものとして取り込み広く深い知識がありながら、ファッションにもこだわりを見せ、グッチ、ヴィヴィアン、といったブランドの店に当たり前のように行けるお洒落さ、更にコスメにも詳しいときている。

 

 美人でお洒落ででも文学や哲学にどっぷり浸かった乙女で、更に文芸書の編集者として出版社に勤めていて、というだけでもううっとりするくらい敵なし感満載であるが、

 

「同性愛を描いた作品について、男性同士のものは、ゲイがゲイのためにゲイを描く“ゲイ小説”と、非ゲイが非ゲイのために非ゲイを描くつまりファンタジーとしての“ボーイズラブ”の二種類あるが、その意味では、女性同士の作品というのは、“ガールズラブ”しかほとんど存在していないのでは」というような批評眼、

はだしのゲンで、小さな子が原爆にやられた母親を見て、こんなお化け知らないと逃げてしまったシーンを読んで、自分が、愛する血みどろの相手をお化けだと助けられないのは嫌だと、意識的に死体やグロに慣れるようにした」(⇒八本脚の蝶 ◇ 2002年7月8日(月)その2)

「自分は幼い頃、自分が見た映像は写真のように切り取られ、異星人か神様、宇宙人にいつか“地球の風景”として送られるという設定を持っていた」(⇒ 八本脚の蝶 ◇ 2001年11月5日(月))

というようなエピソードから滲み出る卓越した個性、

更に、至るところで言及され、全日記を通じた一種の底のようになっている、フェミニストでありながらマゾヒストであるが故の、分析と着眼点も見事である。

 

そうして、著者の卓越なる感性と知性、文学少女のお手本・理想像を彼女の遺した文章に見ることのできるほか、著者は非常に文学に造詣が深いので、単純に、イアン・ワトスン『オルガスマシン』 、フョードル・ソログープ『小悪魔』 、ジョルジュ・ベレック『人生 使用法』 などなど、ブックガイドとしても楽しめる。っていうか、99%くらい、知らなかった本しか出てこない。

 

 この本を出そうとした出版社での企画会議の段階で、彼女に才能と文章力と魅力があるのは間違いないが、彼女に傾倒して自分も命を絶つ人が出て来るのでは、と心配された、というのもさもありなんではあるが、せめて二階堂さんくらい本を読んでから死ななきゃね、とも思うわけである。

 

 

『こちらあみ子』今村夏子 

 

この10月の時点で既に、私的「2016年読んだ本の中で一番打ちのめされた小説」ベスト1位(一番面白かった、とはまた違って、打ちのめされた、である。いや勿論面白いのだが。「打ちのめされた」というのは、“こんなの書かれたら、こんな凄まじい作品が出て来ちゃったら後の人はもうどうしようもないよ!!”という意である)が決定している作品だが、また同時に、「2016年で見た中で一番あらすじで損をしているような気がする小説」ベスト(ワースト?)1位でもある。

ちくまが最近力を入れている、獅子文六とか三島由紀夫とか最近だとチャールズブコウスキーとかの、読みたくなる「発掘帯」なんか、非常に巧い商売だなと思ったりするし、『こちらあみ子』の帯コピー

 

文学界にまだこんな隠し玉があったなんて……

このズバ抜けた才能

本当は誰にも教えたくなかった!

 

 これもなかなか読みたくなるものだが、この帯に惹かれて、あらすじを読むと、こう。

 

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。

 

 これだけ読むと、なんつーか、言ってしまえば、「となりのトトロ」みたいじゃないですか? 無垢な少女と彼女を見守る大人たち、ジブリの夏の風景をイメージしませんか?

 

いや、わかる。「Dressing Up」が好きな人間より、ジブリが好きな人口の方が一万倍くらい多いことは分かる。分かるが、『こちらあみ子』は、このあらすじからイメージされるジブリ臭からは全然程遠い、こういうまとめ方にはやや語弊があるにせよ、割と超絶鬱小説なんである。

無垢で純粋で少し変わった少女を周りが暖かく見守り、少女のそんな善意が周囲を自ずと変えて行く、みたいなハートフルストーリーではなく、周りとずれているので邪険に&馬鹿にされまくっている少女の善意が周りに悲劇と家庭崩壊を引き起こす話である。

 

まさに、「地獄への道は善意で舗装されている」物語なのだ。

あみ子は確かに、非常に無垢で純粋な人間ではある、というか言ってしまえば知的に障害がある子だ。自分の行動がおかしくて、周りにいじめられたり馬鹿にされているのにも、気付けない。好きな子にもほぼ無視される。それでも、小学校までは、何とかいわゆる「幸せな家族」のようなものができていたけれど、あみ子の、悪意のない、というか彼女的には100%の「善意」であるところの、“純粋”なある行動によって、母は鬱病になり兄は不良化し、とうとう、あみ子は一人、祖母の元へと追いやられることになる。

こういう鬱小説を単なる悲劇譚として描くことは容易だが、この著者が凄いのは、これを、周りとずれている、そして、悲劇を悲劇として全然理解出来ない「あみ子」の視点で描き切っていることだ。しかも、それはただ、あみ子がよかれと思って起こしたものであるというのが物語の怖さとやるせなさを増す。

小学生のときあみ子から貰ったクッキーが実はクッキーでなかった(チョコクッキーだったのを、チョコだけあみ子が舐めとっていた)のを、幾年か越しに気が付いてしまった、のり君(あみ子の想い人)が、「どう思った」のかは直接書かれない。あみ子は何故自分がのり君に殴られたのか最後まで理解しない。母が何故心を閉ざしたのか、母がどう思ったのか、も同様である。

それは、ただ“行為”と“結果”として書かれる。しかし、そのことによって、あみ子が周囲にもたらしてしまったものの帰結が残酷に浮かび上がる。

 

更に、タイトルである『こちらあみ子』は、トランシーバーで呼び掛けるときの掛け声を指しているが、本文中にも登場するこの「トランシーバー」が、物語のテーマとこれ以上なくぴたっと合致する最適のメタファーになっているというのもよい。

普通の常識とか倫理感みたいなものが、どうしても分からないあみ子のことを、周りは次第に、「諦めて」いってしまう。

学校に行かなくても、勉強ができなくても、あみ子のことをもう誰も叱らない。あみ子の言葉はすべて、「頭のおかしい奴がまた変なことを言ってる」で話半分に聞き流されてしまう。「こちらあみ子」と呼び掛けても、もう誰も応えてくれないのだ。

でもその、ディスコミュニケーションは、あみ子側も同様で、あみ子は基本、自分が、自分が、の人間であった。

このディスコミュニケーションから生まれる“ずれ”こそが、悲劇を生んだといってもよい。

 

ただ、先に、「超絶鬱小説」と書いたが、この物語にも最後、一応救いのようなものはある。あみ子は最後、“のり君”とだけ読んでいた想い人の「名字」を知ろうとする。難しくて読めなかったその漢字を、クラスの同級生に訊くのだ。同級生は最初、あみ子が指す習字に書かれていた文字のことを訊いているのだと思ったが、次第に、名字を訊いていることを理解していく。

そして、嫌われていることさえ理解していなかったあみ子は、同級生の指摘から、自分のことを何故のり君が避けているのか、自分の「気持ち悪いとこ教えて」と訊ねる。

はじめて、相手のことを、相手の気持ちを、「知ろうと」しはじめるのである。

この、テーマ設定とメタファーの使い方と構成力と筆力。『こちらあみ子』がたいへんな傑作であることは間違いないのだが、同時収録されている、同じく「善意と悪意」の関係性を描いている「ピクニック」という話もまたかなり凄い。

抽象的な言い方だが、こちらあみ子が、「地獄への道は善意で舗装されている」物語であるならば、「ピクニック」は、 「善意で舗装されているので行きつかない地獄」と言うべきだろうか。

 

まず、物語の視点設定が「ルミたち」という最後まで何人か分からない複数形なのであるのも斬新だが、中盤まで、あくまで「ルミたち」の「善意」の物語として、読者をも騙してしまう筆力が非常に見事である。

「ルミたち」のバイト先に新人として入った、七瀬さん。七瀬さんは、とある人気お笑い芸人と、付き合っているという。その話を無邪気に信じ、応援する「ルミたち」。中盤、いや、嘘でしょ? と揚げ足をとろうとする若い新人のことを、注意し、「ひどい!」と憤り、「ルミたち」は七瀬さんのことを擁護する。

あまり書くと、読んだときの衝撃が半減するのでこれ以上は本文を読んでほしいが、そして、ここから後は半目で読み飛ばして欲しいが、

 

とにかく、この、「ルミたち」の、いや、「読者」が認識する善意と悪意が引っ繰り返される構成の凄まじさ。

 

悪意は悪意の顔をしていればこちらも大義名分を持って反撃できるが、 あくまで善意の顔をしていたとき、これは地獄だ!と糾弾することは赦されなくなる

七瀬さんは、「ルミたち」があくまで自分の話を信じ、応援してくれる姿勢を見せてくれるから、最後まで引っ込みがつかなくなるのである。

 しかし、「ピクニック」が更に一筋縄でいかないのは、「善意」視点で描かれる前半も、よく読むと、「あれ、これっていじめじゃないの…?」という細かい描写がさらっと書かれているあたりである。

「ルミたち」の、「善意」視点で描写されるので、さらっと読むと読み飛ばしてしまうが、ルミたちが七瀬さんの部屋へ行くのは、いつも深夜か早朝だったので…とか、誰も、七瀬さんのドブ攫い掃除を見ているだけで手伝おうとしていないのとか、手が汚れているからと、七瀬さんに、まるでエサをやるようにピーナッツを投げたり(4個くらい顔等にぶつけている)するのとか、「悪意のあるいじめ行為」を、そうと簡単には悟らせず、あくまで「善意」の視点で描き切る、

こんな高度なことをやってのける小説家の単行本が、この『こちらあみ子』(筑摩書房)しかないのは非常に勿体ないと思う一方で、いわば、

 

庵野やめろ!!

 俺より面白いもの作るんじゃねえ!!!」

 

と叫ぶ島本和彦ばりに、やめてくれ!!! こんな凄い小説書かないでくれ!!!!! と今年一番こてんぱてんに打ちのめされたのだった。

(別にお前は小説家じゃないだろとは言わんでくれ)