センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた25歳。ボーイズラブの話多し。https://twilog.org/Barako_Fu

ふつうの日記と備忘録としての5月上旬映画雑感

 

ふつうの日記

 

平成最後の1年が始まったらしい。

 

25歳にもなってまだ中2病から抜け切れていないから、「平成最後の1年」という言葉、すごくいいなあと思う。

通常はそれが最後の1年かどうかなんて始まる前には分かり得なかったわけだが、平成に限ってはもう先に分かっている。この、未来から“それが最後の1年だった”と振り返る感じを、今この地点で体感できるような。

実際に、平成を駆け抜けた2つのアイドルグループが今までのような形ではいられなくなり、野球や将棋やフィギュアスケートで、これまでの記録を塗り替える規格外の人間が人々に熱狂を以て持て囃される。終末と狂騒。時代と時代の狭間、感。

2年後には東京オリンピックが控えている。

 

日記でもつけておくべきなのかもしれない。

何しろ、私は去年のGW何をしていたかすらほぼ覚えていない程度に記憶力がザルなのだ。たぶん何もしていなかったんだろう。

一昨年のGWは、自分の退職騒ぎの顛末をノンフィクション小説調に書いて、「今年一番のエンターテイメント」と同僚にクソのような褒め言葉を頂いたりしていた。

それを思い返せば、自身の今の生活には随分エンターテイメント性が薄れてしまった。

 

先日、「○○さんはGWどっか行くの?」とカイシャの人に訊かれた際、

「いやーどこも行かないっすね、溜まってるもんが沢山あるので…掃除とか」と答えて、ほんとうにそのつもりだった。スパコミとかGWのイベントとか電車欲とかも絶って。

「1人暮らしの女の部屋の掃除なんて、1年に1回とかで十分じゃん」と言われたから「今がその1回なんですよ」と返した。

 

1年に1回どころではない。現状、2015年4月に上京してきた際の段ボールが未だ部屋の中に何個も積まれている状態のままである。

 

“ほんとうにそのつもり”だったのに、実際はGWに入って6本映画を観た。連日新宿に出ていた。まあ、4月の怒涛の羽生祭りの為に他のエンタメを一切絶っていたから、映画も「溜まっているもの」ではあるのかもしれないが。

 

 

GW映画備忘録

 

 

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2018.5.2 21:10~ アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー@TOHOシネマズ新宿

 

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ピタトニ大勝利。

 

 

「いや、どうすりゃいいねんこんなん…」

と、エンドロールの間中呆然とするくらい本編がマジで超絶鬱展開なので、くだらない中の人ネタと腐ネタくらいしか喋れないため、とりあえず今言いたいのはそれだけである。ピタトニ民、息してる?(萌えと絶望両方の意味で)

 

 

ところでやや話は逸れるようだが、何かこういう言い方をすると洋画ファンにかなり怒られそうなんだが、IWを観て改めて、やっぱハイローってアベンジャーズだったんだなって思った。

所謂クロスオーバーっていうんでしょうか。てんでバラバラな世界観の、それぞれの世界観で主役を張るような登場人物同士が、同じ画面に収まってしまった時の組み合わせと相互関係が生み出す面白さ。

IWに至ってはほぼ、「ピンチ! どうする!?」⇒おっとそこに現れたのは?⇒○○だったー! (ハイローも結構この構図だよねえ…)

の繰り返しと、そこで現れた○○と××が組み合わさるとこうなりまっせという応酬ギャグと化学反応とアクションと、あとは強敵サノスによる、

「おまえは大義のために愛する一人を犠牲にできるか」テスト

で持ってるみたいな映画じゃないですか。

まあ、この「大義のために少数を犠牲にできるか」 問題は、今回、これまで単に「残忍で強大な敵」というだけだったサノスのバックボーンや義娘ガモーラとの関係が描かれることを含め、IWの軸となっているのであろうテーマではあるのだが。

 

 

それはさておき、前回のアベンジャーズ以降、また色々増えたおかげで、そんなヒーロー同士の組み合わせの数も増え、

 遂に対面を果たした(そして案の定相性の悪い)シャーロック×ホームズという図の面白さとか、

アベンジャーズでも「ナチュラル男前枠」であるらしいソーに、対抗心をメラメラ燃やしまくるスター・ロード、の面白さやキュートさとか。(デブネタを映画の中でまでいじられるクリプラ面白可愛いすぎる)

ああ、ここを組み合わせるとこうなるんだな!

って楽しみは今回新たに諸々生まれたのだけれど、しかしやはり私が何より滾ったのは、「シビル・ウォー」や「スパイダーマン:ホームカミング」に引き続いての、アイアンマン(トニー・スターク)とスパイダーマン(ピーター・パーカー)という萌えである。

 

もうまずキャスティングがいいよね。今更だけど。

どこか人が自分に踏み込みすぎることを拒絶している感じの、若干のやさぐれ感というか厭世感のあるロバート・ダウニーJrと、一応成人はしているはずなのに少年らしい無邪気な愛嬌溢れるトム・ホランドくんの相性、めちゃくちゃ良すぎる。

スタークさんに早く認められたくてはしゃぐピーターと、割とぐいぐい来るピーターを、「坊や」呼ばわりでステイステイステイって感じに留めようとするスターク。最高か。

 

で、スタークとピーターの再会シーンからもうやばい。

アイアンマンのピンチに颯爽と現れ敵から守ったのはスパイダーマン…って何それもう最&高。 

年下(新人)の方が、年上ベテランを助けるという萌え、タイバニ民なら必修科目だろ?

 

 

そして、私がうっかり劇場で、「マジで!?」と叫びそうになったのは、ストレンジ先生のマントを見て、スタークが、

「ご主人様思いのマントだな」と言ったあと。

 

ピーターが、その言葉を受けて、

「ご主人様思いと言えばここにも…」

と出てくるのである…!

 

 

ひええええええええ、ピーターにとってのスタークは…ご主人様って位置づけなんだ…!!!! しかも、自分はご主人様思いって自負があるんだ…ひえええええええ…

しかも、僕だってあなたが心配で来るくらい主人思いなんですよ的にマントに張り合ってアピールしてるとか可愛すぎだし、そのあと、何でお前ここにいんだよ!的にスタークさんに咎められたら、「あなたが心配で…」って言ってるのも、おいおいおい年下わんこ攻め来ちゃったわって感じだけど、

とどめに、スーツが引っかかって云々みたいな言い訳をつらつら述べたあと、「つまりあなたのせいでもある」とか言い出す…こんなん、「お前が悪いんだ」って受けを押し倒す攻めが言う台詞のあれじゃん…!(違う)

 

 

更に、ピタトニ民としては大勝利なのか大敗北なのか、こんな時どういう顔をすればいいのかマジでわからなくなるラスト。

ストレンジ先生の言っていた「勝ちパターン」としてのどんでん返しがあるかと思いきや、まさかのそのまま敵倒せず展開で、6つのインフィニティーストーンを手にしたサノスによって宇宙の人口の半分が消され、ヒーローたちも次々と消えていってしまう場面。

 

自分が消えゆくことを察したピーターが、ぎゅっとスタークさんに抱きつきそこから押し倒すように倒れこみ(そんな感じだったよね? 記憶改竄してる可能性はかなりある)

ピーターは、ごめんなさいと謝るのだ。

自分が死んだことの責任にスタークが苛まれ続けるだろうことを知っているから。

 

…なんて、なんて素晴らしいシークエンス…

 

ピタトニ民として、こんなん公式が今後はピタトニを推していくという方向性が定まった以外の何でもないですやんという萌えに咽び泣けばいいのか、消えゆくピーターの悲痛な表情とひとり遺されたスタークの静かな哀しみに涙すればいいのか、感情が迷子のIW屈指のシーンである。

 

 ってか、ここトムホくんの即興演技らしいじゃないですか。いや、スパイダーマンを彼にした人マジで天才じゃないすか?

 

 

トムホーーーーー泣

 

 

ところでこれは蛇足だが、前に「ワンダーウーマン」を観た際にも同じことを思ったのだが、こういう大作洋画系の字幕、新宿の映画館だと結構な割合で外国人の客がいる。

彼らが、ところどころで挟まれる会話の応酬ギャグに声をあげて大爆笑しているのを聞くと、私は結構不安になるのだった。

 

え、私はこの映画ほんとに分かってるのかな…? って。

 

たぶんというか絶対ぜんぶはわかっていないのだ。

字幕と吹替両方見ると、結構訳のニュアンスが違うことってよくあるじゃないですか。

で、○○(字幕or吹替)のが面白い、ってことも結構あるじゃないですか。

会話の応酬以外でも、原語ではただ名前を呼んでいるだけなのに、「大丈夫?」って字幕がついてるみたいなこともあるじゃないですか。

 

原語自体が持つニュアンスって、やっぱりどうしても、字数や時間の制限がある字幕や吹替では全部は伝わりきらないんだろうなあと思う。

 

英語わかるようになりたいなあ(言うだけ言うだけ)

 

 

2018.5.3 12:50~ 君の名前で僕を呼んで@新宿シネマカリテ

 

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観終わったあとの雑すぎる感想。

「思いのほか鬱屈も殺伐もしていない、爽やかな普通のラブストーリーだ…」

 

とはいえ、私はユーリ!!! on ICEを見て以来、男同士であることの葛藤や不幸、あるいは男同士“なのに”を描くこと=深いラブストーリー みたいな考え方だけじゃなくてもよくない?と思うようになっているのである(という話はこちらに書いた⇒正月はとっくに終わったが2016年にハマったものでも振り返る。(※ようやく「ユーリ!!! on ICE」の話) - センチメンタルの涅槃)

 “普通の”というのはつまらないってことじゃあない。

同性同士であることの意味や理由よりも、カッコ付きで言うならば“単に”、人物と人物同士の出会いと愛情の物語である側面が強いということだ。

いいじゃん。同性同士の普通のラブストーリーどんどん増えようよ。とこういう作品が増えていくのは喜ばしく思っている。

 

というラブストーリーとしてのプロットと魅力の話をするならば、少なくとも個人的には、「ムーンライト」とかよりも全然ラブストーリーとしての面白さがあると思ったし、2人のキャラクター、というか出で立ち・空気・立ち振る舞いすべてに、互いが惹かれあう肉体の説得力があっていい。

 

 思春期のモヤつきと何かに拗ねた感じを体現するような17歳の少年エリオと、「まあそりゃ少年は惚れちまうわな」って誰もが納得するような、明朗な知性と魅力溢れた、けれども「いつも俺を置いていく男」としてのオリヴァー。

 

オリヴァーについては、いったい何の意味があるのか伏線なんだかもよく分からない些細な動作についてのカットが幾度か挟まれている。気がする。

つまり恋なんていうのは、何か大きなターニングポイントみたいなひとつの出来事なんかじゃなくて、どうしてだか記憶に焼きついてしまったあの断片とこの断片との積み重なりなのかもしれないなとも思う。そういう恋の話を表現するのって、たぶん凄く難しいのだけれど、この映画はちゃんとそのあたりの説得力がある。

エリオの視線を通して知るオリヴァーについて。卵をうまく割れない男。もらったジュースを一気に飲み干してしまう男。でも、大学教授の父の説に言い返せる知性のある男。「後で」が口癖の男。町を案内したのに、“じゃあ”と自分を置いていってしまう男。

この視線による語りと、積み重なる、“について”の獲得こそが、彼が彼に恋に落ちていく物語であり、そしてこの、「魅力的な、でもいつも自分を置いていく男」感が、どこか始終不安な恋の切なさという焦燥と感傷を我々に思い起こさせる。

 

そして、タイトルにも現れている、2人の恋についてのテーマもいい。

「君の名で僕を呼んで」

むろん、同性だからこそその思いはより強く、という面はあるんだろうけども、たとえ同性同士じゃなくとも、

同じネックレスをつけたり彼のシャツを欲しいとねだったり、好きすぎるあまり自分があなたになりたいと思うような、或いはあなたのようにというよりもはやあなたになりたいって憧れこそを恋だと思ってしまうのか、どちらが先なのかは分からないけど。そういう半ば倒錯めいた気持ちは分かってしまう人って結構いるのではないか。少なくとも私は分かる気がする。

自分の切れ端を相手に見出そうとし、相手の切れ端を自分に取り込もうとするような。あの感覚。

だからこそ、最後、母親に自分の名を呼ばれ振り向くシーンが、なんというか"クる"のだ…。

 

ああ、なりたかったあなたはもういなくて、俺は俺だったんだなって。

 

 

 

2018.5.4 16:40~ アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル@TOHOシネマズ新宿

 

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 自分は92年生まれなので、実際のトーニャもナンシー襲撃事件のことも実を言うとろくに知らない。なので、スケオタ的にはこの映画って、どういう立ち位置なのか全く把握していないが、とりあえず映画として普通に面白そうなので観ることにした。

 

で、とても面白かった。

 

「バカがバカなりの浅知恵と妙な思い切りで何かをやらかしてしまった結果、マジで深刻な取り返しのつかない泥沼と化していく感じ、『ファーゴ』」みたいなことをTwitterで誰かが言っていてなるほどなあと思う。クズしかいない家族を切り捨てられきれなくて、振り回され人生がハチャメチャになっていく(ただし本人も本人で割とクズ)、という意味では「全員死刑」みもある。

「アイ,トーニャ」は、「付き合う人間は選ぼうね」ほんとにほんとに、って強く思う映画なんだけど、生まれてくる家族は選べないというところに不幸の根がある。

「アイ,トーニャ」では最後に実際のインタビュー映像も流れるのだが、観客が、「そこはさすがに脚色だろ」と思っていた部分が割と実際にかなり忠実でそのまま再現してるだけ、っていう点にビビる、という面でも「全員死刑」感。「全員死刑」は2017年個人的ベスト映画だった。私はそういうブラックコメディが大好きだ。ちょっと期待していたこの前の「素敵なダイナマイトスキャンダル」がかなり肩透かしだったので、「アイ,トーニャ」が実際の話に基づく半ドキュメント的映画として面白いものだったというのが嬉しい。

 

毒親にDV夫に妄想狂の友人に、クズとバカしか出てこない映画の中で、もちろんトーニャ自身も全く以て品性や理性や知性のある人間とは言えないのだが、私はこの映画の中に出てくるトーニャを全然嫌いになれなかった。むしろかなり思い入れてしまった。

DV夫をバリバリに殴り返したり、自分をバカにする奴らに中指を突きつけ、クソ食らえが口癖で、演技後はガニ股でキスクラに座り、得点に納得いかなければジャッジに食ってかかる。

こういう、悔しさと怒りこそを闘志にして、くそったれがという中指を飼って、「オリンピックでこてんぱてんにしてやる」と言うような有りざまってのは、やっぱりこう、めちゃくちゃグッときてしまう部分がある。

芸術点が低いため得点に伸び悩むトーニャが、「トリプルアクセルを跳ぶ。それしかない」と言い捨ててリンクを去っていくシーンなんか、凄くいい。

 

のだが、結局フィギュアスケートなんてさあ、元々金持ちのスポーツの上に、「ふさわしい」人格なんてものは、周りに然るべきご立派な人達に恵まれてこそ形成されるもんなんだよな

 

なんて、

いつ殴る蹴る地雷があるのか分からない父と、ヒステリー母とに大いに恵まれた私は若干のやさぐれた気分にもなる。私も、テストで100点でも学年で2位でもピアノのコンクールで賞を獲っても今まで親に褒められた記憶というの、マジで一度もない。

 

で、そもそも「ふさわしい」人格って、何なのよ? という問いが生まれてくるのだ。

 

実際がどうなのかはともかく、この映画でのトーニャは、「労働者オンアイスか?」と観客にヤジられる(まあ厳密にはこのヤジについてはもう一つ捻った裏があるのだが)感じの人間で、品性と「美しきアメリカの家族の理想」をフィギュアに体現して欲しいジャッジ達に嫌われ芸術点を低くつけられる。まあそんなことが本当にあるのかはさておき、トーニャはそう思い込んでいる。

そして、「スケートができるだけじゃ駄目なわけ?」と嘆く。

 

確かに私たちは、技術と超人的強さを持ち、かつ聖人のような人格を持つトップアスリートが大好きである。羽生くんとか。私も大好きである。

しかし、聖人のような人格は、アスリートにとって、あくまで「オプション」であるべきといいますか。

俺達がそういう人間が大好きなことと、この世すべからくのトップアスリートに、「ふさわしい」素晴らしき人格までをも求めようとすることは、違うんじゃないかとも思うのだ。

 

という具合に、「スポーツ選手と人格問題」「フィギュアスケートのジャッジに於ける“芸術面”とは問題」 とか、バカとクズしか出てこない映画のようでいて、フィギュア好きにとっては色々示唆に富む作品だとも思うのだが、一番ハッと鳥肌が立ったのが、

現在の地点から過去を振り返るという体の「インタビューパート」でのトーニャが、

 

「有名になれば楽しいと思ってた」と吐露するくだりからの表情と展開だ。

 

「私は愛された、一瞬だけ。そして嫌われた。メディアに敵にされた、あんたに」というような台詞。

 

この、“あんたに”っていうのは、 映画の物語的にはもちろん、今トーニャをインタビューしている“あんた”(メディア)に向けた台詞なのだろうけど、効果的には、我々一人ひとりに向けられた言葉のようで、女優の演技の凄みも相まって、めちゃくちゃゾクッとする。

 

これはもちろん、「スター」や「敵」を求めているのは、ほんとうは、私達ひとりひとりなのだ、というメッセージに対してハッとしたということでもあるのだけれど、それ以上に、マスコミやメディア云々、それ以前に、私たちにどうしたって内在しているらしい、<見たいようにしか見えない>認知の歪みについて考えてしまったのである。

 

この映画は、おそらくかなり意図的に、トーニャ側の「言い分」をそのまま取り入れて描いている。

そしてラスト、トーニャは、「これが真実よ」と言う。

こうした作りになっていることそれ自体が、「事実」と「真実」と「(我々)世間」とそれから「世界」にまつわる関係についての皮肉になっているようで、凄く良い。

私たちが見たいようにしか誰かを見ないのと同様に、トーニャにとっては「これが真実」として存在しているのだ。

 

というのは、結局のところ“真実”なんていうものは、ひとつひとつの事実の取捨選択と解釈の積み重ねでしかないのである。

たとえば私も大学生のとき、バイトからの帰り道に偶然、道の向こうからゼミの先生が歩いてくるのが見えた。先生は、当時付き合っていた恋人(現・奥さん)を隣に連れていて歩いていた。学生にプライベートを見られてやばい、と思ったのか、先生は彼女さんに何かを告げるとさっと路地を横に曲がってしまった。

 

…というのが、私の中の「真実」としてずっと頭の中にあったのだが、一年ほど経って実は先生の中ではそうではなかったらしいことが判明するのである。

 

先生は、一応挨拶をしようと思って、手をあげかけたのだけれど、私にさっと顔を逸らされたので、手をおろしそのあと道を曲がった。のだという。

だから、先生にとっては、「私に顔を逸らされた」というのが「真実」としてあったのだ。

顔を逸らしたのかもしれない、でもそれは、あんまりじろじろ見たら失礼かなと思ったからだと思うし、私は自分がそうしたとは覚えていなかった。

 

先生は恋人と歩いているときに教え子である私に遭遇し、道を曲がった。

これは事実である。しかし、その事実に対する取捨選択と解釈は、一つではない。両方、嘘をついているわけでもないし「事実」を歪めようとしたわけでもないのに、私にとっての、先生にとっての、「あの時の話」が存在するのである。

 

世の中なんて得てしてそういうものなのかもしれないなあと思う。

たとえメディアが歪めなくたって、私達はこの世界について、見たい物語しか見ることができなくて、「私が思うから私の中ではそうなっている」ことが山ほどあるのかもしれない。世界中の人口のぶんだけ。

そのことになんとなくゾッとする。

 

 

2018.5.4 19:30~ タクシー運転手@シネマート新宿

 

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もちろん社会派ドラマとしての大傑作ではあるし、ゾンビと一緒にすんなと怒られそうだけど、映画としての作りと面白さではかなり「釜山行き」に近いもんがあった。「追ってくる恐怖」についての静動・緩急あらゆるバリエーション、見せ方の巧さ。

“何か尋常ではないことが起こっているらしい”

という恐怖の断片断片を徐々に提示し登場人物と観客の緊張感が高まったところで、ドーーーン!!! と惨状を見せる画の巧さも同様。

 

あと、自分たちの身の回りのことが一番大事で、もっと大きな脅威やそれに犠牲になる人々は、俺たちには何もできないんだからほっとくしかないじゃんさあ、みたいな主人公が決意し立ち上がる感動とかも。

(ついでに、おじさんと学生さん、という組み合わせにおける「学生さん」の使われ方も…ああいう使われ方って韓国映画のトレンドだったりするのかな…)

という意味で、社会問題提起映画でありながら、ゾンビ映画的?ホラー・サスペンスとしても、通常混じりえなかった人間同士が共に何かに立ち向かうバディ物としても、 完成度が高いというおそろしい代物である。最後には派手なカーアクションまであるし。

 

なので、色々な楽しみ方や受け取り方がきっとあって、この映画は、観る人によっては、

「大抵のマスコミなんか、権力からの圧力や虚偽隠蔽にまみれたクソみたいなもんだ! この映画の主人公たちみたいに、俺達が“真実”を発信するために立ち上がらねば」みたいな感想を持つのかもしれない。確かに、そうやって、真実を世に伝えるために奔走する作品なのだけれど、私はむしろ、こうした、「ジャーナリズムの持つ力」とは逆のことをこの映画に読み取ったのだった。

そしてその点こそが私が一番グッときたところであった。

 

「タクシー運転手」は、マスメディアの持つ力の大きさと同時に、メディアやジャーナリズムの「無力」についても描いているのではないかと思う。

 

タクシー運転手は客を目的地に送り届ける。

記者は今ここで起こってしまったことを世の中に届ける。

 

“記者は今ここで起こってしまったことを世の中に届ける”ことが仕事でつまり、“記者は今ここで起こってしまったことを世の中に届ける”以上のことは、できない。

 

というのは、記者は、報道することは出来ても、目の前の問題自体を今ここで解決する力は持たないのだし、今ここでカメラを向けて真実を世の中に発信しようとすることと、今ここで死んでいこうとする人々を救うことって、時にはどうしても矛盾するのである。

黙ってこの惨状にカメラを向けてる場合じゃあないんじゃないか。カメラを投げ出してでも、あの、怪我をしている人を救いに行くべきなんじゃないのか。目の前のこの人を犠牲にしてまでも、この映像を世の中に出さんとする行為は、果たして倫理的に正しいことと言い切れるのか。

 

こういうような矛盾は、震災の際の報道についてもたまに言及されるのを見かける。撮ってる場合じゃねえだろ、とか。

映画の中のドイツ人記者も、この矛盾に絶望し、葛藤する場面が2度ある。これこそが自分の使命なのだと信じられなくなりそうになる瞬間が。

 

それは、自分たちを逃がすために犠牲になってしまった学生の遺体の近くで。

それは、軍の銃弾で目の前で人々が次々に倒れているのに、仲間たちが軍に立ち向かおうとしているのに、そんな倒れた人達を必死で救出しようとしているのに、自分は一刻も早くここから立ち去って映像を届けねばならないとき。

 

しかし、周りの人々はそんな記者に、「撮れよ」と言う。

 

お前は記者だろ、記者はこれを世の中に伝えるのが仕事なんだろ。この惨状を、この死体を、全部、全部撮れよ。

 

お前たちは早くソウルに戻って、この真実を世の中に届けてくれよ。

 

そうして記者は、ああでもこれが、自分の使命なのだという決意を取り戻す。

それがめちゃくちゃグッと来る。 

 

私達が出来ることは本当に一部分で、ひとりひとりではほんの一部分のことしかできないのだ。そう割り切ったり諦めたりしてしまうのは、この世界に疲弊しないためのある種の防衛機制の面があるのかもしれないけれど。だからって、そんな無力感に負けてはいけない。

どうせ自分が何かしたところでというひとりひとりの無力感が積み重なることで、もしかしたら取り返しのつかない大きな惨状を生み、私は自分の仕事を遂行するのだという誇りたちの相互作用が、時として偉大なことを成し遂げるのだ。

 

 

2018.5.6 15:40~ 名探偵コナン ゼロの執行人@TOHOシネマズ新宿

 

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この10年来、いくら友達が好きとか言ってても、正直、コナンなんて子どもの映画っしょ?

って思ってたのでスルーしていたのだが、周りやTLの腐女子コナンの話しかしてないし、ハイローで先入観はよくないことを学んだし、ズートピアは2016年ベスト映画だったし、腐女子業に携わる者としてこれ以上存在を無視しつづけるのも正しくない姿勢のような気がして思い切って、えい、と観に行った。

 

 

……うん。

 

 

いや、確かに安室さんはかっこよかったのはわかる。

そんなバカな!?って凄まじいドライビングテクニックとか、コナンくん抱えて銃撃つとことか、「安室夢女子にとってのライバルは国」であることを理解する例の名シーンとか。 

分かるけど、ごめん。

「不汗党」でぜんぶ忘れた。ごめん。事前に過去作を履修して安室さんの思い入れを強めていかなかったのと、「不汗党」(日本公開タイトル「名もなき野良犬の輪舞」)を同日に観たのがよくなかった。

とりあえず、赤井という男のことも知りたいので、純黒を宅配TSUTAYAのリストに入れました。

 

 

2018.5.6 18:10~ 名もなき野良犬の輪舞新宿武蔵野館

 

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は!?!?!?!?!?!?

こんなん、少なくとも今後10年は「男2人映画の金字塔」として君臨する大傑作じゃん!!!!!!

 

 

 

 

何で武蔵野館ガラガラだったの!?!?!?!?

腐女子、マジで「君の名で僕を呼んで」ばかりに着目してる場合じゃないよ!!!!!!

こんな…こんなに凄まじいラブストーリーがここに……

御託はいい。今すぐに観ろ。こんな大傑作が腐女子にスルーされていいはずがない。 

…と「不汗党」については単体ですばらしポイント書きまくりたいのでつづく(たぶん。…たぶん…。)