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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

腐女子たる自分とフェミストの私のアンビバレント―映画「アズミ・ハルコは行方不明」感想

 

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大学時代とかに読んでいた本や漫画原作の映画が、今年になってようやく公開されることが多かったおかげで、今年の私は、映画感想の結論に、

「これ、原作読んでない人分かるの?」

ってフレーズを何度も使ってしまったような気がするのだけれど、敢えて言おう。

 

これ、原作読んでない人分かるの…!?

 

というのは、私は既に原作を読んでしまっていて「原作未読のまま私がこの映画を観た時の理解度(や感想)」という世界線はやって来ないから、永久に体感できない感覚なのでもう仕方ないが、微妙に分かりにくい理由ポイントとして3つ挙げるとするならば、

 

・時系列複雑怪奇問題

バンクシーの使用権得られなかった問題

・安曇春子、謎のキャラ崩壊問題

 

だろうか…

 

 

時系列複雑怪奇問題

 

「アズミ・ハルコは行方不明」はタイトル通り、アズミハルコさんが行方不明になる話である。

ただこれは、朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」のように、「桐島(アズミハルコ)無き後、失踪した不在の中心について周囲が語るもしくは周囲が変化していく物語」ではなく、蒼井優が主演ってことからも分かる通り、ちゃんと、「アズミハルコさんは何故いなくなったかパート」にも尺が割かれてる。

それで、原作は、「アズミハルコさんは何故いなくなったか(失踪以前)」パート=安曇春子の物語 と、

「アズミハルコさんがいなくなったあと、アズミハルコの写真をグラフティのモチーフにしてアートもどき活動をする若者の話(アズミハルコ失踪後)」=高畑充希や太賀演じる20歳の若者達の物語

が各々独立した章として語られる。

 

 なので、比較的、登場人物達の抱える状況や鬱屈、物語展開がすっと頭に入ってきやすいのだけれど、映画だと、おそらくは何らかの効果を狙って意図的に、

「失踪前の話」と「失踪後の話」をかなりバラバラにシャッフルした上に、「同じ人物の物語」の時系列さえも結構入れ替えていたり(例えば、高畑充希演じるアイナらが安曇春子の写真で街にグラフティをするのは、成人式での再会や、ユキオや学が二人で別の落書きを模索していった後の話だが、最初にそういうグラフティシーンを観せたりしている)

 

してしまってかなり複雑なことになっているので、原作を読んでいない人は初見だと、

 

あ、これ、高畑充希たちの話は蒼井優が失踪した後の話なんだ

(逆に言うと、蒼井優の話は高畑充希たちの話の全然前の物語)

 

ってのが、スッと入ってこないかもしれない、かもしれない。

かもしれないかもしれない、というのは、私が観客の理解力を舐めているだけで別に分かる(前も言ったように、私はもう読んでいるので、読んでいなかった時の鑑賞感想というのは永久に理解できないから。)のかも、といういわば遠慮なのだけれど、

この前、12月8日に行った団地団

団地団夜 映画『アズミ・ハルコは行方不明』公開記念!! – LOFT PROJECT SCHEDULE

イベントに行ってみたら、原作者の山内マリコまで、

 

「最初の2、30分は、傑作誕生だ!って思ったけど、時系列複雑すぎて私も後半よく分からなかった」

 

みたいなことを言っていたので、安心(?)した。原作書いた人でさえ分かんないんだからやっぱ分かんないんだよ。

(因みに、山内マリコが脚本読んで直し入れる前は、もっと複雑だったらしい)

 

 それで、この複雑怪奇な入れ替えが、単に、「アイナたちの物語(アズミハルコ失踪後の物語)」→「アズミハルコの物語(アズミハルコはなにゆえ失踪したか?)」→「再び、アイナたちの物語」→アイナとアズミハルコの邂逅

より、効果的か? っていうと、どうなんだろうなあ感はある。

なんでかっていうと、「これ、どういうこと?」と物語の筋を観客が頑張って繋げる、理解するのに脳の容量が取られちゃって、個々の演出とか演技や登場人物の心理みたいなのを味わう余裕が無くなっちゃうかもだからだ。そうなると、つまり、演出や演技や心理を見てもらえないと、映画全体としての評価も下がる。

原作自体は別に全然分かりにくい話ではないのに、入れ替え演出で敢えて分かりにくいものにすることで、観客の脳の容量のほとんどを「話の筋を理解する」に振ってしまう必要性って、別に無いんじゃないかなあとか思うわけである。

 

 

バンクシーの映画使用権得られなかった問題

 

これは、私が非常にどうなるかってワクワクしていただけっていう個人的な話なので、別に読み飛ばしてくれていいが、 

映画の中で、太賀演じるユキオが、高畑充希演じるアイナに、「えー五千円もするじゃん!」って文句を言われながらも買ってもらうあの映画、

ユキオが、学にお前も見ろよ、と、お勧めして、学も「ちょーやべーー!!!」ってなるあの映画、

ユキオと学がバリバリに影響されて街に落書きを始めるきっかけとなるあの映画、

 

あれ何かっていうと、かの有名な覆面アーティスト、バンクシーが初めて映画監督を務めたというドキュメンタリー(もしかしたらフェイクドキュメンタリー映画かもしれんが)映画、

「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 」

である。

 

なので、あんまり、映画のああいう典型的地方DQN(あの、太賀くんの地方DQN感は超よかったっすよね~ゆとりですがでゆとり役を好演していただけある)の、ユキオが知っているような映画ではない気がするのだが、原作だと、名古屋にいたときに知り合ったヒップホップやってる先輩に勧められたということになっている。

(原作は、ユキオは別にあそこまで地方DQNって感じでもなく、一応、名古屋工業大に通っているくらいには頭が良くて、地方マイルドヤンキーのことも冷めた目で見てるような人なのだが、まああの方が分かりやすくていいのかもしらん)

 

これは本当にめっちゃくちゃ面白いので、本当にめちゃくちゃ面白いので是非観て欲しいのだけれど、なので、私は、あのバンクシー映画の使用権得られたのかな?

っていうのを一つ楽しみにアズミハルコを観に行ったってのはあるのだけれど、まあ、やっぱり、得られなかったみたいですね笑

そりゃあそうか。

 

そりゃあそうか、なのだけど、これ、割と、ユキオや学パートのキーになっている映画なので、もう少し、どんなんなのか説明くらいしてもよかったんじゃないかなあとは思う。

思うので代わりに説明すると、これは非常に巧みなかつ、めちゃくちゃ意地悪なドキュメンタリー(或いはもしかするとフェイクドキュメンタリー)映画である。

 

映画は、

妄執的といってもいいほどビデオの撮影が趣味の男・ティエリーが、自身が撮影するための興味の対象として、グラフティ・アーティスト達に出会うところから始まる。夜の街を縦横無尽に駆け巡り、警察の目をぬって、危険でしかし刺激的な路上アートをのこしていくアーティスト達の活動を、密着撮影し、時には自分も手伝ったりする中で、ティエリーは、ある存在にどうしても出会いたいと思うようになる。

路上アート界ではおそらく最も有名なアーティスト、しかしその正体は謎に包まれている(最近、マッシヴ・アタックの3Dじゃないって記事が出てましたけどね)、バンクシーである。

で諸々の過程を経て、ティエリーはバンクシーの活動にも密着するようになっていくのだが、そんな中で、バンクシーは、「せっかくそんなに撮影しているんだから、ここは一つ、その素材を使ってドキュメンタリー映画を作っては?」と提案する。

提案するのだが、いざ、ティエリーが作ってきた映画を見ると、バンクシーは愕然とするのである。テレビのザッピングのように次々に落ち着き無く映像が移り変わるだけのシロモノ、とても観れたもんじゃない。

ので、今度は、まあ、ここは映画のことは忘れて、一つ、自分もアートやってみれば、と気まぐれに(本当に気まぐれなのかは知らん)、とバンクシーは言ってしまうのだが、これを、絵心もアートの知識も無いティエリーは、本当にやってしまうのである。

 

そして、これが驚くことに何故か大成功する。

 

他のグラフティアーティストのパクリのような作風、絵がかけなくてもできるような、写真を使ったステンシルアート、自分は監督的立場で、細かい作業は他の絵心あるスタッフ達に任せていく、

そして、有名アーティストたるバンクシーなどが個展にコメントを寄せたということもあり、あらゆるメディアに取り上げられ、またその話題が話題を呼び、

ただのビデオ撮影マニアだった男は、あっという間に、Mr. Brain Washというポップアーティストに成り上がるのだ。

 

勿論これを、必死で確立した自己の作風を模倣された他のアーティストや、そしてバンクシー自身も、面白くは思ってない。何だよ、アーティストぶりやがって。俺の名前使ってビジネスに走りやがって。

観客も、そんな、「○○がコメント寄せてるからすごいんだろう」「メディアに取り上げられたからすごいんだろう」みたいな思い込みで、これはアートだ!ってよく分かってもないくせに絶賛しやがって!

パクリじゃねえか!!

 

というバンクシーの視線が、まあ直接言葉にしているわけではないが、映画の後半には映像の撮り方や切り取り方としてかなり身も蓋もなく現れている。まあ要するに馬鹿にしているのである。

 

ってことで、本来は、「撮る者」「撮られる者」が入れ替わっていく非常に巧みな構成のドキュメンタリーかつ、アートとは何ぞやというテーマが、そこまで政治的にならずあくまでも間接的に、皮肉的・揶揄的な視線を通じて物語られる(こういう作風が非常にバンクシーらしい)、かなり意地悪な映画なので、

 

本当は全然、すげーー!!!やべーーー!!俺も大きなことしてーーー!!!

 

って影響されちゃう映画ではない。

ないのだが、まあ、何かすげえことしたいな、とかこのままじゃ自分はダメだ、みたいな燻っている鬱屈を延々抱えていたユキオや学は、

バンクシーのメッセージや揶揄を読み取れなかったのか(?)、影響されて、映画で取り上げられた路上アーティストのように、「キルロイ」というチームとして、グラフティを始めて行くわけですね。

そんな中で、失踪したアズミハルコの写真に出会い、その写真を使って、ステンシルアートをやっていく。するとそれがSNSなんかで話題になり、遂には、ちょっとした著名人の目にも留まり、地方おこしイベント的なものの、メインアートとしてどうか、みたいなところまでいくんです。

 

いくんですが、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」の、Mr. Brain Washと違って、まあ学やユキオが指揮をとったイベントは大した話題にもならず終わる。

終わるので、「思ってたのと全っ然違えええ!!!」

という太賀(ユキオ)くんの叫びになるのだが(何故ならば彼は、絵もかけないくせに素材の取り扱い方やプロデュース力、集客力みたいなとこの話題作りでサクセスしたMr. Brain Washを想定していたのだから)

 

これ、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」がどういう映画か知らないと、よく分かんないよね。

なんで、地方DQNのユキオと、成人式にも出席できないような内向的非リアの学くんが急に仲良くなったかってのも映画だと飛ばされてるから、???だし。

何より、閉塞した地方の中で、真っ当な道からは外れかけ、でも「何かやりたい(けどその何かが何なのかはよく分からない)」みたいな気持ちを持っていた二人の鬱屈とかがいまいち伝わって来ないんじゃないだろうか、あれ。

単に落書きしてはしゃいでる暇なDQNに見えるぞ。

 

 

安曇春子、謎のキャラ崩壊問題

 

 とは言っても、別に私、この映画自体はそんなに悪くはないと思っているのだけれど、 唯一、これは作品の根幹に関わるくらい、めちゃくちゃ解釈違いなのでは? むしろあれを入れてしまったことによって映画のテーマを完全に殺してしまったのでは? と強い違和感を抱いたのが、「安曇春子は何故失踪したか?」直前のシーンである。

 

あれだとさあ、あれだとさあ、

単に、男にこっぴどく振られたからセンチメンタルジャーニーしたみたいじゃん!?!?

 

それまで、どこか冷めているような自分を取り巻く全てにうんざりしているような、安曇春子が、突然、セフレ?のような関係だった男に捨てられそうなり、

 

いやだ~~~捨てないで~~~あなたが好きなの~~~結婚みたいな重いこと言わないし~~~~

 

と謎のキャラ変と衝撃の告白(え?安曇春子別に曽我氏のことそんな好きちゃうでしょ!?)を遂げるシーン、

あれは、映画で付け足されたオリジナル場面である。なので、そこだけ、え??と、めちゃくちゃ違和感ある。

 

いや別に単なるキャラ変による違和感ってだけならいいんだけど(よくはないが)、より大きな問題になると思うのは、

このシーンを入れてしまったことで、つまり、多くの人が、「好きな男にこっぴどく振られたから安曇春子は傷心の末、失踪した」と受け取りかねない場面にしてしまったことで、更に、何故か、結婚だの家庭だののワードを入れて、「いい年してもまだ結婚できなかったかわいそうな女、安曇春子は、そんな可哀想な自分が嫌になった」的イメージにもなりかねない場面にしてしまうことで、

作者がこの作品に込めた思いを、ズタズタに殺してしまっている気がするのだ。

 

地方作家(地方を描く小説家という意味で)、みたいなイメージが強い山内マリコだけれど、彼女って同時に、かなりフェミニスト作家でもある。

たとえば、映画に出てくる正体不明の、「女子高生ギャング団」、彼女らの詳細は最後まで語られないけれど、語られない訳のわからなさこそ重要で、現実の世の女性たちは、わけも分からず、ただ女という理由で、見知らぬ男に犯されたり襲われたり殴られたり暴行されたり拉致されたりする。

なのであれは、それを逆転させただけなのである。彼らは男だからという理由で、突然見知らぬ女たちに襲われる、「男性のひとり歩きは気をつけましょう」

ほら、被害者が男性だと、強烈に違和感があるでしょう、なんで彼らは襲われないといけないのか? って思うでしょう、女性だったら、ふーんって、理由も考えもせず、「女性のひとり歩きは気をつけましょう」で終わるのにね。

 

そして、この、わけの分からない暴行というモチーフと、「安曇春子の失踪後」の物語はテーマとしてリンクしていく。

安曇春子が失踪後、実は、女友達と平和に幸せに暮らしていたことは、小説だとアイナの、そしておそらくは作者の祈りなのだ。以下、小説のラスト。

 

「愛菜はあの旗に使われていた行方不明の女の子たちが、本当はみんな、ムカつく現実から逃げただけで、誰に殺されたわけでもなく、変質者に監禁されているわけでもなく、みんなどこかで元気に楽しく、へらへら笑いながら生きていることを祈った。

 祈り、そして確信する。

 そうでなくちゃ。

 絶対にそうでなくちゃ。

 だってそうでなきゃ、悲しすぎるでしょ?」

 

「アズミ・ハルコは行方不明」は、

男達が男達の理屈で男達が牛耳る世界で、除け者として周縁におかれてしまった力を持たない女たちが、「男の理屈」ではないところで、自らの幸せな世界を作っていくことを希望とする話だと思う。

優雅な生活を送ることが最高の復讐である、君(男)がいなくたって、あたしたちは幸せにやっていけるんだよって。

 

一見同じように見えるけれど、というより、このニュアンスを私の少ない語彙力では伝えきれないのが非常に、本当に本当に歯がゆくて仕方ないんだけれど、

「男たちの世界で、除け者として周縁におかれた女たちが、そんなクソ現実から逃げる物語」と、

「好きな男に捨てられた女が失恋の傷心のあまり“負け犬として”逃げる物語」

では全然違う。全然違う。

 

何故ならば、そこでは、この物語では、

「好きな男にずたずたに捨てられるのは可哀想であり女にとって失踪するほど傷付くことだ」

「結婚できないのは可哀相で、女にとっては、みっともなく男に縋り続けるほど深刻な問題だ」

という従来の価値観は、否定しなければならない、否定されるべきものだからだ。

なのに、あれでは、そういう価値観を、そうした価値観の存在を逆に「肯定」する話になってしまう。肯定する話になってしまう、というのは言いすぎでも、見ようによってはそう受け取られる可能性が出てくる。

 

 

腐女子たる自分とフェミストの私のアンビバレント

 

 ってのが以上、「この映画がわかりにくくなってしまった理由」だとして、しかし、私が個人的に語りたいのは別にそんなとこじゃないんですよ。7000字近く書いてなんですけど、私が、「この映画やべえな」って思ったのは、そんなとこじゃなかったんですよ。

というのが記事タイトルなんですけど、いやあ、私にとっては、「アズミ・ハルコは行方不明」って、自分の在り方みたいなのを(勝手に)突きつけられる非常に辛い映画であったのだ。作者は全然そんなつもりで作ってないと思うから、以下、私が勝手に受け取った話なのだけど(なので読み飛ばしていい)

 

というのは、この作品自体が、上記のように、「男達の世界で除け者にされ周縁化した女たちの物語」であることも、そこに作者が込めたメッセージも、物凄くわかるし理解出来る一方で、

けど、けど、けど!!!!!

ユキオと学くん、萌えるんだよな~~~~~

 

スクールカースト高いオラオラ系なとこがあるユキオくんと、内向的で非リア出身の学くんが、微妙にこの地方じゃ居場所が無い感とか、何かやらなきゃなって鬱屈で繋がって仲良くなっていく過程とか、

ユキオが、完全に、カワイイ高畑充希ちゃんを放っておいて、学と遊ぶことの方が楽しいし~~ってなってるのとか、学も学で、100%「アイナ邪魔!俺とユキオ二人で始めたことなのに邪魔すんなよ!」って思ってる感じとか、でやっぱり最後は、「二人で何かやろうぜ!」ってイベントに関わっていくのとか、

小説でも萌えたが、映像になると二人の演技が絶妙なのもあって、更に、萌える。

 

かつて、二階堂奥歯さんは、

「私はフェミニストでありかつマゾヒストである。
フェアネスを求める私が、残酷さを愛するということ、この事態は許容されうるのか、私はそれをどう受け止めればいいのか、これは私にとって重要な問題である。
女性を抑圧し支配し利用する言説と制度に反対しながら、責め苛まれ所有され支配され犯され嬲られ殺される女性の状態を愛することは、許されるのだろうか。」

という文章を書いていたのだが、まさにこれに近いアンビバレント

 

つまりこの文章に則って言えば、私は、フェミニストでありかつ腐女子なんですよ。

 

男達の都合で動き男たちが牛耳り、そこでは女達の存在は決して対等ではなく、時に存在を無きものにされたり、時と場合により、都合よく「価値ある女性」(SEXさせてくれるとか若いとか)と、「無価値」なものとして扱われる(ブス、ウザい、重い、年増)、ホモソーシャル社会を許してはならない、という気持ちを持つフェミニストの自分と、

一方で、

女達を除け者にしてきゃっきゃっと男だけで絆を深くする男達の関係性に萌えてしまう腐女子の自分。

どちらも確かに、自己としてあるわけです。どっちが、とかじゃなくて、どっちも紛れもなく「本当の自分」なわけです。

「アズミ・ハルコは行方不明」は、この矛盾を強く突きつけられる映画であったのだ。

 

これ、スケールが全然違う気もするが宮崎駿の「風立ちぬ」なんかも近くて、あれはハヤオ自体も持っている、

戦機や飛行機を、それらが戦うのを、かっこいい!と興奮してしまう自分と、戦争には反対だという平和主義の自分、っていう矛盾 の物語ってことが語られている

 

なので、この「アズミ・ハルコは行方不明」という作品は、こういう、自己の中にある「矛盾」にどう向き合っていくべきか、なんてことをグダグダと考え続けてしまう映画であって、まだ結論は出ていないのだけれど、そういえば似た様なことは、「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」を観ても思ったなあと思い出した次第である。