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センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた24歳。吾妻ひでお、山田花子、真造圭伍、九井諒子などが好きです。

正月はとっくに終わったが2016年にハマったものでも振り返る。(※ようやく「ユーリ!!! on ICE」の話)

前回、「正月で暇だし2016年にハマったものでも振り返る。」とかいって、ユーリの画像をこれ見よがしに出しておきつつ、

 

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

結局延々ハイローの話しかしなかった私だが、何というかねえ、ユーリについてはずっと書きたいと思っていたんですけど、書くべき事が多すぎてねえ、どうすればいいか…どっから書けばいいのか、分かんないんすよ…

 

あれだけオタク界で盛り上がっていたのだからと意気揚々とコミケカタログを開いたのに、全然スペースがなかったハイローとは異なり、

「この行列何だ!?」と思ったら、大体ユーリの法則、というのを目に見えて体感出来たくらいなので、既に大盛り上がり。

面白いのは皆知っているわけだし、今更なあという感はある。

なので、面白いのは皆知っているから、かなり個人的な、自分のフィギュアやBLに対する思いを中心に語りたいと思う。

 

ところで、2016年に大ハマリしたもののうち、「まさかハマるとは思っていなかった」のがハイローだとすれば、始まる前から「絶対にハマるに決まっている気がしていた」のが「ユーリ!!! on ICE」である。

 

というのは元々、スケオタまではいかないまでも、結構フィギュアスケート好きなんですよね。

しかも、フィギュアを好きになったきっかけというのが、かのプルシェンコなので、どう見てもプルシェンコに寄せてるっぽいロシア人のキャラクターがいるっていうのはかなりポイントが高かった。

更に、私の、「フィギュアスケートが好き」っていう思いには、後で説明するが、「見たいんだけど見たくない」と表現すべきような、色々アンビバレントな思いが入り混じっているのだが、

キャラ設定やPVを見た時点で、この「ユーリ!!! on ICE」というアニメは、私が抱いているフィギュアへの想いと、フィギュアを好きな理由、更に私が萌えるやおい的関係性のパターンをかなり汲み取ってくれているような作品なんじゃないかという気がしたのですよ。

 

www.youtube.com

 

結論から言うとその想像はある程度裏切られたわけだけれど、裏切った上で、目からウロコが落ちるような「男同士のラブのあり方」を示してくれたように思う。

というのは、後に詳しく記述するとして、先に、フィギュアに対する想いの話。

 

 

フィギュアという残酷スポーツと私が当初想像していた「ユーリ!!! on ICE」

 

冒頭に載せた記事の登坂広臣に関するくだりでも延々この言葉について語ったので、お前、どんだけ「残酷」って言葉好きやねんって感じではあるが、

私がフィギュアスケートや羽生くんを好きなのは、端的に言えば、それが美しいと同時に非常に残酷なスポーツだからである。

 

残酷さという言葉が意味するものは色々あるが、第一には、個人の才能や力の差とそれらの限界が、この上なく歴然と現れてしまう、という点にある。

頑張れば何とかなるとか、途中までは負けてても後で一点取り返せば勝ちとかそういう話ではない、「個人」の力と才能こそが一番物を言う世界。

 

考えてみれば、「勝生勇利って、GPFに出られるだけで相当すごいじゃないか」っていうの以前に、全日本に出るような選手というのでさえ、その地域では一番の、親や友人や地域の人に「すごいすごい」と褒められ存分に期待をされ、四六時中練習に打ち込み、人生の殆どをフィギュアに注ぎ込んだような人間のはずである。しかし、その殆どがTVでは無名扱いで放送されなかったりもする。

GPSに出るようなトップの選手でさえ、たとえば羽生くんとはトータルで100点くらい差があったりする。そしてたぶん、彼らは一生かかっても羽生くんには追いつけないのである。

もっと残酷なのは、ノービス時代やジュニア時代は、羽生くんと肩を並べていた、一緒に練習していた、ないしは一緒に表彰台に乗ることもあっただろう選手が、現在ではもう天と地ほどレベルがかけ離れてしまっている場合。

 

私は、羽生くんを見るとき、彼の裏に数多いるだろう、かつては彼と同じくらい可能性があったことを信じていた、或いはもう信じられないのにそれでも四六時中練習に打ち込まざるを得ない人たちのことをつい考えてしまう。

それで、羨望と同時に、もっと彼の、常人では決して到達できない才能を見てみたいという思いと同時に、よく知らないのに何となく胸がギュッと掴まれるような哀しさがよぎる。

論理的順合性のない非常に不可解な心理だが、「だから」私はフィギュアや羽生くんが好きなのだ。好きと言うのは正確ではないかもしれなくて、この「影の予感」によってどうしても胸がざわざわする感じが、彼を見ざるを得ない一つの大きな理由になっている。

 

ということで、初めにPVを見た時点で、っていうか一話の途中まで、私はこれ、てっきり「絶対王者であるヴィクトルと、彼に憧れる勇利が氷上で戦う話」だとばかり思っていたのだった。

であるならば、「ヴィクトルと一緒にGPFで金メダルを目指したいです」って台詞はちょっと変なのだから気が付けよって感じだけれど、これ「ライバルとして金メダルを目標に一緒に戦おう」ということだと捉えたのである。

 

だからこそ、最初のGPFでボロ負けした勇利が、ヴィクトルから、「記念写真、いいよ」と声を掛けられるシーンは物凄くゾクッとした。いいシーンだと思った。

同じ氷上で戦っていても、この時点では、ライバルとさえ認定されていなかった。GPFに出ること自体、勝生勇利にとっては「記念」に過ぎないものだと、ヴィクトル側は捉えている、二人のそもそものポテンシャルや才能が圧倒的に違うことを、天才的才能を持つ者の無邪気な傲慢を、そして、上記に書いたようなフィギュアスケートというスポーツが持つ残酷さを、一言で表現するような大変良い台詞。

 

なので、ここから描かれるべきは、圧倒的存在ヴィクトルに勇利がどうにかして追いつこうとし、

だからこその、「一緒に金メダルを目指す」つまり、来年はライバルとして認めてくれっつー展開かと思っていた。

そして、そこで更に描かれるものは、というより描かれるべきは、私にとっては、「憧れを超えてしまうことの喜びと哀しみ」であるはずなのだった。

 

 

憧れを超えてしまうことの喜びと哀しみ

 

フィギュアスケートというスポーツが持つ残酷なあと二つの点は、

「最高の瞬間が非常に短いこと」と、「天才への期待値はインフレ化する」ということだ、と思っている。

 

例えば、同じく個人の才能が物を言うであろうピアノみたいな芸術と違うのは、肉体的ピークが表現的ピークとだいたい重なるというあたりである。つまり、身体能力を極限まで酷使した上に生まれる「美しさ」ゆえに、その美しさを個人の持つ最高レベルに表現できる時期はごくごく短い。

そして、たぶんジャンプなんかは、物凄く細かいところで調整が上手くいった時に初めて成功するものであるため、肉体的なものや精神的なものに左右されやすく、私たちはいつでも彼らの最高の演技が見られるってわけでもない。

前回は良かったが今回は良くないかもしれない。でも前回よりも良いかもしれない。同じプログラムを滑っていても、フィギュアは一度だって同じ演技は有り得ないのである。

最高の瞬間は次かもしれないし、もし次に最高の瞬間が来れば、その次はもう下っていくばかりなのかもしれない。

 

なんていうか例えるならば、もし桜が一年中咲いていたらあなたは桜を見ますか、っていうことなんですが、

 これも、私の中にある非常にアンビバレントな感情かつ傍観者ゆえのエゴで、「だからこそ」、こうした「死の予感」こそが、私がフィギュアを見てしまうもうひとつの理由になっているのだが、

「だからこそ」もう一方では、羽生くんを見たくないのである。怖いからである。次の瞬間はもう最高を過ぎているかもしれないからである。

 

こうした面は、実際のユーリの本編でも示されていて、だから、「俺はこの容姿でいられる時間が短い」「僕たちの競技人生は短い」というくだりは、そうなんだよなあと思わず涙ぐんでしまったが、

本編が始まる前、こうしたフィギュアに対する、「見たいけど見たくない」という感情は、競技者でありながら、かつヴィクトルの大ファンでもある勝生勇利にとっての、「越えたいが越えたくない」という葛藤で表現されるのだと想像していた。

 

憧れを越えることは競技者としては喜びである一方で、哀しみでもあるはずなのだ。

彼を越えるということは彼が最高でなくなったということだからだ。

 

 しかし、これは他人のエゴイズムであり、天才側にとってみれば、悲惨な重圧である。

羽生くんが、先日のNHK杯で、「106点しかない」みたいなことを自分で言っていたのが記憶にある人はピンと来るだろうが、「天才への期待値はインフレ化する」。

彼が観客に呈示した「最高」の質や点が高ければ高いほど、「次はもっとすごいかもしれない」の「凄い」レベルがどんどん上がっていくわけである。そのインフレ化した「凄い」を自分で越えることが出来なければ、大衆は、「がっかり」する。駄目になったと決め付ける。

常に自分を越え続けなければならないそれは酷いプレッシャーであり、ゆえに圧倒的な天才は孤独である理由はそこにある。

戦うのは敵ではなく自己や他人の中にある「過去の自分」という記憶であり、言い換えれば敵は自分の中にしかないからである。向き合うものは自分しかいないからである。

 

だからこそ、天才側に視点を移せば、

「越えられることは悔しさであり、かつ喜びである」

ということだと思うのだ。

 

……って話かと思ってたんですよ。で個人的嗜好を言えば、こういう関係こそが、私が一番好きなやおいなんですよ。

っていうか、途中まで多分敢えてそういうミスリードをしていたわけじゃないですか。

「いつか勇利くんがヴィクトルと一緒に戦っているとこ見たい」みたいな台詞とか、勇利も、ユーリをTVで見てその才能に焦ったあと、

「絶対にいつかまた、ヴィクトルと同じ氷上で」って言ってるし。

だから、ハマるに違いないという確信があったのだった。

 

いやー違いましたねーーいやもしかしたらヴィクトルも競技に復帰することだし二期はそういう話になるかもですけど、まさかヴィクトルが勇利のコーチになる話だとはねーーなんかねーもっと純粋なラブストーリーでしたねー

いや勿論、ヴィクトルは上に書いたような天才の孤独と苦悩を持っていたわけだし、

少なくとも国内には一緒に戦う仲間がライバルがいなかったというかいなくなっていった勇利や(優子ちゃんについて「昔はスケートがうまかった」っていうシーンや、「失っていったもの」というモノローグで、かつては一緒にスケートをしていた優子ちゃんや西郡の姿が消えていくシーンでも、それは表されている。昔のリンクメイトを自分だけがどんどん越えて、一緒の次元で戦える相手が身近にいなくなっていく過程があるからこその、「一人で戦っている」っていう想いに繋がるわけよね)、同世代にはライバルがいなかったユーリ、それぞれが孤独だったっていう描写はあったけれども

そういう意味で半分はそういう話だったんだけど、でも半分は違ったわけである。

でも結果的にハマったんですよねー

 

ハマった理由はもちろん、腐女子歓喜のサービスシーンが一話に一度は挟まれるのでアドレナリン大放出っていうのもあるし、

 

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(一話に一回は挟まれるサービスシーン…)

 

ところどころで、上記に書いたような、私がフィギュアに抱いている思いみたいなのが要素として散りばめられていた(競技人生のピークが短いことや、全力を出して自己ベストを叩き出したとしても勝てない相手はいること、ヴィクトルの持つ天才の苦悩と孤独、そして、生徒としてヴィクトルに期待することと、ファンとしてヴィクトルに期待すること、競技者としてヴィクトルに期待することが、それぞれ相矛盾するがゆえの葛藤、など)

というのも大きいが、一番は、私みたいな素人がそうして「想像する物語」からの裏切り方が凄い、という点のような気がする。

 

「ユーリ!!! on ICE」はいつも、私を驚かせる天才だっt…ていうかね 、一視聴者が容易に考えつくような話をやってちゃあ駄目ってことなんですけどね普通に!!

 

 

「ユーリ!!! on ICE」のミスリード

 

「ユーリ!!! on ICE」のミスリードは、(少なくとも一期に於いては)「ヴィクトルと勇利がライバルとして戦う話」ではないという他にも何個かあって、大きいところを羅列すると、

 

■勇利のSP曲で描かれる物語―色男が町一番の美女に目を付け、美女は色男に溺れるが、男は最後街を去ってしまう―とその物語の「暗示」が、「ユーリ!!!」の本編の物語にトレース「されない」

 

■7話での、ミッキーとサーラの話―ミッキーの精神的依存先であるサーラが離れることで、ミッキーが良い演技ができた―が、同じく、一時的に離れる状況にあったヴィクトルと勇利の関係に適用「されない」

 

■あれだけ、基礎点の高いジャンプを飛ぶJJに勝つには~と、対・JJ戦を煽っといて、JJがラスボス「ではない」

 

劇中劇が本編を暗示するって、フィクションではよくある手法だと思うんですが、暗示してないんですよ「ユーリ!!! on ICE」は!!

で、その裏切りが「拍子抜け」ではなく、より効果的に演出として働いているのが凄いんですよね。

 

7話では、あの例の月9名シーンを生み出しましたし、GPFの魔物に飲まれたJJの不調とそこから立ち上がるシーンは劇中屈指の号泣ポイントだったと思う。

ライバルに勝つシーンは、そのライバルが強ければ強いほど燃えるわけなので、JJ対策をどうするかを、「JJがミス連発」にするっていうのは下手をすると拍子抜けになってしまうのに、それを単にJJが強い、よりもっと心に響く演出に持っていく力量。

ジャンプが抜けに抜けまくって、それでも、4回転に挑戦するあのシーンや、ボロボロの演技を終えたあと、それでも笑顔を作り、「イッツJJスタイル!」とポーズを決めるまでの流れ、自分が求めているJJのために、世界が求めているJJのために、立ち止まることは、挑戦しないことは、落胆することは許されないのだと、立ち上がらなければいけないのだという決意が伝わってきてもう号泣メンですよ、ってかあそこで一番泣きましたよ。

 

しかし、私が一番驚いたのは、勇利のSPで表現される物語がミスリードだったというあたりである。

ヴィクトルがまだ何を考えているのかよく分からなかった3話時点であれを見れば、誰でも、ああ、この勇利のSPで描かれる物語が本編でのヴィクトル―勇利 間の関係に適用されると思っちゃうわけじゃないですか。

色男は女を翻弄したあと街を去る、つまり、ヴィクトルと勇利の別れの予感ですよ。

しかしこれは本編にトレースされず、結局2人は離れずに傍にいたわけですよね。

かつ、構造上もう一つミスリードが含まれていて、10話のどんでん返しで、勇利は美女を翻弄する男側だったことが判明したという。

実は、先にヴィクトルに「Be My Coach」と誘い、誘っていながらそのことを完全に忘れており、近づこうとする(物理的に)ヴィクトルから遠ざかったり、絶対に僕から離れないでみたいな熱烈アプローチをしたり、お揃いの指輪をくれてその気にさせたかと思えば、次の日には「GPFで終わりにしよう」とか別れ話をする、

 

もうね、何、「いきなり現れた憧れの人に振り回されるヒロイン」ぶってんだよ勝生勇利!!!って感じですよ!!

お前がヴィクトルを翻弄しまくりじゃねえかよ!!!

しかも怒られると結構逆ギレするしな!!!

自分が勝手に放牧宣言したせいでヴィクトルが泣いてんのに、「ヴィクトルでも泣くんだー」って髪かき分けて顔をマジマジと見たり、自分が泣いて怒鳴ってヴィクトルをおろおろさせたことに対して、「僕が急に泣き出した時のヴィクトルの顔面白かったなー」とか笑ってんですよ、クソサイコ野郎ですよ!!

だがそれがいい

だがそれがいい

このね、勇利が全然、内向的で大人しくて純粋無垢のヒロイン・ポジションではなく、大人しそうなのは見かけだけで、トップアスリートかつ表現者ならではのエゴ全開の超自己中男というキャラ設定が、非常にこのアニメの魅力になっている。

 

 

勝生・サイコパス・勇利とユーリ・不憫・プリセツキーの話

 

通して見るとよく分かるのだが、このアニメ、世界の頂点で戦うトップアスリートかつ一人で氷上を舞い表現するフィギュアスケーターという性質もあってなのか、

「○○なのは(○○ができるのは)世界中で僕だけ」

という台詞がかなり頻出である。

そうした唯一無二性を至上とする価値観なので多分基本的には、俺が目立ちたい!人間ばかりで、そんな中にあって、なかなか自ら自己主張できず、自分への自信の無さから本番では上手くいかない勝生勇利という主人公が、ヴィクトルと練習や生活を共にすることで、「彼と一緒にいたい」「彼を驚かせたい」という思いをスケートに乗せ表現できるようになっていく…

 

みたいな話と見せかけて、いやそんな話なんだけどさ、半分は違うんだよ。

だってさ、これも通して見るとよく分かるけど、勇利って基本的に、自分とヴィクトル(厳密には、ヴィクトルと一緒にいたいという自分の気持ち)のことしか興味ない奴じゃないですか。

 

中四国大会の説明の際に、三姉妹に「あ、でも南健次郎くんが出るよ」みたいに教えてもらってるはずなのに、翌話ではそのことをすっかり忘れ、南くんに話しかけられたあと、「南健次郎選手」って名前が呼ばれても、全然ピンと来てないし。

 

で、まさしく、久保ミツロウ漫画の童貞主人公の系譜を受け継いでると思うのは、

「自分に自信がない」という状況が、こういう、基本的に自分にしか興味が無いことの裏返しとして現れているというあたりで、

勇利って、

「○○って思われたらどうしよう~」とか、「絶対○○って言われるよ~」(こんな写真出回ったら絶対遊んでるって思われるよ~とか)、みたいな台詞が非常に多い。結構何回も出てくる。

これは厳密な意味で他人そのものを気にしているんじゃなくて、「他人の鏡に映っている自分」を物凄く気にしちゃってるってことですよね。こう思われたらどうしようとか、ああ言われたらどうしようとか、「他人の鏡」を強く内面化しているので、だからこそ、なかなか自信が持てない。(自分に絶対的な自信がないから他人の鏡を過剰に気にするとも言えるが)

端的に言うと、自意識過剰型ってことで、こういう人って、自分が取るに足らない存在だと思っているから自分に自信が持てないんじゃなくて、自分に強く興味を持っている(自分への関心が強い)から、引っ込みがちになるんですよ。

ほんとに取るに足らない存在だと思ってたら、ああ言われたらどうしよう~とか気にしませんから。

 

で、そんな基本的に、自分とヴィクトルのことしか考えてない勝生勇利の一番の被害者だと思うのが、ユーリ・プリセツキーで、もう私は本当にユーリが不憫で不憫で…

 

だって、ユーリは最初っから、勇利のことをかなり気にしてますよね。

一話でのトイレのシーン、あれ多分わざわざ、勇利の姿を見かけたから追いかけってってるじゃないですかユーリは。

何故か、惹かれてしまった男。同世代では敵無しだったユーリが、多分、可能性みたいなのを感じてもしかしたらライバルになるのかもしれないと気になったんだろう。

それが、情けなく泣いていたから、俺のライバルになるかもしれない男がボロボロ泣いてんじゃねえよ、というがっかりした気持ちと、(ユーリなりに)発破をかけたかったからのあの台詞で、その後も、ユーリは勇利にライバル心全開なわけです。

見てろカツ丼とかどうだカツ丼俺の滑りはとか、いちいち勇利を意識して滑っているし、それでありながら、勇利が失敗しそうになると思わず応援しそうになり思い入れぶり、勇利が表彰台のぼれなかった時は、(何故か知っている)誕生日プレゼントとか称して、カツ丼ピロシキをあげて元気づけようとしてくれている。

 

なのに、この、ユーリの勇利に対する思い入れっぷりに対して、勇利、あんまユーリのこと気にしていないのである。

っていうか、正確な意味で、「ライバル」だとあまり思っていなさそうな節がある。

 

例えば、

ユーリが、ヤコフの元奥さんに教わっているらしいみたいな報告を優子ちゃんから受けても、「あーそうなんだ」ですよ! まるで興味無し!!

ユーリが滑りを終えて、どうだカツ丼俺の滑りは!って時にも、ヴィクトルといちゃいちゃしてるだけだし。子供の運動会に来た夫婦みたいに呑気に「ダバーイ」とか言ってるだけだし。

 

あと、ロシア大会でのシーン。勇利は、

「この間の中国大会と違って仲良い選手いないんだよな~」とか言っているが、つまりこの台詞、一応一定期間、寝食を共にして面識あるはずのユーリは、勇利にとって「仲良い」枠には全く入れられてなかったっつーことである。

 

その後の流れも大概アレで、エレベーターで一緒になったユーリに、勇利は、

「お互い頑張ろうね~」とかのほほんと声を掛け、

「あ? お前はここでボロ負けすんだよ」とか返されているわけだが、ここまで勇利はニコニコと微笑んでいるわけ。

ユーリにお前はボロ負けすんだよと言われた時には微笑んでいるのに、それが、

「お前は負けてヴィクトルはこのままロシアに残る」みたいな台詞で初めて、表情が曇る。

  

そうなのだ!!

繰り返しになるが、勇利は本当に「ヴィクトルと一緒にいられるか」しか気にしてないんである。

滑っている時のモノローグも、ユーリはあんなに勇利を意識してるのに、当の勇利は、ここで勝たないとヴィクトルと一緒にいられない~とか、ヴィクトルを驚かせたい~とかヴィクトルの想像を越えられる~とかヴィクトルばっかである。

もちろん、ユーリに対して、焦燥とか敵対心みたいな感情を抱くことはあったけれど、その根底になっているのは、「ユーリに負けたらヴィクトルが自分の元から離れることになるから」なのであって、厳密な意味で、「ユーリ自身に負けたくない」からじゃあなかった。

 

っていうか、それは対・ユーリだけではなくて、本編を通してほぼずっとっていうか、負けず嫌いと言いつつ、それはむしろ、「誰よりも自分が美しいと見せつけたい」みたいな表現欲であって、「特定の誰かに勝ちたい」みたいな闘争心とか「特定の誰か」を絶対に勝ちたいライバルとして分析し目に焼き付け執着したりとか、あんまりそういうシーンがない。

スケートを続けたいのは、より良い表現ができるための根底にあるのは、ヴィクトルと一緒にいたいとかヴィクトルを驚かせたいとか、そういう気持ちのが強い。

 

で、このことはおそらく非常に重要なポイントだと思っていて、

だからこそ、あのラストに意味と感動があるのだ。

 

ヴィクトルは、勇利の、スケートを続けたいとか表現したいという欲望の強い原動になっていたわけだけれど、スポーツにもう一つ重要な「勝ちたい」という闘争心の部分に火を付けることができたのは、ユーリの方だった。

あそこで初めて勇利は、ユーリに振り向いたんですよ。

勇利が、本当の意味で誰かに「勝ちたい」と思った瞬間ですよ。

 

思えば、実は2話でもその片鱗は出ていて、ヴィクトルに、

「勇利はどうしたい?」と聞かれた時に、「ヴィクトルと一緒にカツ丼食べたい」って答えるシーンがある。

初めて見たときよく分からなかったけど、

つまり、カツ丼=勝たないと食べられない食べ物

という前提を踏まえた台詞であって、だからあれは、勇利が

「勝ちたい」と声に出すことが出来たってことなのだな。

 

それまで、シニアデビュー初年なのに、金メダル獲るとかガンガン宣言し勝利に対する欲望を隠さないユーリに気圧されていた勇利が、ちゃんと自分も、

「勝ちたい」と声に出して宣言出来るようになったシーンなわけである。

 

この、

スケートへの愛情や表現欲=ヴィクトル 闘争心=ユーリ という人物配置は、表現の美しさと肉体的限界ギリギリの大技成功両方がポイントとなる、芸術とスポーツ、二つの側面がある「フィギュアスケート」という競技でこそ生きてくる配置なのであって、だからあのラストは、ユリオ報われてよかったねええという感動と同時に、フィギュアスケートアニメであるという意味を生かした良く出来た構造だなあと思った

 

 

 で、この主要三人の構造について更に気が付いたんですが、これ怒らないで聞いて欲しいんですけど、「ユーリ!!! on ICE」=ハイロー説。

というのは、このアニメに於いて、

ヴィクトル=伝説 であり、ユーリ=希望 として象徴されているように思うのだ。

ユーリのGPFの演技を見て、ヤコフがジュニア時代のヴィクトルの影を見たように、ユーリは、未来であり、これからまだ沢山の可能性がある希望なのである。

そして、伝説に影響を受け、希望に闘志を与えたのが中間の世代にいる勇利、という構造。

まさに「Hope&Legacy」の物語、すなわち、ハイローじゃないか!!

 

っつーのは冗談として、そういう風に、2人のユーリである、勝生勇利とユーリ・プリセツキーの関係、或いは、クリスとヴィクトルの関係なんかが、羨望と対抗心、嫉妬や友情など様々な感情から成る非常に「やおい」的である一方で、物語の軸となるヴィクトルと勇利の関係は、私が当初思っていたより、もうずっとずっとラブストーリー的ですよね。

「憎」や「妬」がないわけ。

 

ヴィクトルと勇利について、「BANANA FISH」の英二とアッシュを彷彿とさせるみたいなことを書いていた人がいたが、天才的な外国人と朴訥とした日本人みたいな表面上のスペック以上に、理由として大きいのはそこだと思う。

BANANA FISH」は、アッシュと英二以外にも色々、男同士の深い関係性みたいなのが出てくるんだが、それは殆どが、男同士の「愛憎」劇なわけである。

アッシュを執拗に追う、コルシカ・マフィアのボス、ディノ、チャイニーズ・マフィアを支配する李家の末弟である月龍、チャイニーズの不良少年グループのボスであるシン、など、アッシュに執着するないしは敵対する男たちは皆、基本的に、彼のことを、強く憎んでいる。自分には到底持ち得ない物を持っていることの憎しみ。絶対に自分のモノにはならないことからなる憎しみ。すなわち、憎んでいるという言葉が同時に、<愛している>という意味にもなる、羨望と憧憬の裏返しとしての執着であり嫉妬心であり憎悪なのである。
しかし、そんな、アッシュを軸とする複数の「ブロマンス」の交錯の中にあって、「ラブロマンス」が一つだけ描かれている。
それが、もう一人の主人公、日本人の青年、英二との関係である。

 

この、アッシュと英二の間にある絆だけは、非常に、<ラブロマンス>的で、互いが、一緒にいたいから一緒にいたい、関係のための関係、というような間柄として描かれている。

 

「ユーリ!!! on ICE」が新しいのは、一つには、スポーツ物やバディ物で、男同士の深い関係性を「やおい」的に描く物語っていうのは今までも沢山あってその関係性を腐女子は、恋愛に読み替えて同人誌を作ったりしてきたわけだけど、「ユーリ!!!」はね、スポーツ物かつ純粋な(広義の)「ラブストーリー」をやってんですよ。

それも、「戦う男が、頂点を目指す男が彼を応援してくれる女の子に恋をする物語」サブストーリーではなく、彼の、彼に対する想いこそがメインという形で。

 

「弟の夫」という漫画に、男同士の夫婦について、姪っ子に「どっちが奥さんなの?」と聞かれ、それについて、

「どっちもhusbandだよ」と答えるシーンがあるんですが、私はこの「どっちもhusbandだ」という台詞を思い出した。

 

ヴィクトルも、当初は、自分のライバルを作りたいとか、何より「自分ができること」に自分でも飽きてしまったような状況にあって、本当は自分が一番何かに驚きたかったのだろう中にあって、何か自分を驚かせてくれるものをみたいな気持ちとか、要するに自分のためみたいなところはあっただろうけど、どんどん、勇利に惹かれて勇利とこのまま一緒にいたいみたいな気持ちの方が強くなっていってしまう。

自分が一番だった男が、競技者たる自分の可能性を殺してまでも、コーチとして勇利の傍にいたいというところまでいくわけですよ。

 

 

あ、スポーツ物で、かつラブストーリーって、出来るのか! やってもいいんだ!

っていうのが一つ大きな発見である。

しかも巧いのが、関係が深くなっていっているのとか時間経過を、勇利の口調の変化(途中からタメ口になっている)や、態度の変化(自分からヴィクトルにグイグイいったり、なんか対応が杜撰になっていっている)で表現してるとこ、

5話でいきなりヴィクトルへの態度が杜撰になっているのは多分時間経過だとして、中国大会の時にはシングルずつだったはずの部屋が、ロシアでは当然のようにツインになっているのは、間に何かあったと踏んでるんだけど…

 

という腐女子的邪推はともかく、更にもう一つ凄いのは、劇中でそうした男同士の恋愛めいた関係性を「突っ込んで」ないところですよね。「違和感のあるもの」として表現されていないと言ってもいい。

 

当事者たるヴィクトルも勇利も、そもそも、「男同士なのに…」「男なのにキモいって思われないかな」みたいなことを一切考えないのはおろか、

ヴィクトルと勇利が、お揃いの指輪をしているのを見て、ピチットくんが、

「皆ー僕の親友が結婚しましたー!」

と即座に祝福していたりする。

これも何気に良いと思ったのは、その後登場するJJまでも、

「残念ながら金メダルを取って結婚するのはこの俺だ」

って言っているところ。

つまり、自分(JJ)とフィアンセ(女性)の婚約・結婚と、ヴィクトルと勇利の婚約・結婚ちゃんと「同列」に、「同じ次元の話」として扱ってるんですよ。

 

これって凄いことで、

今までこういうのって、何となく「劇中で突っ込みを入れなければいけない」みたいな不文律があったわけじゃないですか。

キモいとかお前らそっちなの?みたいな「茶化し」とか「デキてるんかい!」みたいに「笑い」に変えたり、それは流石にしないまでも、

商業BL漫画であってさえしても、これまでゲイを公言していなかった男同士が何の葛藤もなく普通にお揃いの指輪つけてたら「それは、どうなんでしょう、やっぱり人の目が気になるでしょうし他人も、え?って思うのでは」みたいなツッコミが多分編集から入るし、

「俺達…男同士なのに…」みたいな葛藤とか、「ゲイじゃなかったはずなのに…何でこいつに惹かれるんだろう」という思索とかを描くことが、むしろ、「深いBLの物語」みたいになっていたわけじゃないですか。

そうでなければ、「俺はゲイで」みたいな「理由付け」が必要必至だったわけじゃないですか。

っていうか、ユーリファンでさえ、

「この作品はただのホモじゃなくて、もっとこう壮大な師弟愛とか…」

みたいに言うじゃないですか。そういう言い方って非常に差別的じゃないかとは思うけども、差別心の他にも、そもそもの、なんかさあ、性愛的関係が、師弟愛とか家族愛とか友情よりも下、みたいなさあ。そういうさあ。

 

 でも、そういう気持ちは私にもあったのである。

恋愛を下に見る気持ちとか、男同士の葛藤が描かれているものこそ深い物語だ、みたいな考え方。

私は「ユーリ!!!」を見て、考え直した

むしろ、現実もこういう世界であるべきだと。

 何で、男同士なら、茶化したり或いは葛藤しないといけないのか?

「理由」がいるのか?

悩むべきものでも突っ込むべきものでも特別な理由が必要なものでも珍しいものでもはたまた素晴らしいものでもなく、JJとフィアンセの結婚と自然と「同列」に扱われる世界、これって物凄くポリコレ的に正しいっていうか、ああ、それでいいんだ! と目からウロコ。

という意味で、自分のBL観がガラリと変わった作品でもあるのであった。

 

 

…でもやっぱ、ライバル萌えクラスタとしては、ヴィクトルと勇利がバチバチに戦ってるとこも見たいや。