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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

重岡くんがあまりにも好演しすぎてむしろ主役が霞んでるけど重岡くんがいなければマイナス100点という矛盾――映画「溺れるナイフ」感想

※最初に断っておきますが酷評です。

 

特にジョージ朝倉のファンでもなければ、「おとぎ話みたい」で山戸監督の作品とは趣味が合わない事を知っていたにも関わらず、そもそも何故わざわざ公開初日に観に行ってしまったのかっつー話ではあるのだが、

主演は人気俳優だしデカい公開規模のメジャー作だし、こう如何にもサブカル業界人とかミスiDに応募しそう系サブカル女が褒めそうな、鼻につくポエミーでウェットで過剰な作家性が薄れているかと思ったんだよな!

東宝の名プロデューサーにボコボコにされてメジャーヒット作を生み出した「君の名は」の新海誠みたいにさ!

 

と思ったら全然そんなことはなく、小松菜奈菅田将暉という人気俳優にパッケージされているのと、役者として出てくるミュージシャンの演技(ドレスコーズの志磨は良かったねえ!!やっぱ彼は雰囲気のある男前だ)がだいぶマシになっているだけで、だって実質これ、「おとぎ話みたい」である。

 

少女が泣き叫ぶウェットでポエミーな過剰性(端的に言うとタルい)、追い掛け回したり走ったりくるくる回ったり登場人物がやたらと動き回るシーンが完全に話のテンポを殺しているあの感じ(端的に言うとタルい)、火柱を男根のメタファーにするような(違うかww?)学生映画祭に出品される映画とかっぽい鼻につくアーティスティック気取り、そして終盤、妄想と現実が交錯していきどちらが暗喩なんだか一体分からなくなるような演出、などに見られる強い作家性も、さりながら、

後に詳細を述べるが、話の軸となるテーマも、少女漫画的なものとはむしろ真逆。

 

本編が始まる前の予告、所謂、山崎賢人とか福士蒼汰とかジャニーズの新人が出てきそうな胸キュンときめき少女漫画原作ばかりであったが、あのね、ぜっっっっんぜんそんな映画じゃねえからなこれ!!!

そういうの求めている層には、はあ??? って感じだと思ふ。

全然、あんなバンバン宣伝打って、こんな大きな公開規模で、胸キュンときめきを求めるライトな若い女の子たちを集めるタイプの作品じゃない。

 

やっぱり、ユーロスペースとか新宿ピカデリーとかに通っている系サブカル業界人おじさんとか岩井俊二とかが好きそうなオサレ気取りサブカル女たちが内輪できゃあきゃあ持ち上げている系映画じゃあないかよ!!

 

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eiga.com

 

分かりにくくてアーティスティックでコア向けなものこそ至上にする層にとっては褒め言葉として受け取られてしまうかもしれないから誤解しないで欲しいが、「全然そんな映画じゃない」というのは、褒めていない。全く褒めていない。悪い意味である。

「そんなレベルに達していない」ってことだ。

 

いや、好みの問題で、こういうのが好きな人は好きなんだろうけど私は大嫌いってだけの話なのかもしれないが。

山戸結希監督は、「リリイ・シュシュのすべて」を観て映画にハマったみたいなインタビューをどこかで読んだが、「リリイ・シュシュのすべて」は、日頃、そんなに映画を酷評せず比較的、何観てもまあ面白いと思う私が、人生の中で上から数えたとき片手の指に入るくらいの順位でクソつまらんと思った作品である。

なるほどなあ…

俺は!こういう!完全に滑ってる思わせぶり演出とか!別に特に意味のないかっこつけた難解さとか!サブカル業界人が内輪で盛り上がってそうな感じとか!すげえ嫌い!!

 

 

というのはさておき、

演出がダルい、テンポ殺しすぎ、原作の漫画ちっくなコミカルな魅力(夏芽とかコウちゃんだって、ほんとはもっと明るい魅力があるわけ)が、ウェット一辺倒な作風によって封印されている、

特に前半、原作読んでいないと登場人物の心理や行動意図が意味不明、そもそも、「どうして主人公の夏芽(小松菜奈)がコウちゃん(菅田将暉)に惚れたのか、あそこまで執着するのか」謎、っていうような、欠点を挙げればキリがないが、

敢えて作品としてマジで致命的な欠点、そして欠点でありながら、しかしこの作品のほぼ唯一といって良い見所を一つだけ述べるとするならば、

 

どう考えても、どう考えても、当て馬として登場する大友(ジャニーズWESTの重岡くん)の方が、魅力的なんだよ!!!!

重岡くんが、あまりにも好演しすぎていて、むろん、好演しすぎているのは良いことだしジャニーズの新人がこういう形で世に出られるのって最高だと思うが、ゆえに、

 

なんでこんな魅力的で良い子放っておいて、あんな性格悪くて無愛想なクソヤンキーなんだよ!?!?!?

と、少女漫画としての世界と主人公へのシンパシーが完全に崩壊しているんである。

いや勿論、リアル世界にいたら120%モテるであろう、爽やかで素朴で優しくてイイ奴より、ツンデレでクールで我儘自己中な男を結局は選んでしまうっていうのは少女漫画のセオリーではあるけれど、それでも、後者のがやっぱり魅力的っていうのはワカるじゃん作中で。

溺れるナイフ」も原作ではもちろん、コウちゃんの魅力は断トツなわけで。(っていうかそれ以前に、別にヤンキー化する以前とかは、傲慢ではあるがあんな無口で根暗な感じじゃないしな別に。むしろ飄々として明るいクラスの中心系だったわけで)

 

これは、菅田くんが悪いって話じゃあないのだ。小松菜奈菅田将暉も勿論、好演はしているし美しいことは美しい

なのでこれは演技というか演出やキャラクター設定の切り取り方の問題で、そう見えてしまう理由は、重岡くんが好演しすぎという点以外に色々あるだろうけど、大きなとこで三つくらい言うと、

 

①前半がダイジェスト過ぎ

②モブがほとんど描かれない

③我々が菅田将暉小松菜奈に慣れすぎている

 

原作だと、3巻くらいまでにあたる、まだ、彼ら二人が「輝き」を失う前の部分。

Kindleだといま3巻まで無料なので読んでみるといいと思うけど

 

キラキラしていた東京やモデル世界から離れ、何もないド田舎に引っ越してきた主人公夏芽は、田舎で明らかに突出して輝き、自由奔放に振舞っているように見えるコウちゃんに惹かれる。

彼の輝きと自由さが放つ存在感に、お前なんて別に大したことないと言われているような気がしてしまった夏芽は、彼に、「凄い」と言わせたくて、勝ちたくて、私だって凄いのだと見せつけたくて、著名な写真家からの写真集の話に挑戦していく

 

だから、何故、コウちゃんなのか?というラブストーリーには、

すらっとした手足と田舎で明らかに浮いている夏芽や、奔放でカリスマ的な魅力を持ちここらの地主の息子であるコウちゃんに共通する「異質性」、自分はこんな退屈な田舎で留まる人間ではないと刺激を求める態度、そして、良くも悪くも人を圧倒してしまう「力」への渇望。

それらへのシンパシーと、シンパシーゆえの、ある種同性同士の“やおい”的、敵愾心に近い感情こそを描くことが重要なのである。

 

重要なのだ、が、映画だけみるとこれ、

ダイジェスト過ぎていまいちよくわかんねえんだよなあー。いやわかる? 原作読んでない人、わかる?

だからあとから、“あの頃の二人は特別に見えた”(だっけ?曖昧)とか、台詞で説明されても、はあ、さいですかとピンと来ない。

 

ダイジェスト過ぎるというほかにも、

先述した通り、時間の関係で(?)、モブがほとんど描かれないというのもピンと来ない一つの理由じゃないかと思う。

スクリーン上で彼らが明らかな「異質」になるためには、異質ゆえのシンパシーを描くためには、そして、後半部分の「あの頃の輝きを失ってからの物語」を活かすためには、対比として、平々凡々な存在たるその他大勢も映さないと、いまいちよく分かんないと思うんだけど。

画面でほとんど主役級の人たちしか出てこないので、我々にとっては、小松菜奈菅田将暉が「普通」になっちゃうのだ。だから、ピンと来ない。特別に見えないと、そもそもこのラブストーリーは成立しないのに。

 

もちろんそれは、おそらく我々観客側にも原因があって、「渇き。」や「共喰い」で突出した異物として衝撃的な存在感で世に出てきた頃ならともかく、2016年11月、

もうねー言ってしまえば、私たちが、小松菜奈菅田将暉に慣れちゃってんですよ。

誰だあいつ!? じゃなく、もう彼と彼女を存分に知っちゃってる。それも我々にしてみれば、「普通」になっちゃう理由の一つではあるんですよ。これも役者が悪いわけではない。

 

まあ、ある事件が起こってから、時間転換して高校生になったところの、夏芽の背中のシーンとか、高校デビューを果たした同級生が皮肉っぽく絡んでいくとこの厭な感じとかは、「あ、変わってしまった」のかって凄い分かって、良かったとは思うけどさ。

 

 

というような理由からも、いやどう考えても重岡のが魅力的じゃん?何なん?になっちまうわけだが、

しかし、「溺れるナイフ」のみどころは、もはや重岡くんにしか無いと言ってもいい。

なのでこれは、大いなる矛盾なのだ。

重岡のせいで作品世界が崩壊しているけど重岡がいなければ映画の価値はマイナス100点という…。

だから重岡ファンは100回観るべきである。そのためにクソつまらん部分に90分耐える必要はあるが、もしも私が重岡ファンだったらこの映画は本当に嬉しいだろうなあ!という場面がてんてこもりである。

 

落ち込んでいる夏芽を、バッティングセンターに連れて行き、元気づけるために、“見てろ俺のナイスバッティング!”みたいなことを言う台詞を若干噛んでるところとか(敢えてだろう)、

ナイスバッティング!を自分で繰り返すところとか、

結局夏芽に振られてしまうも、そのまま、“よし、歌うぞ!歌っちゃうぞ!!”とカラオケを入れるところとか、そこからの、「おら東京さ行くだ」熱唱シーンとか。

この、「おら東京さ行くだ」なんか、作品で一番の名場面でしょ、こんなん笑いながら泣いちゃうよっていうか隣の女性はマジで笑いながら泣いてたよ!!!

 

 

と、トータルで言えば重岡以外はクソでFAだし、散々酷評したが、

しかしこれも、「おとぎ話みたい」を観た時と同じで、演出も話運びも好きじゃあないが、作品の根底にあるテーマには、バシンとやられてしまうわけ。

上にああ書いたのをひっくり返すようでなんだが、そもそもこれは別に、大友かコウちゃんか?みたいな話じゃないのである。言うならば、あなたかあたしか? 

 

神様の輝きは消え少女は田舎と男を捨てる。

 

捨てるっていうのは言い過ぎだが、

少女は、平々凡々な小市民的幸福でもなく、かつて自分の神様のように輝いていた男でもなく、ブスブスと刺され血を流し続けねばならぬかもしれないしかし自分が輝く可能性を、選択する。

だから、取り残される男にとってはこれは非常に残酷な話ですよ。

これは、コウちゃんの勝利の物語でもあるしコウちゃんの敗北の物語でもある。

コウちゃんは、最初から、コウちゃんにしか依存しない夏芽には興味がなかった。コウちゃんさえいればという彼女を「つまらない」と言い放った。

だから、そこにあるのは、異質性や圧倒的な力の行使への欲望へのシンパシーと、そこから生まれる、彼女は自分には出来ないかもしれないことをやってのけるかもという期待で、

最終的に夏芽はその通りの、力があったら使いたくなるんじゃないのかと自分が嗾けた道を選んだ。その点では、コウちゃんの勝利ではある。

けれど、彼女を助けられず幻想に応えられなかった故に失った輝きを、命懸けで再びこの手に取り戻そうとしても、もはや自分は田舎の一ヤンキーに過ぎなくて、彼女だけが、自分を踏み台にして、彼女が呼吸を出来る場を、圧倒的な美貌という武器を見せつける場を、再度獲得していく。

 

ね、だから実質「おとぎ話みたい」でしょこれ。

だから、演出上の数多の欠点はさておいて、根底にある物語としては、ほんとは凄く好きな話ではあるんですよたぶん。

 

 

[鑑賞日:2016年11月5日]