センチメンタルの涅槃

読書、漫画、映画感想用。中二病と喪女をこじらせた25歳。ボーイズラブの話多し。https://twilog.org/Barako_Fu

春と阿修羅【後】

 

2018年5・6月の羽生結弦について振り返りたい話・前編↓

barakofujiyoshi.hatenablog.com

 

 

三、まずい発見

 

先日、鯛野ニッケ先生の新刊「キスしてシュガーくん!」を読んでいたとき、

なんか、ちかごろBL漫画界隈、所謂「2.5次元」モノや2.5次元周辺文化・現場文化を題材にしたもの、増えたか…? とふと思った。

オタク業界への鋭敏さが求められる職種についていながらそれもどうかと思うが、私自身は、2.5次元文化を全く嗜まない。とはいえ、幼き頃は本と漫画だけが友達だったオタク達が、成長し少しばかりの自由になる財力や、SNSで自分と同じ趣味を持つ人間との繋がりを得るようになると、所謂“現場”にのめり込んでいく気持ちと風潮は、何となく分かる。

 

同じ時に同じ場所で同じものを見た、何千、何万人もの人々と即座に感想や感情を共有出来るのは、「○○が面白くてー」と翌日クラスの子に言っても「何それ」とスルーされ続けてきた青春を送るオタクにとってはとても愉しいものだし、

舞台やイベントは水物、という要素も大きい。同じ公演内容や同じプログラムであっても、今ここの公演は今ここにしかない。

下手をすれば映像に残らず一生自分はそれを見る事が出来ないかもしれないし、仮に映像になったとすれど、その時その瞬間の感情や感動は、その時その瞬間にしか味わう事が出来ないのである。

だから、絶対にこの瞬間を逃してはならない…!と余計にのめり込んでしまう。

 

 

 

……というのは理想論であり、少しばかりの財力は私の場合まじで少しばかりなので、ファンタジーオンアイスも、幕張初日と新潟楽日と静岡楽日しかいけなかった。(ほんとは幕張初日しか行かない予定だったのだが…おかしいな…)

だから、私はほんとに、ほんとにほんとに、神戸公演に行かなかったことを――行けなかったわけではない、何かをどうかこうにかすれば行けたはずなのに――例えば臓器を売るとか…――行かなかったことをはちゃめちゃに後悔したのである。

 

というのは、神戸公演にだけ、あのフィギュア界の皇帝・プル様の愛息子、アレクサンドル・プルシェンコ(通称サーシャくん・5歳)が出演したのだ。

むろん、サーシャくん自体も見た過ぎるし、羽生ファンにとったら、プル様・羽生・サーシャくんが一堂に会する光景というのは、あまりにもアツ過ぎる場面であろう。

何がアツいのかはもはや説明不要だと思うが一応言うと、昔は髪型を真似していたほど羽生自身はトップ・オブ・プルオタであるし、そんなプル様の息子・サーシャくんは羽生くんに憧れているという、推しの息子の推しが自分で、推しの推しが自分の父親で、おれがあいつであいつがおれで?まあともかくアツい三者関係なのである。(説明放棄)

 

 

5歳にして既に大貫禄・生まれながらのスターとも言うべきサーシャくんの存在と立ち振る舞いの魅力語りについてはいずれとして(長くなるから)、そんな、絶対に見た過ぎるプル・羽生・サーシャの中でも、更にあまりに絶対に見た過ぎた場面があった。

FaOIお馴染みの、フィナーレ後、各スケーターたちが各々の持ち技やジャンプ等を披露していくくだり。

神戸一日目は、サーシャくんと羽生が二人で真ん中へ向かい、二人でヘランジをやったそうなのだが、二日目、サーシャくんは、ひとりでできるもんとばかりに一人でつつと躍り出た。

 

羽生くんは、そんなサーシャくんをしゃがみこんで待ち構え、両腕を広げて待っていた

 

……のだが、ものの見事に、サーシャくんには見向きもされず、真っ直ぐにパパ(プル様)の元へと向かったサーシャくんの前に撃沈するのである。

 

 

は???? 何でそんなクソ最高の瞬間を!!!!  私は!!!! この目で見なかった!!!!!!

と、私はそのレポを目にした瞬間、臓器を売ってでも神戸に飛ばなかった自分をタコ殴りにした。

 

 

 

この、何が最高かって感覚を、言語化するのは結構難しいのだが、まあなんというか、「羽生の有り難みが通じなかった」ってのが面白いのだ。

 

プル様の息子・サーシャくんが羽生の腕に向かい抱き寄せられる。

なんと感動的で可愛くて有難い光景。

そんなの見たいに決まっている。

…というのは大人の論理であり、子どもはまあ、そんなことは知ったことではない。

 

羽生結弦という有り難みを以てでさえ、「パパのがいい」という幼児のごくごく自然な感情の前には敗北するのである。

私はそのことに、ああ、そうか、そうだよな…!とハッとすると共に、敗北し撃沈した羽生くんと、大人の論理&期待など露知らず真っ直ぐにパパへと向かっていったサーシャくんが、凄く面白くて可愛かった。

 

 

 有り難きことに、この神戸公演と、羽生×サーシャたんの御姿は、後日、BSにてばっちり放映された。 

私はその面白可愛すぎる貴重映像や、しかし懲りずに(?)、最後撮影のため(?)一列に並ぶときもプル様の腕に抱かれるサーシャくんに、ぐいぐいーっと頭を寄せて萌え萌えしている羽生くんの姿を100リピートくらいした際、なにか、あるひとつの既視感を覚えたのだった。

 

グリグリとサーシャに頭を寄せる羽生くんの笑顔と、無表情を崩さないサーシャくん(この表情が変わらない感じがまじで最高なんだよな…)の姿から抱く、この拭いきれない既視感。

この既視感…

 

 

もしかしてあれか。 

 

 

あれとか。

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 あれとか。

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あれだ。

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あーーー完全にこれだ!!!!!!

 

 

これによって、私はひとつの非常にまずい気付きを得てしまったのである。

私は何か、思い違いというか、自らの羽生結弦像に自覚的な羽生結弦が好き過ぎるせいで、少々穿った見方で見ていたのかもしれない。 

べつに羽生くんは、サーシャ×羽生とか見たいに決まってるって大勢の観客の期待に応えようみたいな気持ちがどこかに若干あったとかそういうことではなく…

 

 

……あれですかね?

もしかして、これ単純に、羽生くん、まじで構いたかっただけっていうか、いやそれだけならともかく、それプラスアルファ、しかも、相手がつれなければつれないほど、余計にグリグリ構いたくなるタイプってことなんですかね…

 

 

 

奇遇だな。超気が合う。

だって私もまったく、まったくそのタイプなのだ。

すなわち、相手が自分に冷たくそっけないことに、余計に燃えと萌えを感じるタイプ。

私もまた完全に、(この、笑わないのがいいんだよな…!)って方向で、神戸以来サーシャくんの虜になっている。 

 

 

しかしこれは私にとって非常に都合の悪い発見であった。

というのは、ご存知の通り(ご存知の通り?)、私のこれまでの羽生妄想はほぼほぼ全て、

 

その1⇒[R-18]「現実として現れるであろうあらゆる恋のためのプロレゴメナ(妄想集)」/「藤吉ばら子」の小説 [pixiv]

その2⇒「現実として現れるであろうあらゆる恋のためのプロレゴメナ2」/「藤吉ばら子」の小説 [pixiv]

その3⇒「現実として現れるであろうあらゆる恋のためのプロレゴメナ3」/「藤吉ばら子」の小説 [pixiv]

 

「私のハイテンションなウザ絡みに対して羽生が塩対応をかます(たまにデレる)」という見事なまでのワンパターン構成によって成立している。

この場合、「気が合って」しまってはいけない。二人共が、相手がそっけないほど構いたくなるタイプであってはいけない。どちらか片方がそのウザいタイプで、どちらかがそっけなくないとこの二者関係は成り立たない。

いやほんとは、薄々、薄々、多分実際は羽生くんも割とウザ絡み「する方」の人だろうなってのは、分かってはいたのだが。いたんだけどさ。

 

 

…いや、だから何だ。何がどう問題なんだ。

 

 

という声が四方八方から聞こえる。むろん私もそれは分かっている。

もちろん、よく考えなくても最初から最後まで全てもはや何もかも妄想なのだから、何もまずい事はないのだ。自分の好きなようにでっちあげ捏造すればよいだけの話である。

しかしなあ。

それだと、妄想の楽しみが半減のような気がしてしまうのだ。

 

「解釈違い」という言葉がある。

たとえば、「飛影はそんなこと言わない」というやつだ。

「二次創作」という「妄想」の前段階ないしは前提として、「解釈」という行為が存在し、この「解釈」の相違はときに宗教戦争に発展するほどの超重要問題である。

 

妄想の前段階としての解釈とは。

 

○くん(○ちゃん)は、

(原作内で)「A」という事柄に関して、「B」という発言ないしは行為を行った。ーー(観察)

つまり、ここから考えられるのは、○くん(○ちゃん)は、「C」という人間でありーー(考察と解釈)

であるならば、

「D」という事柄に関しては、「E」という発言or行為を行うであろうーー(妄想)

 

もちろんこれは人によって違うだろうから、完全にゼロからのでっち上げ型も当然に存在するだろうけれども、私はこの、観察―解釈―妄想を1セットとして楽しむタイプの人間なのだ。私にとって「妄想」とは、現実に散らばる要素要素と要素への解釈を再構築する試みであるのだ。何か無駄にカッコつけて言ったが。

 

ゆえに、自分の中に、「いや羽生くんってそういうタイプじゃないでしょ」というべつの自分の解釈が入り込んでしまうのは、結構、まずい。

 

 

ということで実を言うとここ最近、いつもと趣向を変えて、逆に、「羽生くんがウザ絡みをして私が塩対応」パターンを考えてみようとした。

例えば、私が全く微塵も興味がない野球観戦とかだったらいけるかもしれない、とか。

夜遅く、帰宅した羽生くんが、「ちゃんと録画した?」と言って、その少し前に放送されていた野球の試合をテレビで見る。私はしばらくは付き合って隣で観戦するのだけれど、まじでまったく興味がないので途中で半分寝こける。その試合はどうやら、羽生くんの推しのチームが勝ったらしいのだが、そのことに興奮全開なのに、一方の私が半分寝ているのが気に食わない&アドレナリンの矛先が欲しい羽生くんは、

「ねー寝ないで!! ほらこの○○の見事な××見て!!!」

と揺り起こそうとする。

もー眠いんだけど、と嫌々起きる私の顔を、羽生くんは両手でむぎゅと摘み、

「ねーなーいーでーー」

と頬を引っ張ってくるものだから、

「ちょっと痛いいたいうるせえなもー」

 

 

……は?…いや、無理っしょ。

 

そんなハイパーぎゃんかわソースウィートくそあざと可愛い羽生くんを前にして、

「は???? かわいすぎか????」

って顔を覆って歓喜しない人間とかこの世に存在するわけないっしょ。うるさいなーとか言うわけないっしょ。馬鹿かよ。そんな展開あるわけねえだろ。はいはい却下。

 

羽生に塩対応する私、完全に私と解釈違いっす。

 

袋小路である。

 

 

四、春と阿修羅

 

2018年のFaOI後半(神戸・新潟・静岡)で羽生くんが滑ったのは、ピアニストの清塚信也さんとのコラボ、ユーミンの「春よ、来い」を原曲としたプログラムだ。

 

「春よ、来い」。

一言では印象を説明できない不思議なプログラムである。

ライトに反射する衣装の清廉な煌き、背に誂えられたひらひらが羽衣の如くたなびくさま、白く発光するその御姿とも相まって、多くの人が言うようにまさに「天女さま」のような現世離れ感と尊さがある…のは確かなのだけれども、そんな天上への誘いといった印象の中にも、なにか、若芽の無垢さやあどけなさといった雰囲気もある。

そして、後半に向かうにつれどんどんと勢いと速さを増す滑走に、若芽が息吹くときの強き生命力のようなものをも感じる。

この世のものではない感と、いのちの力強さ。がなぜだか両立する不思議。

普段のハイドロより更にもう一段ぐっと身体を低くし、まるで氷に口付けるかのようなハイドロキッシングの耽美さから、氷を掬いあげぱあっと舞くときの歓びに満ち溢れたさま、と、雰囲気や表情が瞬時に切り替わっていくのも見事だ。

でもこうしてどんなに言葉を尽くしても、まことのことばはうしなはれたように思う。

 

羽生くんがこのプログラムに込めた「春」の意味は様々というが、そんな色々な春のたとえとして、「たとえば失恋したときに、“春、来ないかな”とよく言ったり…」と発言したらしいと知り、私はすこぶる動揺しまくった。

 

 

 

しかし、動揺しまくった後、この失恋についての更なる解釈を深めるために、また歌詞などを再確認しているうちに、ひとつの、考えてみれば当然のことに思い当たった。 

「春の天女様」たる羽生の印象が強すぎてうっかり気が付かなかったが、

「春よ、来い」って、もしかして“春の歌”ではない…? 

 

何故ならば、今現在が春である状態にある人は、『春よ来い』とはべつに願ったりしない。

「春よ、来い」(来て欲しい)という事は、「今現在」の時点では、春が来ていない≒春ではない、と、論理的に言えばそうなる。

かといって、では春が来ていない=冬の歌、なのかというと、そういうことでもないように思える。

 

私は、FaOI新潟以降、この「春よ来いは春の歌ではないのではなかろうか問題」について考えていたのだが、FaOI静岡楽日のさなか、あるひとつの解釈に行き当たった。

 

ああ、これは。

これは春を待っていた私たちの数ヶ月。春のゆめ。 

 

 

順調にいけば五輪金メダル候補筆頭と多くの人が思っていたのに、もしかしたらGPF5連覇の偉業に王手をかけていたかもしれなかったのに、突然の怪我でその道のりが暗がりに塞がれたようにも思えたあのとき。その蕾の先でさえ雪に閉ざされているようにも見えたあのとき。

春の訪れを待ち望んでいたのは私たちではなかったか。まだとても遠いような気がする春を。

 

そう思うと、回り回ってやはり、「春の天女様」という印象は非常にこれ以上ないほど適切な表現である気もするのだ。

つまり、あれは、あの羽生くんは、今ここにある現実の春というより、春の到来をのぞむ私たちが見る、「願望としての春」なのではなかろうか。

夢に見る春。願望としての春。今ここにはない――だからあのプログラムには、この世のものではない貴さがある、のかもしれない。

 

 

そう思ったとき、FaOI静岡最終日、トリを務める羽生くんが氷上に立った瞬間、まだ「羽生結弦が五輪を二連覇していない世界線」の焦燥や恐怖や心配と、そこから、あまりにあまりに鮮明に覚えている「羽生結弦が五輪を二連覇する世界線」に移行した瞬間の記憶と、「羽生結弦が五輪を二連覇した世界線」で起こった数々の喜びが、走馬灯のように思い起こされたのだった。

 

 

しかし、この2018年。

現実の私たちに春をもたらしてくれたのは、妖精でも天人でもない。

ひとりの闘う人間の並々ならぬ勝利への執念と努力なのだ。

この世のものではない感と、いのちの力強さ。といった印象がなぜだか両立する不思議は、このことによって説明され得るであろう。

阿修羅が春をやっているから。 

 

それは「もたらした」なんて言葉ではたぶんとてもとてもぜんぜん不適切で、掴んで引きずり込んだとか、そういうような。

 

 

【以下・2018年7月14日追記

 

……というところで綺麗に終わらせられればよかったのだが、私は先程、7月14日に放映されたFaOI新潟の動画を何度がみているうちに、もうひとつの物語と解釈を受信することとなってしまった。

やはりどうしても行きたくなって、前日突発的にチケットを取ってしまったFaOI新潟での「春よ、来い」、あれ、神戸のと結構振りが違う…?って思っていたのだが、先程映像で見返すと、確かに幾つか違いがあった。

 

その、幾つかの違いの中で印象的だったのが、表情が優しく穏やかなものになっていると共に、全体的に、「氷に触れる動作」が増えている、というあたりだ。

ハイドロキッシングのあと、アイスシャワーをやるために氷を掬いあげるとこもだけれど、スピンの際に両手をつくようにし氷をすくい慈しむように見つめながら立ち上がるように変わってるところや、そのあと、神戸では、ピアノの前で、もっとこう殻を破るが如き力強さのあった身体を斜めに捻り回る動作も、新潟では、そっといちど氷に優しく手をつき、その手を見つめており、全体的に氷への穏やかな愛と慈しみ感が増しているのである。

 

そして、更に翌週の静岡では、ついぞハイドロキッシングがまじもんのハイドロキッシング(口づけ)と化していたわけだ。

これまでは、一回ハイドロに入ってもう一段階グッと身体を下げるだけだったのが、静岡では、一回一段下げて、一度少し身体上げてまたもう一度、一瞬、チュって感じで…たまらんのだが…しかし。

 

しかしだ。

 

この事実と、羽生が発した「失恋」というワードと、私が静岡で察した「羽生夢女子の最大のライバルは氷」という気付き(気付きっつーかただの妄想)を統合すると、ひとつの物語が見えてきやしないだろうか。

 

すなわち、これは、変化過程をも含め、このファンタジーオンアイス後半部通しての「春よ、来い」が示すものは、羽生くんと氷がその愛を取り戻していく物語…なのではなかろうか…!

 

くっそお、そうとも知らず私はよお!!!!

幸せになれよ!!!!

 

 

というのはむろん嘘(そうとも知らず私はよお、の部分)だ。

本心を言えば本当に、幸せになってくれてよかった。

なぜならば、羽生さんは実のところこの冬、長いあいだ氷の上に立てなかった期間があったのである。いつも入るたびにその手に触れてもらっていた氷は、とてもとても寂しかったであろう。悲しかったであろう。どうして、と悲嘆にくれた時もあったのかもしれない。だから羽生さんが戻ってきてくれたとき、氷はその愛を以て全力で味方をした。

おかえり、と、ただいま、という声が聞こえるようだ。

 

 

五、迎春に寄せて

 

旧暦と新暦のカレンダーが少しずれる私たちの国では、新年を迎えることを「迎春」とも言う。その意味で、今年はまさにこれ以上ないほど、「迎春」という言葉がぴったりの幕開けであった、と思ふ。

今7月だろうが、っつーのはその通りなのだが、スケートファン的には、新シーズン開始時の7月1日が新年の開始らしい。

嗚呼、げに新年の幕開けにふさわしい晴れ姿をこの目に焼き付けることができて私は。

特別に誂えられた袴姿で堂々と首相官邸に入るその御姿には、まあ、ご立派になられて…と国民一億総じいやばあや化したことであろう。 私もした。何なら見てもいない20年間の走馬灯すら流れた。

 

 

しかし私はこのことについてよくよく考えてみるとむしろ、これだけ多くの人が、じいやばあやにしか、“ならない”事の方にこそ本質があるのではと、ある時ふと思ったのである。

つまり、羽生結弦は、国民的孫ではなく、いわば「国民的若様」なのではないか、と。

 

 

 

…っていういい話ぽいことを言ってなんか伸びてしまったのだが、むろんこれは、日頃そんな国民的若様のことを恐れ多くも基本やましい視線でしか見ていない&大体「羽生が自分の夫だったら」という前提で話を進めがちな、過激派ガチ恋勢夢BBAの私が言っているというギャグである。私は大体やましい視線で見てますけど、という話である。

 

 

とはいったって、私だって、ご立派に成長しあそばれた若君を慈しみまつり上げるような気持ちも、べつに嘘ではないのだ。

 我々にはしばしば、Aという感情は嘘ではないが、それはそれとしてBという感情もある。といった心理状態が生まれる。

これまで散々さんざん書いているけれど、私は羽生くんについていつも、あらゆるアンビバレントな気持ちの葛藤があるのであったし、新年早々また、

堂々とした袴姿で首相官邸に入ってゆく羽生くんがあまりに立派過ぎて&その翌日には、被災地の小中学校へと赴く羽生くんがあまりに偉大過ぎて、ほんとこんな素晴らしい人に(何回みても首のほくろがかわいい…絶妙な配置…)とか欲望を吐露してる場合じゃねえぞお前はみたいな申し訳なさ&自分をぶん殴りたい気持ちと、羽生若様&はにゅうせんせいクッソ超かわいい…好き…という過激派ガチ恋勢としての自分が猛烈に戦う羽目になった。

この世界で最もどうでもいい葛藤であるが、この2つの感情は、「それはそれとして」という言葉で繋がれる。

羽生くんは、ってか「羽生くん」なんて呼ぶのはおこがましいほど(まあそれ以外も色々図々しいことを書いているが)、偉大なことを成し遂げた立派な人間である。それはそれとして、かわいい。

 

羽生結弦が、良くも悪くも国民的若様たる自己の存在に自覚的ゆえ、その任を引き受け、先人や自らを形成した人間・環境・社会への感謝の気持ちと後人や未来への希望たらんことを忘れぬ一方で、それはそれとして競技では俺が勝つ、俺が一番という闘志全開なのと同様、私にとって羽生くんは、それはそれとしてかわいい存在なのだ。

 

何も同様じゃない。